医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療

【番外編】 ある癌患者の手記(1)

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


ケネス・B・シュワルツ氏の手記より
(ボストン・グローブ紙,1995年7月16日より翻訳転載,全3回)

 私は医療問題を専門とする法律家として,初めは州政府,後に私企業に勤めた経歴を持ち,医療政策の立案,州政府による医療行政などについては詳しい知識を有していたが,医療ケアの実際についてはほとんど何も知らなかった。私にとってすべてが変わったのは,1994年11月7日のことだった。
 この日,私は,40歳にして進行期肺癌と診断されたのだった。この後数か月の間に,私は化学療法,放射線療法,手術のすべてを体験することとなった。そして希望を持たせる情報と,絶望させる情報とにさらされることとなった(絶望させられる情報がほとんどだったが)。私と家族とにとっては胸が張り裂けそうになる数か月であった。
 この不断の試練の間にも,人々の思いやりに触れることが救いとなったのだった。私の窮状に対する人間的で心のこもった反応に,幾度も接することができた。私のケアに携わる医療関係者が示した,人間としての心のこもった行為の数々が,耐えきれない時を耐えうるものとしたのである。

「どうやら大変な病気かもしれない」

 1994年の9月と10月の間に,咳,微熱,倦怠感が続くことに悩まされた私は,ボストンのある大病院を何度か受診した。外来担当の看護婦が,異型肺炎の診断のもとに抗生剤を処方した。血液検査に異常があったが,看護婦は,ウイルス後感染だからすぐに主治医の診察を受けるまでもない,次の予約の11月半ばまで待てばよいと言うのだった。
 10月半ばになっても症状は悪くなるばかりで,なかなか診察しようとしない主治医に失望していたので,私はほかの病院を受診することにした。別の医師ならもっとすばやい対応をしてくれるかもしれないと思ったからだ。
 医師である私の兄が,マサチューセッツ総合病院(MGH)の経験ある内科医であるホセ・ヴェガ医師に連絡を取ってくれた。ヴェガ医師は1時間かけて私を診察し,胸部写真などの検査を指示した。
 診察後何時間もしないうちに,ヴェガ医師が私の職場に電話をかけてきた。右の肺に心配な「かたまり」の陰が写っている。正確を期すために胸部CTを受けてほしいのですぐ病院に戻ってきてくれないか,というのだった。職場を出るときに,私は秘書のシャリン・ウオレスに「どうやら大変な病気かもしれない」と言ったことを今でも覚えている。
 果たして,CTで右肺とリンパ節の病変が確認された。次の日,ヴェガ医師は今後ともいつでも必要があれば相談にのります,と念を押しながら,トマス・リンチ医師に私を紹介した。34歳で,MGH腫瘍科に勤め,肺癌が専門であるということだった。リンチ医師は,彼が毎日接している病気の残忍さ故に仕事への情熱を駆り立てられているように見えた。リンチ医師は,肺癌,リンパ腫,まれな感染症などが考えられるが,肺癌の可能性が一番高いだろうと私に告げた。
 私も家族も心底からの恐怖にとらわれることとなった。これ以後,124/78と正常だった私の血圧は150/100と上がり,低いときには48だった脈拍も常に100前後となった。

「すべてうまくいきますように」

 リンチ医師の診察を受けてから72時間の間に,肺癌の診断を確定するために気管支鏡,縦隔鏡,試験開胸を受けることとなった。この時点まで,私は,自分が癌になるリスクは低いと思っていた。まだ年は若いし,タバコも吸わないできた(カレッジとロースクールの時分に平均1日1本吸ったことはあるが)。毎日運動もしていたし,脂肪食品も避けるようにしていたからだ。
 手術の前日も,一連の検査が予定されていた。病院の術前棟は混雑し,看護婦たちも忙しそうに働いていた。やがて,私の術前問診をするために看護婦が私の名を呼んだ。手術に対する不安で私の息づかいは荒くなった。
 看護婦の態度は,まるで私が顔のない患者であるかのように冷淡でぶっきらぼうだった。しかし,問診が始まり,どうやら進行期肺癌らしい,と私が告げるやいなや,彼女は私の手を取り,大丈夫ですかと聞いた。問診の間に,私は2歳になる息子のベンのことを話した。彼女にもベンという甥がいるということだった。問診の終わりに,彼女は涙を拭いながら,手術棟には普通は行かないのだけれど,手術の前に私の様子を見に来ると言った。
 次の日,彼女はその言葉通り,手術室に入れられるのを待っている私に会いに来てくれた。彼女は私の手を取り,潤んだ目で「すべてうまくいきますように」と祈ってくれたのだった。
 それだけのことだったが,彼女の行為の効果は絶大だった。私の不安は去り,必要としていた心の落ちつきを得ることができた。医療従事者が本来内在させている思いやりや人間性が,多忙な状況と緊張感に満ちた雰囲気とによって,ややもすると押し殺されてしまうのだということが,今から振り返ると理解できるのだが,忙しい手をほんの少し休め,ケアする者の真情を示すことが,恐怖におびえる患者にとっては何よりの救いとなるのである。

「あなたの優しい麻酔医を……」

 彼女が去った後,また不安が募ってきた。1時間後,私は肺とリンパ節の生検を受けるべく手術室へと入れられた。麻酔科のレジデントであるデボラ・リーチ医師が私に挨拶をした。彼女は脈拍と血圧を測定した後,優しい声で「ずいぶん緊張されてるようですね」と言った。彼女は私に鎮静剤を注射し,私は彼女に,どこに住んでいるのか,どこの医学部を出たのか,結婚しているのか,と質問を重ねた。
 私は,私がMGHに来てから彼女に会うまでほかのユダヤ人の医師に会わなかったのはどうしたことか,と冗談めかして聞きさえもした。彼女が同じ通り沿いに住んでいること,彼女も「ヴァージニア」という近所のサンドウィッチ屋がお気に入りであることを知ったとき,私は心が和らぐのを感じた。彼女は私の肩においた手にぎゅっと力をこめて幸運を祈った後,私が乗せられたストレッチャーを手術台へと押した。
 目覚めると,右肺,そしていくつかのリンパ節に腺癌が確認された,別の言葉で言うならば私の病気が進行期肺癌であることが確認された,と告げられた。そのときのことはあまりよく覚えていないが,ただ,涙に濡れたリーチ医師の顔だけはよく覚えている。そして,とても悲しく,恐ろしく感じたことを覚えている。
 2,3日して,私はリーチ医師から手紙を受け取った。
 「あなたの優しい麻酔医を覚えていらっしゃいますか? 今日の午後,術後診察のために,そして,あなたの診断について私がどんなに悲しく思っているかをお伝えするために病室にうかがいました。ドアが閉まり取り込んでいた様子でしたので,おじゃましては悪いと思い,病室には入りませんでした」
 「よくご存じのこととは思いますが,私たち医師は,自らの平静を保つために,患者さんとは感情的に関わってはいけないと教えられています。けれども,手術前に2人で楽しく話し,ユダヤ人,専門職,家の改築,ヴァージニアのサンドウィッチ等々,2人の人生にあまりに共通点が多いと知った後では,あなたの置かれた状況を冷静に受けとめることができないのです(もっとも,私が注射した鎮静剤のせいであなたはあのときの会話のことを覚えていないかもしれません。覚えていてほしいと思いますが……)」
 「あなたもおっしゃったように,奥様とお子様のことをいつも心に思い続けることが,これからの闘いに一番の支えになるのです。それは絶対に間違いありません。そして,あなたのご家族も深い愛情を持ってあなたを支えられることでしょう」
 「いつかヴァージニアでお会いするかもしれませんね。心よりの祈りをこめて」
 私はリーチ医師のことを忘れてなどいなかったし,彼女があえて医師としての職業的境界線を越えて,私に手を差し延べ,これらの言葉を綴ってくれたことを,決して忘れはしない。

(この項次号につづく)