医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療

【番外編】 ある癌患者の手記(2)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


ケネス・B・シュワルツ氏の手記より
(ボストン・グローブ紙,1995年7月16日より翻訳転載,全3回)

前号よりつづく)
 私の病気の新しい1章が始まること,つまり集中的化学・放射線療法,そしてそれに続く手術(腫瘍とリンパ節,必要ならば右肺全部を取る手術)という,進行癌に対する通常の治療を受けることは明らかだった。根治にかけるにはこれ以外に方法がないというのがリンチ医師の説明であった。
 次の1週間は,癌が胸部を越えて広がっていないかどうかを調べるための放射線検査が続いた。これらの検査は信じられないほどの恐怖心を抱かせるものであった。壁との隙間が6インチしかない石でできた棺のような管の中に入れられ,耳を塞ぎたくなるような轟音の中で数時間も過ごさなければならないのだ。そして検査を受けるたびに,また悪い結果が見つかるかもしれないという恐怖にさいなまれることになるのである。
 放射線検査の結果,頭部,肝臓,骨,そしてほかの場所にも転移は見つからなかった。私は救われる思いがした。

心のありようがもたらすもの

 癌細胞を破壊するべく,抗癌剤と放射線照射とからなる集中治療が始まった。そして,その後で手術を受けることになっていた。5日間の抗癌剤治療のための入院に先立って,放射線を照射する範囲を決める放射線治療のシミュレーションがあった。
 放射線科の技師はジュリー・サリヴァンといった。彼女は私に毛布をかけると,テープデッキがあるけれど何かリクエストはないかと聞いた。私は学生時代を思い出し,ジェームズ・テーラーをリクエストした。「スウィート・ベイビー・ジェームズ」や「ファイア・アンド・レイン」を聞きながら,恋人にふられたことが人生の最大の問題だった日々のことを思い返した。私の頬を涙が伝わった。サリヴァン技師が私の手を取り「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。私は彼女の優しさに感謝した。
 11月の半ば,胸部にカテーテルを入れられた後(これで抗癌剤を注射するたびに腕に針を刺さなくてすむようになる),私はマサチューセッツ総合病院に入院した。そのときもそれ以後も,私が入院するときには,母か姉妹のどちらかが病室の窮屈な椅子で夜を過ごした。寝汗や吐き気で夜中に目を覚ましたときも,彼女らのどちらかの姿を見ることで私は気持ちを落ちつけることができた。
 医師たちが私の治療について方針を決めるとはいっても,毎日の生活面の実際は,2,3人の看護婦の世話にならなければならなかった。彼女たちは看護婦としての有能さと誇りとを示しただけでなく,私に対して非常に親身に接してくれた。このことが私を大いに元気づけた。望みや心の平安だけで癌が治るとはもとより信じていないが,私が入院している間,心のありようが非常に大きな違いをもたらしたことは間違いがない。

プロフェッショナルのルビコン河

 私が受けた2度の化学療法の間(その間にも大量放射線療法を2日に1回受けたのだが),私は,腫瘍外来の看護婦であるミミ・バーソロメイというすばらしい医療従事者と知り合うこととなった。看護婦になって8年。彼女は聡明,快活である上に,思いやりにあふれていた。私は毎日外来で点滴を受けていたが,その間いつも,人生,癌,結婚,子どものことなどについて彼女と話し合った。
 彼女もまたプロフェッショナルのルビコン河を渡ってくれたのである。死ぬことの恐怖,そして何よりも,もう生きることができないという恐怖について,彼女は話を聞いてくれた。夏の週末は妻と2人でサイクリングをしたものだが,もうそれもできなくなること,子どもの成長を見届けられないこと,妻をこの腕に抱くことができなくなることの恐怖について,話を聞いてくれた。そして,彼女自身が最近癌で父親をなくしたときのことまでも,あえて話してくれたのである。
 医療従事者が自身の個人的体験を患者の状況と結びつけて話してくれたことが,私にとってどんなに大きな意味を持ったかを,私は声を大にして強調したい。彼らのそういう話を聞くたびに,私の孤独感は大きく和らげられたのである。患者と医療従事者とがそのような親密なつながりを持つことをルールブックが禁じているのは承知しているが,今やルールブックを書き換えるべきときがきているのではないだろうか。

治癒への望みをかけ検査

 2回目の化学療法も終わり,私は治癒への望みをかけ,治療の最終段階である手術を受ける覚悟ができていた。手術の前にもう一度転移がないことを確認するために,リンチ医師は放射線検査をした。彼はもし転移があればそれで終わりだが,その可能性は低く,5%以下だろうと私を元気づけた。
 検査は恐ろしく,かつ孤独で,永遠に続くかと思われた。再び心底からの恐怖を味わうこととなった。しかし,検査自体よりも検査結果を待つことのほうがはるかにつらいのである。1週間に及んだ検査の終わりに,背骨の特殊スキャンを受けた。
 翌日,私はリンチ医師のオフィスに電話をし,検査結果をいつ聞きにいったらよいかを秘書に聞いた。「今日の午後はいかがですか」と彼女は言った。そして「どなたかとご一緒に来られたほうがいいでしょう」と彼女がつけ加えた時,私の心臓は飛び上がった。私は妻と2人でリンチ医師のオフィスを訪れたが,彼の顔を見たとたんに2人の心は沈み込んでしまった。彼は真っ青な顔をしていた。他の検査はすべて異常なかったのだが,最後の背骨の検査で転移が見つかったと彼は言った。そして,他にも転移が進んでいるだろうから,この時点での手術は意味がなくなったと説明した。
 リンチ医師は,100%転移と決まったわけではないし,重要性を考えると生検を受けてはっきりさせたほうがよいと言った。私と妻とは,恥じらいを忘れて泣いた。1つにはリンチ医師が希望を失ってしまったと思ったからだった。

恐怖と絶望にとらわれる

 私は,ほかに治療のオプションはないのかと聞くしかなかった。彼はタキソールという薬の名前をあげた。私は,法律家として彼を尋問した。
私「タキソールを受けた人の何%に効果があるのですか」
「40%です」
私「どれだけの効果があるのですか」
「治癒は期待できませんが,延命効果は期待できます。あなたの時期の進行癌では,延命の中央値は9か月と言われています」
 9か月! 私と妻の体が固くなった。私は質問の最後に,「先生はどうやってこういう仕事を続けることができるのですか」とリンチ医師に聞いた。彼は本当につらそうに答えた。「今日のようにつらい日が毎日は続かないように祈るんです」
 私は安眠が得られないようになった。夜中に目覚めると,決まって恐怖と絶望にとらわれた。私はリチャード・ブロックが書いた言葉をしばしば思い出した。彼は,H&Rブロックの創始者であるが,肺癌で残り何か月かの命といわれながら生還したのである。彼はこう書いている。「希望がないままに5日間が過ぎた……。この5日間は,その後のつらい検査や治療を受けた日々よりもはるかにつらい5日間であった」
 そして,子どもの成長を見届けることができないこと,妻を慈しむことができなくなることを思うとき,私はリア王のことを思い出した。リア王は絶望の淵で次のように嘆く。
 私は業火の車輪につながれている
 私自身の涙が
 熔けた鉛のように私の身を焼き焦がすのだ

私のために闘って いただけますか?

 私はどうしても希望を取り戻さねばならなかった。そのためにはリンチ医師に希望を取り戻してもらわなければならなかった。
 数日後,生検が行なわれた。リンチ医師が私と家族の前で結果を説明した。非常に小さい病変ではあるが腺癌の所見が発見されたということであった。私の肺癌が転移していることが確認されたのだった。
 自らも医師である私の父と兄とが,背骨の転移と胸部をともに手術する可能性について聞いたが,リンチ医師も外科医もそのオプションを否定した。さらに抗癌剤を続けるしかなかった。リンチ医師は,癌の進行を遅らせるためにタキソールを使うことを再度勧めた。この議論の間,私と妻とはほとんど何も口をはさまなかった。
 私は父と兄に部屋から出るように頼んだ。事実や数字でなく,私と妻は心の問題について話したいのだと。
 2人が部屋を出た後で,私はリンチ医師に次のように言った。「先生はこれまでずっと2つのことをおっしゃってこられました。1つ,あくまでも根治をめざすけれども,根治が期待できないときは私にそう知らせてくれると。2つ,先生は絶対にあきらめない,私の命を延ばすために最後まで闘うと。私にはもう根治の見込みはないんですね?」
 彼は静かに私と妻の顔を見つめた後で,この時期の癌を治す方法は知られていないと言った。
 「でも,私のために最後まで闘っていただけますか?」私は聞いた。
 彼は力強くうなずいた。そして,タキソールによる治療以外にも,実験段階ではあるけれど効果が期待できる最新の治療方法がいくつもあることを説明した。

医師と心を通わせる

 彼は統計の話をやめ,実際に彼が受け持ち,予測を越えて何年も生き延びた患者たちのことを話し出した。まず,来年の今日ここでまた話ができるようにすることを最初の目標にしようと彼は言った。「次は再来年,そのあとは3年後と,目標を延ばしましょう。一度に1日ずつ,次には1か月ずつ,そして1年ずつと,段々と目標を延ばしていきましょう」と彼は言った。
 彼は「人生の最後の日々に子どもたちと慈しんだ時間は病気になる前には想像もできないほど楽しいものだった」と彼に語った乳癌患者たちのことを話した。医学の話を離れ,互いの心を通わせる話をすることができて私はうれしかった。魔法のように治すことはあきらめたものの,私の命を延ばすことで,彼が再び希望を取り戻してくれたようであることもうれしかった。
 彼があきらめないでいることが,私と妻にとっては非常に重要なのであった。彼が,転移が見つかったことでがっかりしているのは理解できた。ある友人にも言われたことだが,彼ががっかりしたということは,それだけ彼が私と私の病気について親身に取り組んでいることを示しているのにほかならなかった。しかし私たちは,彼に希望を持ち続けるだけの現実的な根拠を示してもらう必要があった。そして彼はその根拠を与えてくれたのである。

(この項次号につづく)