医学界新聞

GHQが推進した看護改革 看護体制・勤務体制の変遷

高橋美智(日本看護協会常任理事)


 わが国に近代的看護を普及するために,アメリカ人看護婦教師が迎えられたのは明治の半ばのことである。しかしその後の看護における発展は遅々としたもので,今日的看護体制・勤務体制が確立したのは,第2次世界大戦後,GHQ(連合軍総司令部)の強力な指導の下でのことである。
 本稿では,50年前に立ち戻り,GHQによって,当時どのような看護思想が導入され,またそれを実現するためにどのような方策が講じられたのか,そして,その後どのような道をたどって今日に至っているのかを,特に看護体制・勤務体制に視点をあてて概観してみたい。

看護課の設置

 GHQは,進駐と同時に人命尊重の立場から,公衆衛生・医療面に対して特に深い関心を示し,終戦翌月の1945(昭和20)年9月には早くも政府に対し「公衆衛生に関する覚書」を発し,保健医療機構の抜本的な改革を命じている。看護に関しては,まず看護婦の資質の向上を図るために,その衡にあたる部門として看護課を設置するとともに全国を9地区に分け,各地区にGHQ組織に対応する担当係を,そして各県ごとに看護係を置き,改善に向けての組織的取り組みを展開する体制を確立させた。
 当時のことを,時の看護行政官であった金子光氏は「当時アメリカで最も看護学が確立していたと思われるエール大学看護学部で再教育を受けたというオルト課長(GHQ公衆衛生福祉部看護課初代課長)にとって,日本の看護婦は“召使いも同然”にみえたことは想像に難くない。医師の指示のままに動いている日本の看護婦をみてどんなにか憤りをおぼえたことであろう」1)と記している。

保健婦助産婦看護婦法の制定

 終戦翌年の1946(昭和21)年2月,GHQは保健婦・助産婦・看護婦の業務または教育に直接関係し,造詣の深い看護職者や医師および文部・厚生両省の担当局課長を委員とする看護制度審議会を設置し,「教育」と「業務」の2つの分科会をもって,看護職員の教育,業務,身分,資格等について協議した。ここでの審議では,一旦は3職種を一本化するという保健師制度案がまとめられたが,最終的には一本化には至らず,3職種各々に業務,教育,資格などを規定した「保健婦助産婦看護婦(甲種・乙種)令」(1947年7月,政令第124号)が公布された。しかし,この政令はその基である国民医療法が改められるのに伴い,翌1948年7月に名称を「保健婦助産婦看護婦法」と改められた。その後は大きな改正をすることもなく今日に至っているのである。
 政令公布にあたっての金子光氏の解説を読むと,その当時この法がどれほど革新に満ちたものであったのかがよくわかる。
 「この新制度がわが国の看護の業界にもたらす貢献は空前のできごとであろうと思います。まさしくこれは業界の革命でありまして…(中略)…約60年の歴史をもつわが国の看護の業務が,従来はひとえに医業の追従物として隷属の形をとっていましたが,今回目覚めて看護の業務は医業と相まって医療の一端を担う,即ち完全な協力体としてその独自性を認められたことは,新制度における数項目にわたる革新のなかの基盤となる原則的思想であって,“最も輝かしい”ものであると思います」2

「看護学雑誌」の創刊

 GHQはわが国の前近代的・非民主的看護を改革するための制度づくりに力を注ぐ一方で,実際にさまざまな方法を用いた変革を推進している。その1つに,終戦翌年10月にはオルト看護課長の強い意向を受けて医学書院が「看護学雑誌」を発行している。この“創刊のことば”を読むと,新しい看護を雑誌という手段を用いて普及しようとしている姿がよくうかがえる。
 この創刊号から連載が始まった講義録の1つに,GHQ看護課次席のM・T・コリンズ女史の「アメリカのナーシング」がある。創刊号では,看護婦養成課程=3年課程の全容,および看護組織=スタッフナース,ヘッドナース,スーパーバイザー,ディレクター・オブ・ナース,養成所の教師の資格・役割などについて,2,3号では監督のしかた=監督の目的(看護婦1人ひとりの能力を進歩させ,最も効果的に豊かにその責任を果たさせる),監督の方法,監督者の計画,看護実習における監督等について詳細に論説されている。それはまさに今日の看護組織・体制や看護婦養成課程はこうして教えられ,これを手本として構築したものであることを証明するものである。

日本看護協会の設立

 専門職看護の確立をめざし,全国的な看護の職能団体を設立すべしというGHQの強い意向を受け,1946年11月に1323人の会員をもって日本産婆看護婦保健婦協会が設立。設立直後からGHQの協力の下で精力的に“新しい看護”を普及するための再教育(病院看護業務の管理者,婦長,主任看護婦)や専任教員養成講習会(厚生省共催)等を開催している。翌1947年には日本助産婦看護婦保健婦協会と改称し,さらに1951年に日本看護協会と名称を改めたが,以来,看護体制・勤務体制の改善を主張する,わが国唯一の看護職能団体として今日に至っている。

医療法・労働基準法の制定

 それまであった国民医療法は前近代的,非民主的な点があることから,医療制度審議会で検討が加えられ,新しく「医療法」(1948年7月公布)が制定された。
 この法によって,わが国における医療施設の定義,施設および人員配置標準が示された。看護婦および准看護婦の数は,「入院患者(収容されている新生児を含む)の数が4またはその端数を増すごとに1および外来患者の数が30またはその端数を増すごとに1」と定められた。つまり,患者数対看護職員数を定めるという制度のはじまりである。そして,この法は改正されることなく現在に至っている。
 また,憲法第27条第2項の規定に基づいて1947(昭和22)年に「労働基準法」(法律第49号)が制定された。「使用者は労働者に休憩時間を除き1日8時間,1週48時間を超えて労働させてはならない」と規定されたことを受け,看護においても,それまで2交替当直制を行なっていた病院でも原則3交替制へと改革が進められた。現在多くの病院がこの3交替形式をとっており,一般常識化された感さえあるが,その基はこの法律の制定である。そして,1994年の診療報酬改定時に原則3交替制という条件が緩和されたことにより,再び2交替制に注目が集まる時代へと向かっている。

完全看護制度の発足

 「完全看護とは,病院または診療所において,その施設の看護婦自身またはその施設の看護補助者の協力を得て看護を行ない,患者が自ら看護にあたる者を雇い入れたりもしくは家族等をして付添わせる必要がないと認められる程度の看護を行なうことをいう」とする「完全看護制度」が,1950年に国民の大きな期待を受けて発足した。
 その背景には,「保助看法」「医療法」「労働基準法」の制定があり,それらによって看護を提供するための枠組みができ上がったことがある。そこで厚生省は「看護は看護婦の手で」をスローガンに掲げ,実質的な質の向上をめざすこととなった。しかし,この制度の承認基準は,(1)看護婦(看護補助者を含む)の勤務形態はなるべく3交替制であること,(2)完全看護はその施設の看護婦が自分で,またはその施設の看護補助者の協力を得て患者の看護を行なうものであるが,そのうち患者の直接的な看護は看護婦によってなされていること,(3)患者の個人付添いがいないこと,(4)看護記録がつけられていること,(5)看護に必要な器具器材が備えつけられていることと定義されていた。そのため,医療法で定めた看護職員の標準数で実現することは困難であったため,この制度は1958(昭和33)年に「基準看護制度」に改められることになる。そして,今日まで,より高類基準の設定を求める一方で,低類基準さえ満たせない施設では,付添いが看護を行なうという体制を存続させてきた。
 1994(平成6)年,新たに新看護体系・看護補助体系が誕生した。これにより長年の課題とされてきた「看護は看護婦の手で」のスローガンが,全病院での付添い看護体制の完全廃止期限である1997年9月にようやく実現する。完全看護制度発足からほぼ40年が経過しての実現である。
 以上みてきた通り,看護体制(患者数に対する看護婦:准看護婦:看護補助者数(割合)や勤務体制の基本的枠組は,GHQ公衆衛生福祉部看護課の強い指導力の下で,戦後わずか3年ほどの間に作られたものである。以来,部分的には何度か改正も加えられてはいるが,看護体制・勤務体制に関する基本的精神や主条項は改変されることなく今日に継承されている。

〔文献〕
1)金子光編者:初期の看護行政,日本看護協会出版会,p6,1992
2)同上,p14