医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療

【番外編】 ある癌患者の手記(3)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


ケネス・B・シュワルツ氏の手記より
(ボストン・グローブ紙,1995年7月16日より翻訳転載,全3回)

前号よりつづく)
 次の日から,私の闘病生活の新しい1章が始まった。そして,再び腫瘍外来の看護婦ミミ・バーソロメイが私の戦友となった。
 薬に対する私の反応をモニターしながら,彼女はほとんどの患者にとってタキソールの副作用は耐えうるものだと言って私を元気づけた。薬によるアレルギー反応は起こらなかった。私は闘いが再開されたことがうれしかった。これで少しは時間を延ばすことができるかもしれないと私は望んでいた。
 時間が私の最良の友となった。時間こそが,医学研究者たちに進行期肺癌に対する新たな戦略を,あるいは画期的な治療法を見出す可能性を与えることができるのだから。

有望な治療法をさらに求める

 この時期,私は,タキソールの効果を増強し得る,あるいはその治療が終了した後に用い得る最先端の治療法はないかと調べるようになった。自身医学研究者として長年の経歴を持つ私の父が,この調査を手伝ってくれた。
 父は,私と妻とが,高名な研究者でありマサチューセッツ総合病院(MGH)癌センターの所長であるカート・J・イッセルバッチャー医師と会えるように取り計らってくれた。彼は小柄だったが,青い目が洞察力を物語る,存在感の大きな人であった。彼は医学書,医学論文,家族の写真に取り囲まれながら話をした。彼はまず,転移癌に対して効果をあげつつある実験的治療の数々について情熱的に話した。
 他の多くの人と同じように,彼もまた感動的な個人的体験を語ってくれた。ごく近しい親戚の1人に,担当した癌専門医が「非常に非常に悪い」と言ったほどの進行癌が見つけられたのです,と彼は語った。「カート,君はこれまでにたくさんの患者を助けてきたんだろう。今度はぼくのことを助けてくれないか?」とその親戚から頼まれた彼は,個人的に患者の家まで行って抗癌剤治療を始め,そしてその患者は21年たった今も元気にしていると。
 イッセルバッチャー医師は,どの治療法が最も有望かという私の調査について,父やリンチ医師と一緒に自分も手伝いたいと申し出てくれた。私は彼に,自分は決して幻想を抱いているわけではないけれども,希望を失わず,最後まであきらめないという先生の姿勢に深く感動したと言った。実際,あのような希望に満ちた言葉を,信仰による治療を唱道する人ではなく,高名な癌研究者の口から聞いたことに,私は特別な感銘を受けたのである。彼は,闘うという私と妻の決意をさらに強めてくれた。

牧師である精神科医との会話

 私は進行する病に対峙しながら,希望を失うまいと懸命の努力を続けた。私は,MGHの精神科主任の1人であるネッド・カセム医師を紹介されていた。氏は精神科医として重篤患者のケアに多大な経験を有するだけでなく,ジェスイット派の牧師でもあった。
 彼には2回目の入院の際に一度診てもらっていた。記憶は定かではないが,誰かと死そのものについてディスカッションしたのはそのときが初めてではなかったかと思う。私は彼に「もし別れを告げなければならなくなったら,いつどのように別れを告げたらいいのか」と聞いたことを覚えている。「別れを告げるのを待つ必要などないのです。今すぐに,そして毎日,あなたの愛と感謝を表せばよいのです」というのが彼の答えであった。
 転移という最悪の結果を知り,私はどうしてもカセム医師と会わなければならなかった。息子のベンが,私の病気,そしてやがて訪れるであろう私の死という大きな心理的体験をするのに際し,息子のために私に何ができるのかということをどうしても相談したかったからだ。
 私は,多くの人が息子のために自分の姿をビデオにとっておくように勧めるのだけれど,自分にはとてもそんなことはできない,とカセム医師に言った。カセム医師は,「2人がともに遊び,笑うたびに,1つひとつ煉瓦が積み上げられるのです,その煉瓦が貴重な記憶となって彼の中に永遠にとどまるのです」と答えた。

喜びを感じる時なぜ心が痛むのか

 私はまた,死期が早まったときに備えて私がもっとしておくことはないかと聞いた。彼は当惑した顔で私に聞き返した。
「遺書は用意されましたか」
「ええ」
「その他の整理もすんでおられますか」
「ええ」
「どうやら,もう準備はできているようですね……。いいですか,死というのは小さな問題でしかありません。生きるということ……それが挑戦なのです」
 私は自分が感じているパラドックスについても質問した。息子と遊んだり,妻を抱き寄せたり,友と語らったりするたびに,大きな喜びを感じるのだが,そういう喜びを感じるときに心が痛み涙が出るのはなぜか。これは鬱病の兆候か。何か処置を講じる必要があるかと。彼は思慮深い顔で私の顔を見つめ,こう答えた。
 「息子さんと遊んで涙が出てくるのは,あなたの心の琴線に息子さんが触れるからです。それは息子さんに対するあなたの愛情を再確認しているにすぎません。奥様や友人と共有する楽しみが涙をもたらすのも,それはあなたがそれらの人々をどれだけ愛しているかを示すことにほかなりません。これらのことは決して悪いことではないのです。……泣かなかった日というのは,もしかして,とても退屈な日だったのかもしれませんよ」
 私はうなずいたが,次の質問をせずにいられなかった。「先生は,祈りの力を信じておられますか」と。カセム医師はうなずいた。「もちろんですとも」。彼は言った「そして,私の祈りのリストにはあなたの名前も入っています」。彼の知恵,常識,精神性に接したことで,私は心が暖まるのを感じた。

人間としての全存在のケアを

 ここ数か月の間に,いくつかの悪いことが重なった。骨スキャンで4つか5つの新たな転移が見つかり,CTでは病変が両方の肺に進展していることが示された。よい知らせは病変がまだ脳や肝臓には及んでいないということだけだった。私は情け容赦なく進行する病気にがっかりはしたが,驚きはしなかった。そして,化学療法は無効だったけれども,いつか試験的療法の1つが効くかもしれないという望みをまだ持ち続けている。
 CTスキャンの直後,私が非常に落ち込んでいた時に,ミミ・バーソロメイに注射をしてもらう予定になっていた。私の姿を見るなり,彼女は私が落ち込んでいる様子を察した。彼女は両の腕で私を抱き抱えると,プライベートルームに連れていった。私が泣き出すと,彼女は何も聞かずに次のように言った。「スキャンのときが一番つらいの。でも,結果がどうであれ,私たちは絶対あなたのことをあきらめたりしません。どこまでもあなたと一緒に,あなたのために闘います」。私は彼女を抱きしめ,私のために時間をさいてくれたことを感謝した。
 もし私が何かを学んだとしたら,いつ,どういう形で,誰に,不治の病が襲ってくるか,それを前もって知ることはできないということだ。そして,万が一不治の病にとらわれたなら,誰でも,肉体だけのケアではなく人間としての全存在をケアしてもらいたいのだということである。
 私はいまだにリア王と同じく業火の車輪にくくりつけられた身である。しかし,家族や友人の愛と献身,私の治療に関わる人々の努力と深い思いやりの心,そういったものがこれまで私の魂の強壮剤となってきたのである。これらのことが,私の身を焼け焦がす涙から,いくばくかの痛みを消し去ってきたのである。

(おわり)

〔筆者について〕
 ケネス・B・シュワルツ氏は,医療問題が専門の法律家であり,1988年の民主党大統領候補のマイケル・デュカキスがマサチューセッツ州の知事であったときは,州の医療福祉部門の責任者を務めた。進行癌患者にとっては,高度の医療技術そのものよりも,医療関係者の暖かい思いやりの方がはるかに重要なのだ,ということを強調したこの手記に対して,ボストン・グローブ紙には賛同と激励の手紙が235通寄せられたという。氏は,この手記の発表から2か月後の1995年9月10日,40歳で永眠した。
 氏の死から1年たった昨年10月24日,マサチューセッツ総合病院内に「ケネス・B・シュワルツ・センター」が設立された。センターの活動目的は,医療を取り巻く厳しい経済環境の中で,いかに患者と医療ケアに携わる人々との間の人間的結びつきを維持かつ増進させるかということにあり,故シュワルツ氏の夫人エレン・コーヘン女史が所長を務めている。
 センターの最初のプロジェクトは,マサチューセッツ州内の医学部および看護学校の全学生に氏の手記を配付するというものであり,すでにマサチューセッツ州にあるすべての医学部,そして多くの看護学校がこのプロジェクトに協力している。この手記を日本の医療関係者に紹介することが同センターの活動目的に沿うことにもなると信じている。
 今回,コーヘン女史は快く翻訳を許可してくださった。訳者としては,日本の読者の反応を伝えることで女史の好意に報いたいと思っている。氏の手記に対する感想を編集室宛にお送りいただければ幸甚である。

(李)