医学界新聞

 シドニー発 最新看護便
 オーストラリアでの高齢者対策[第1回]

 痴呆症ケア(1)

 瀬間あずさ(Nichigo Health Resources)


はじめに

 日本においては高齢社会を現実に迎え,その対策が一層注目されるようになった。中でも,痴呆性老人対策は重要課題の1つとして認識されるようになったと聞いているが,その現実はオーストラリアにおいても変わりはない。
 オーストラリア政府は,1993年に『痴呆症ケアのための全国アクションプラン』を策定したがその内訳は,(1)痴呆症患者のアセスメント,(2)介護者への教育と情報提供,(3)ボランティア団体へのサポート,(4)痴呆性老人ケアの質を改善するための研修,(5)デイケア,ホステル,ナーシングホームでの痴呆症ケアの環境設計に関する適正実践マニュアルの作成,(6)痴呆症の研究,治療法の開発等をあげており,それぞれのプランを展開している。
 最近,日本からの研修生とともにオーストラリアの痴呆症ケアの実際を垣間見るチャンスに恵まれた。現場でいかに上記のプランが実践されているのか,その模様をお伝えしながらオーストラリアの痴呆症ケアについて,今回は述べてみたい。

痴呆症サービス開発センター

 「オーストラリアは,痴呆の施設ケアにおいて,アメリカなどに比べたら10年ぐらい進んでいる」と痴呆症サービス開発センター所長のリチャード・フレミング氏は語った。オーストラリアの65歳以上の高齢者190万人のうち,現時点で推定13万6800人が痴呆性老人とされている。そしてこのうちの約半数が,自宅で家族により介護を受けている。また残りの人たちはナーシングホームやホステルの入所者となっているが,それらの施設での痴呆性老人のケアの質の向上が大きな課題となっている。
 施設には,むろん正看護婦が勤務しているが,実際のケアを行なうのは,パーソナルケアアシスタントと呼ばれるほとんど無資格のスタッフである。したがって,このスタッフ教育こそがオーストラリアの高齢者対策における大きな課題であった。連邦政府は本年度より,上記のアクションプランの一環としてニューサウスウェールズ州(以下,NSW州)のナーシングホームやホステルなど,約500施設からのスタッフを研修に送り出し,現場で教育を図ろうとしている。政府より助成金を得て,そのスタッフ教育を行なっている機関が,「痴呆症サービス開発センター」と呼ばれる非営利団体である。
 センターの使命としては,(1)管理についてのアドバイス,(2)環境についてのアドバイス,(3)教育とトレーニングプログラムの提供,(4)情報とコンタクトを与えることがあげられる。また,サービスの対象者としてはナーシングホーム,ホステル,痴呆専門のユニット,デイケアセンター,ボランティアグループ,病院,建築家などを対象としている。高齢者ケア施設のスタッフは,このセンターが組んだプログラムの研修に参加するわけである。
 痴呆症センターは,高齢者ケアと痴呆症ケアサービスを専門として発展してきた非営利団体であるハモンドケアグループ(民間の高齢者ケアサービス提供団体)に属している。ハモンドケアグループは,早くから自らの経営する高齢者施設で痴呆ケアについて改善を図ってきた組織である。

シンクレアでの経験

 ハモンドケアグループが運営しているリタイアメントビレッジ(特別養護老人ホーム,軽費老人ホームなど,高齢者住宅が1つの場所にある)のハモンドビレッジ(ハモンド村)には,痴呆専門ナーシングホーム,虚弱老人ナーシングホーム,痴呆専門ホステル,インディペンデントリビングユニット(高齢者住宅)などが設置されている。その中の「シンクレア」と呼ばれる痴呆専門のナーシングホームを訪れた。痴呆専門のナーシングホームは,オーストラリアでもまだまだ少ない。シドニーには5か所ぐらいと,数えるほどしかないのが現状だ。
 シンクレアの始まりは,リタイアメントビレッジにある虚弱老人のナーシングホームで痴呆者が増えてきたため,その対策として,まず痴呆者だけを同じ場所に集めたのがきっかけである。
 現在看護部長補佐を勤めるナジャリアン氏が,23年間勤務した公立病院の精神科病棟を離れ,シンクレアの管理についたのは2年前。勤務初日に帰宅した彼は,「ひどい所に来てしまった」と妻につぶやいたという。それほどシンクレアは痴呆症老人たちが繰り出す音などで混乱していた。これらの改善のために,管理側が最初に行なったのが各入居者の評価であった。コンピュータを駆使した高齢者障害スケールという評価ツールを使い,どのようなタイプの入居者がいるのかをまず把握した。その後,歩行可能者と非歩行者を区別して,それからConfusion(不穏状態)しているか,Disturbed(動揺した,精神障害のある)かに区別した。そうして,不穏状態にある歩行者,同非歩行者,精神障害のある歩行者,同非歩行者に4分類し,それぞれにあった環境を提供できるようにナーシングホームも4つの部分に分けるなど工夫した。古い建物ではあったが壁を取り壊し,ラウンジや台所を作るなどできるだけ家庭に近い環境を設定した。環境づくりの一環として,忘れな草庭園という,痴呆性老人のための安全かつ刺激を与える庭(写真)を整えた。
 次のステップとして介護の質の改善にあたり,同じスタッフができるだけ同じ入所者をケアするようにつとめた。同時にスタッフの教育にも力は注がれた。その甲斐があって,シンクレアを見学するとわかるように,72名という数の痴呆性老人が入所されている割に,ホームの中にはある種落ち着いた雰囲気があふれている。
 「痴呆性老人72名」をケアしていると聞いて「さぞかし混乱,混沌としているんだろうな」という印象は,見学後ぬぐいさられる。施設の概略をあらかじめ聞いていなければ,虚弱老人のナーシングホームとなんら変わりない印象を持つことだろう。痴呆ケアのノウハウを心得ているだけで,こんなにも患者の状態が変わってくるものかと感心してしまった。管理によって,これほどまでに入居者の生活の向上が図れることは特筆すべきことだと思う。

在宅で暮らすこと

 高齢者施設だけでなく,施設に入所する前には痴呆性老人に対しても,多くのアプローチが在宅で提供されているのには驚かされる。ありとあらゆる手段を行使してまでも,在宅での生活を維持できるようにサポートし,その上で継続が困難な場合のみ施設入所になるわけだ。シドニーの訪問看護婦と一緒に家庭訪問したケースを紹介しよう。
 Mさんは84歳の未亡人で,痴呆症を呈しながらも在宅でのサポートを受けながら,自宅で1人暮らしを続けている。息子はシドニーに住んでいるが,週に1度家を訪ねてくるのみで,毎日の生活の助けにはなっていない。以前,同伴した訪問看護婦が訪れた時に,蜂窩織炎で右下肢は赤く腫れ上がっており,入院治療を必要としそのまま入院となった。訪問看護婦はその時点で,もう在宅生活は無理であろうと思ったそうだが,病院での治療後,施設入所にはならず自宅復帰することができた。それを可能としたのは,コミュニティオプション(利用者選択事業)という制度が利用されたためである。この事業は,一定額の予算の中で,高齢者のニードを何でも調達するというシステムである。彼女を担当するケースマネジャーが決められ,彼女にあったケアプランを立て,そのおかげで痴呆症があっても1人暮らしが可能なのだ。
 訪問時,Mさんはテレビのボリュームを大きくしてテレビを見ていた。訪問者を歓迎するために入り口まで出迎えてくれたのはよかったものの,何歩か歩くうちにスカートがずるずる滑り落ちてしまった。ウェストのゴムが緩みきってしまっているようだが,それを繕うにも繕うことができずにそのままにしているのだろう。訪問看護婦は,タンスから違う衣類を選び,着替えを手伝うことから始まった。しかしどの衣服を取り出してもボタンがなかったり,小さすぎたりする。衣類を整理することすら,すでにできないのだろう。そうこうしながら着替えが済んで,やっと本来の右下肢の包交を開始する。幸い潰瘍は軽快していた。包交後,手洗いをするために台所を垣間見たが,雑然としていた。ホームケアが介入して日常の家事,そうじをしてくれるものの,やはり限られた時間の中ではできることはそう多くないのだろう。痴呆のためにかつてできたことができなくなった高齢者を在宅でみていくことが,こんなに大変なのかと唖然としてしまった。しかし痴呆があるといってもMさんの話し振りは結構しっかりしていた。やはり1人ではあっても,住み慣れた環境で暮らしていることがプラスに働いているようだ。
 痴呆症ケアを取り巻く在宅,施設ケアの状況を垣間見て言えることは,少なくともオーストラリアにおいては,痴呆症ケアの未来には希望があるということであった。

この項つづく