医学界新聞

看護学雑誌 創刊50周年記念

座談会

看護の50年を振り返る

金子光氏
(元厚生省看護課長,
元衆議院議員)
〔司会〕川島みどり氏
(健和会臨床看護学研究所長)
高橋シュン氏
(聖路加看護大学名誉教授)

 「看護学雑誌」が創刊50周年を迎えた。まだ第2次世界大戦敗戦禍にある日本で,紙すらも統制下にあった昭和21(1946)年の10月に発行された記念すべき第1号は,日本初の看護雑誌として,また日本の看護の将来を期待させるものとしてスタートを切った。
 日本の看護の発展期において,「看護学雑誌」はその編集内容で常に看護界の先駆的な役割を果たし,看護界に与えた功績は大きい。創刊時から連載された「看護学講座」はその後看護学校の教科書として再編集されるに至ったが,創刊当時の雑誌は,看護婦養成所の教科書としても活用され,また同時に連載が始まった「アメリカのナーシング」は,いち早くアメリカ近代看護の事情を伝え,日本の看護教育に多大な影響を与えた。
 本紙では,この「看護学雑誌」の創刊50周年を記念し,創刊当時から同誌にかかわりの深い金子光氏,高橋シュン氏の2氏に出席いただき,川島みどり氏の司会で看護の50年を語っていただいた。3氏の言葉には,現在の看護界への教訓が示唆されている。本号より3回にわたる掲載では,それぞれに資料を配し戦後の50年を振り返りたい。なお同誌は現在60巻だが,これは創刊時に半年で巻を改めていたためである。


【第1回】戦争が終わった日

川島 金子光先生,高橋シュン先生が湯槇ます先生(当時,聖路加女専教授),中道千鶴子先生(当時,公衆衛生院看護学科)とご一緒に昭和23(1948)年にアメリカに留学された時,私は日赤女専(日本赤十字女子専門学校,現日本赤十字看護大学)の1年生でした。東京の渋谷駅の周辺にはまだ空襲の焼け跡が残っていて,人々の心もすさんでいました。入学したばかりの,まだキャッピング前の7月頃に,アメリカ留学に先立ち学校の講堂でお見送りをした4人の先生方はほんとにまばゆいばかりだったのを覚えています。
 この頃,占領軍の指導の下,聖路加女専(聖路加女子専門学校,現聖路加看護大学)と日赤女専がそれぞれの校風を維持しながら,東京看護教育模範学院として共同して看護教育を行なうことになり,2つの学校は伝統や校風こそ違え,校舎も実習場も寄宿舎もともにし,一緒に学びました。私たちはその時の4回生です。その1年後,高橋先生は留学先のウェーン大学から戻られて,日赤中央病院の小児病棟で臨床実習指導をされることになりました。
 個人的なお話をさせていただきますと,私の看護婦としてのスタートは高橋先生の影響を強く受けていると言えます。卒業後,迷わず小児病棟の看護婦を志したのも,先生と一緒に働けるし,先生の臨床指導のノウハウを学びたいという思いがあったからです。そして卒業後,母校の教務に入ってからは,プライベートな旅行もご一緒しましたし,教え子たちの合同クラス会には必ず出席くださいますので,いまでも大変身近な存在です。その当時の学生たちも今やリタイアの年を迎え,現役で活躍している者も少なくなりましたけれども,つい2~3年前までは大げさに言えば,日本の看護界の指導者層の多くの人々が先生から何らかの影響を受けていたと言っても過言ではないと思います。
 一方,金子先生は,エール大学での留学を終えられまして,勤務をされていた厚生省にお戻りになり昭和25(1950)年に看護課長になられています。私たちとの接点は,入学式や卒業式のセレモニーに出席され,壇上からご挨拶をいただくという形でしたので,私たちとしてはいつも下から見上げているという関係でした。その後,先生は東大の助教授に就任され,後に社会党から出馬し,国会議員になられるという道を歩まれましたので,そういう意味ではいつも遠くからお姿を見ている,そういう関係で今日に至っております。
 戦後50年を記念した行事や歴史をたどる書物などがたくさんありますけれど,今日は戦前からご活躍で大先輩でもあるお2人をお迎えしまして,看護界の50年を振り返りたいと思います。激動の50年と言ってもいいと思いますが,看護界にとってもさまざまなことがありました。それを非常に短い時間で回想していただくわけですから大変だと思いますけれども,読者を代表して,大先輩の回顧録といいますか,回想の司会をさせていただくのは大変うれしく,今日のこの日を楽しみにしておりました。どうぞよろしくお願いいたします。


看護にとっての戦後


終戦の時

川島 何からお話を伺おうかといろいろ考えたのですが,戦後50年ということで,敗戦のあの日,何をしていて,どのようなことを考えていたのかをちょっと思い出していただけたらと思います。高橋先生,いかがでしょうか。
高橋 私はフィリピンの山の中で,昭和20(1945)年の8月16日に初めて戦争が終わって日本が負けたということを耳にしました。それまでは食べるものもありませんので,日本兵の残していったカモテというサツマイモの一種ですが,その葉っぱや,いろいろな草,かたつむり,へびだの,目につくものをたんぱく質補給のために食べていました。もうこんな生活しなくてもいいんだぁーという安堵感,本当によかった!!という気持ちと同時に,日本が負けたんですってよ!という悲しい思いが一緒になって,とても複雑な気持ちでいっぱいでした。いま,あの時の気持ちというのは上手に表現できないです。
 それまではみんなグループで食べるものを探して歩いたりしておりましたけれども,終戦の声を聞きましたら,日本の兵隊から追われて山奥へ逃げていた現地の人たちが,今度は私たちに危害を加えるようになって,そのほうが怖かったですね。
 本当は非戦闘民が先に山を下りてこなくちゃならないのに日本の兵隊が先に下りてしまいましたから,保護する者が誰もおりません。一般の男の人の多くは死んでしまいましたし,日本人の女と子どもしかいませんから,現地の人がアタックしやすかったんだろうと思うんです。殺された人もいます。で,私どもはいよいよ明日山を下りて降参して捕虜になるという晩に食べ物を用意して-食べ物といってもカモテですけれど-夜だけしか火をたけませんから,夜になってからそれを飯盒で煮て,明日のお弁当として用意していたのですが,みんな取られちゃった。持っているものをほとんど取られたんですよね。
 そんな状態で山を下りてきて,その時に何を考えたかと言いますと,私は「今度こそはしっかりいい看護をやろう!」と,とっても強い気持ちになったのを覚えています。日本は負けたから病気の人も増えているでしょうし,伝染病も流行っているでしょうから,帰ったら一生懸命看護をしましょうと。でも,帰るまで保つかしらという気持ちもありましたね。怖かったですよ。逃げて歩いていたほうが,まだみんなで支え合っていましたから心強かったのです。敗戦の時何を考えたかといったら,やっぱり「ほんとによい看護をやろう!」という,その気持ちでした。
川島 金子先生は?
金子 私は終戦の時には東京にいました。父と2人で暮らしていたのですけれど,父は早くから京都へ疎開して,私は姉の家に姉と義兄と一緒に生活していました。終戦の日はたまたま家にいて詔勅を聞いたのですが,その時に「ああ,戦争が終わった!」とは思ったけど,実感がないんですよね。 あの頃,住宅地は全部塀を取っ払ってどこへでも逃げていけるようにしてあったのね。そして庭木をどんどん切って,あるいは箪笥を壊したりしてお風呂を沸かして,1軒で1つのお風呂を沸かすのはもったいないからと,お隣と交互に入ったりというような生活でした。
 終戦の日は,私ほんとにおかしいと思うんだけど,当時は防空壕があったでしょう。その中に私たち3人,1人に1つずつ必要な物を全部入れたスーツケースを作って置いてあったの。よそゆきじゃないのよ,普段の生活ができるように,ちり紙なんかでも大事にとっておいて,歯ブラシや石けんとか,これ1つあれば1年は暮らせるというものを用意して壕へ入れておいたんですよ。だけど詔勅を聞いてみんなポケーっとして「ああ,戦争終わったわねえ。もう逃げなくてもいいわね。死ぬこともないわねえ」なんて言いながら話し合っていたのね。そうしたら,義兄が何を考えたのか,いますぐ要るわけじゃないのに壕の中からその3つのスーツケースを出してきて廊下に置いたのね。それで3人でいろいろ話をしているうちに,ふっと気がついたら,それがなくなっていた。誰でも通れるところだったから,誰かに持っていかれちゃったわけ。それでも「あら,持っていかれちゃった。あれがあれば1年間暮らせたのに……でも,誰かがどこかで幸せになっているでしょう」なんて負け惜しみを言って,「誰かが喜んでいるからいいわよねえ」なんて,そんな話をあの日にはしてたのね。
 でも,さっきシュンさんが言われたみたいな「いい看護をやろう!」というような気持ちは,その時出てないわね。私はその頃厚生省勤務で,現場に出ていなかったからかもしれませんが,そういった気持ちになったのはGHQ(連合軍総司令部)が日本へ来てからですね。GHQのG・E・オルトさん(陸軍少佐/GHQ看護課長)と一緒に毎日毎日出歩いて,その時に「この先やらなくちゃ!」という気持ちになりました。終戦の日にはそこまでは考えていませんでしたね。

オルト看護課長という人

川島 戦後50年を語る時に,オルトさんが来日された頃,特に占領下の看護はどうだったのかということを伺っておいたほうがいいと思うのですが。
金子 GHQのオルトさんの面倒を見る役目が厚生省にありました。でもまだ厚生省には看護課は作られていなかった時代です。私は公衆衛生局保健所課というところに勤務していた技官でしたけれど,GHQの看護課に出入りするのは厚生省としては私しかいない。それで,私が出入りしていたわけです。
 オルトさんが真っ先に言ったことは「日本の看護のことを知りたいから資料をください」ということでした。だけど資料と言われても何もないのよ。というのは,看護婦や助産婦のことは医務局の医務課が担当していて,看護婦の養成所がいくつあるとか,何人ぐらい免許取得者がいるということは国が持っているものではなかったから。当時は国ではなく全部都道府県の所管になっていて,県が国へ報告してくるわけです。
 ただ,私は保健所課にいましたからね,保健婦だけは戦時中もずうっと行政の仕事をやっていました。健兵・健民政策で,健康な国民を作り,健康な兵隊さんを戦地へ送らなきゃという方針で人口政策確立要綱なんて政策ができてね。それで保健婦をたくさん養成しなくてはということで,保健婦規則を作り,補助金を出して保健婦学校を各県に作らせ,卒業した人は各市町村へ配属する,というような仕事をしていたわけです。だから保健婦に関する資料はありました。その資料は渡しましたね。
 でも,オルトさんは病院の看護だとかそういうものがもっと知りたかったようですね。実際に現場を見たいと言い出した。資料がないから,現場を見ればわかるだろうということで,毎日というのは少し大げさかもしれないけど,週に4日ぐらいは午後から出かけていました。そこに必ず私がついて行って,案内しながら,説明をしながら一緒に歩いたわけ。だけど病院だって戦火にやられているのよ。済生会病院に行きましたけれど,焼夷弾の爆撃を受けていてほんとにひどかった。
 いまだったら誰も考えつかないと思うけど,その頃に入院する時は,家をあげて,お布団持って,鍋釜下げて,七輪持ってという状況でしたでしょう。病院は給食していませんから,廊下に七輪を並べてそこで食事を作るのはあたり前で,その煙がもうもうとしている場所へオルトさんと行ったんです。そうしたら,彼女はほんとにびっくりして,「これは病院じゃない,ボーディングハウス(下宿屋)だ」って言いましたね。焼け跡の裏庭へ出て「ひどいねえ」って言われたの。だから私オルトさんに,「オルトさん,戦前はこんなにひどくなかったですよ,戦争のためにこんなになったんですよ」って言ったのね。戦争をしかけたのは日本なのに(笑)。
 だけどちゃんとしなきゃいけないと,その時に思いました。そうしたらオルトさんも,しみじみとまじめに「何とかしなきゃ」と思っていたらしいですね。口では言いませんでしたけれど。
 それで彼女としょっちゅう接触している間に,私,GHQの他の人はあまり知らないけれど,オルトさんを中心とした看護課の人はやっぱりナースだって思った。アメリカだって,看護婦はプライドが高いとか地位が高いと言う人がいるけれども,必ずしもそうでもないこともありますでしょう。医者から見下ろされることは,アメリカにもありますよ。いまだってそうでしょう。だからオルトさんだって医者には頭へきていたと思うのね。でも,日本の状態がそれ以上にひどいでしょう。これは何とかして日本の看護のステータスを上げなきゃ絶対いけないと,ほんとにあの人は考えたんだと思いますね。
高橋 それは看護婦同士ですからね,無理ないと思います。
金子 オルトさんを連れ歩きながら,私がたきつけたような感じもあるわけです。これはチャンスだ,何とかしてオルトさんの力を利用したいとも思いましたね。だから,プライベートな話しをしながらも,こうしたらいいと思う,ああしたらいいと思うとか,私たちはこう思っているけどなかなかできないとか,いろんなことを言いながら歩いたのを覚えていますね。
川島 でもその当時によくドクターから話を聞かされたのですが,占領軍の命令は絶対で,どんなに曲がっていることでも,どんなに無理なことがわかっていても,とにかくやれと言われれば「イエス」としか答えられなかったと伺っています。それだけ権限があったわけですか。
金子 それはそうよ,占領軍ですからね。オルトさんだってそうですから,占領軍としての考え方や態度は確かにありましたよ。それはちらちらっと見えるのね。けれども,やはりナースだなということを私ほんとに感じた。
高橋 確かに,権力というものと,勝った国の民族だぞというプライドといいますか,優越感はあったと思いますね。だけれども,自分たちだけでは仕事ができない,何とか優秀な看護婦を見出して,その人たちを使ったら仕事がしやすくなるという考えは強くありましたね。
金子 そして日本の優秀な看護婦を探し出して,それを通して自分の考えている看護をやろうという考えはあった。そういうところはやり方がうまいと思ったわ。

封建的な関係からの脱却

高橋 権力とか優越感とかというものは,日本では必要だったのよ。日本の男性を説き伏せるにはそれしかなかったわけですよ(笑)。当時の医者と看護婦の関係はひどく封建的(男尊女卑)でしたからね。いまだってないわけじゃないですけれど,あの時代は一般に看護婦は自分の命令に従う下女くらいに思われていた時代でもありました。
 私の体験したただ1つのエピソードは,卒後も間もない頃のことです。インターンに入ったばかりの医者が,チャランと7銭を私の前へ出して「たばこを買って来い」と言ったんですよ。私びっくりして「はあ?」と先生の顔を見上げて,「冗談じゃありませんよ! 私たちは決して無断で職場を離れてはならないんです。小使いさんだって個人の医者のたばこを買いには行きません」と言い返した。反発した気持ちと諭す気持ちの半々で泣き出したのを覚えています。
金子 大方の医者たちはそういう考えだったのよ。
高橋 だから,そういう人たちをわからせようとしたのは,確かにオルトさんだとかサムスさん(GHQ准将/軍医/公衆衛生福祉部長)だとか,権威や権力のある人たちだった。
金子 言葉には出さないけれど,雰囲気として感じるの。圧力として感じる。
高橋 それからもう1つは,日本人がどうしてもGHQの人たちの言うことを聞かなきゃ自分たちが危ないと思っていた。
金子 敗戦国の負い目があるからね。でも,私たち看護婦はクビになるなんて思ったことなかったのね。全然そんなこと考えたことなかった。
高橋 私たちも何の心配もなく,どこでも何でも言えましたものね。
川島 そのようにGHQの権力ももちろんありましたし,占領と被占領という関係もあったわけですが,先ほどチャンスとおっしゃったように,占領されていたということが,あの当時看護体制や看護教育を変えていく非常に大きな原動力にもなったように思います。その改革については一定の評価をしますが,しかしその反面で,日本の看護婦たちの思いよりも先に,看護の改革が進んでいってしまったのでは,という気もします。そういった機が熟していないうちに改革されてしまったことがずうっと後を引いて,未だに何か遅れている看護界の状況につながるような気がするのですが,そのあたりはいかがですか。
金子 私もそれは似たような気持ちを持っていました。一握りのリーダーがGHQの人たちと一緒になって制度をどんどん仕上げていく,それは確かに事実です。でもそうしなければ改革などできなかったという状況もありました。
 当時の日本の考え方としても,あの時代は「みんなに意見を聞いて」なんていう時じゃないの。だからどんどん進めていった。だけどGHQの人たちは,できるだけそれを何とかしてみんなの声にしたいという気持ちはあったらしくて,GHQの中にできた審議会でも,代表的な人は日本の役所が選んだわよ。ただ選ぶ時に,ほんとのリーダーだけを選ぶんじゃなくてもう少し幅を広げて選ぶように,というようなことは言われましたね。だから選ばれた人にはいろんな人がいましたよ。それでもああいう時代だから,みんなの意見を聞いてやりましょうという考えは出てきませんでしたね。
川島 それはそれでよかったとは思っています。しかしこの50年をまとめてみた時に,私には何かその辺のところがちょっと気になっています。ちゃんと地道に足をつけて看護は歩んできたのだろうかという思いがします。
 いまと違って本当に純真そのものであった私の,占領下の印象は,戦勝国アメリカと敗戦国日本のいろいろな面での差でした。日赤中央病院のように,焼夷弾が落ちてくるからと天井板を全部外して梁は丸出し,それから患者さんの毛布は毛が全然ない,布(ふ)と言ってもよい軍隊の毛布でしたし,ガーゼも綿球もみんな再生して使っている時代でした。占領軍が物資をどんどん補給してきますと,向こうから来るものはとにかく真っ白で,きらきら輝いているというか,きれいだった。だから,精神的な意味だけではなく,物質的にも「ああ,やっぱりアメリカはすごいんだ,豊富なんだ」という思いがありました。何を言われてもアメリカはいいんだという思いを,学生時代にとっても強く持っていた印象があります。

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