医学界新聞

 Nurse's Essay

 きいてください,看護婦さん

 八谷量子


 災難はどこに転がっているかわからない。先日,通勤客で混雑する駅前交差点で,私は突然右顔面に強力なパンチを喰らい,危うく卒倒しそうになった。改札口を目がけて猛スピードで突進してきた若い女性と激突したのである。
 あわれ,私の右顔面は彼女の頭突きをまともに受け,KO負けしたボクサーのように紫色に腫れ上がってしまった。おまけに目が開かない。慌てた私は駅前ビルの1階にある眼科クリニックに駆け込んだ。私を迎えたのは30代半ばと思われる看護婦だった。
 「今そこで……」と言いかけて,私は口をつぐんだ。彼女が話をまったく聞いていないことに気づいたからである。彼女は少しも表情を変えず,マニュアル通りの問診を繰り返して立ち去った。行き場のない私の感情は宙ぶらりんのまま放り出され,不安といらだちだけが募った。
 「眼科の看護婦にとって,目を腫らしている患者なんて珍しくも何ともないんだ……」
 そう思いつつも,どこか釈然としなかった。手際よく検査が進み,
 「眼底には異状ありません」の医師の一言でようやく胸をなで下ろした。
 それにしても,私はなぜ看護婦に対して疎外感にも似たいらだちを感じたのだろう。

「看護婦は特定の人間に対して同感し,理解し,同情するが,患者に対しては決してそうはしない。おそらく,個人がひとたび『患者』と名づけられると,たとえ非常に微妙ではあっても非人間化のプロセスが始まっているのである。」(J・トラベルビー著:人間対人間の看護,医学書院刊)

 私はあの時,彼女に訴えたかった。突然の事故にあった戸惑いと不安の気持ちを。看護婦としての彼女ではなく,1人の人間としての彼女に聞いてほしかった。
 しかし,私は彼女にとってあくまでも「患者」という看護上の問題の1パートに過ぎなかったのだろう。たとえ言葉には出さなくとも,少しでも共感的態度が感じられたのなら,私の気持ちはもう少し救われていたかもしれない。
-自分自身の看護は果たしてどうか,自問自答している。