医学界新聞

対談

基準値をどう利用するか
NCCLSの新ガイドラインと日本人の基準値設定をめぐって

菅野剛史氏
浜松医科大学教授
臨床検査医学
   河合 忠氏
自治医科大学教授
臨床病理学


 「基準値」とは,かつての「正常値」に代わる概念である。この経緯については1994年の「週刊医学界新聞」第2085号で,「正常値から基準範囲へ」というタイトルで菅野先生と対談をさせていただいた。
 今回の対談は同じく基準値がテーマであるが,さらにそれ以後,基準値をめぐってどのような動きがあるか,また今後どのようにこれを普及させ,利用していったらよいのかについて考えてみたい。そして,基準値の用い方を,医師をはじめ医療関係職種の方々に十分に理解していただければ幸いである。(河合 忠)


「基準値」の考え方が導入されてから

国試出題基準から「正常値」消える

河合 前回の対談では,「正常値」「正常範囲」という言葉でなく,新しく「基準値」「基準範囲」という言葉が導入された理由,またこれは日本だけでなく世界的な動きであることをお話ししました。
 その後,昨年の6月にNCCLS(National Committee for Clinical Laboratory Standards:米国臨床検査標準委員会)から,基準値の指針として最も新しい出版物「NCCLS Document C28-A」(アプルーブドガイドライン)が出されました。
 その前の1992年3月に出版された「NCCLS Document C28-P」(プロポーズドガイドライン)は,こういう方法で基準値としてはどうかという提案でした。それから3年の間に,様々な方面の専門家から意見を聴取して,それをもとにアプルーブドガイドラインが出版されたのです。つまり,これが現段階での最終的な指針です。
 その内容を見ると,基本的にはプロポーズドガイドラインと変わりません。したがってreference interval(基準範囲),reference values(基準値)の定義については変更はありません。ただ,文章のタイトルが,1992年版のものでは「基準範囲の定義と求め方と使い方」となっていましたが,今回は「基準範囲の定義と求め方」になっています。
 そうなった背景には,基準値や基準範囲を使うのは医師や医療関係職の人たちの専門的な知識によるべきことであって,それについて規格や指針を作るのは適当でないという意見が出たこと,また実際に1992年版の中でも使い方についてはほとんど触れられていないという理由があります。
 もう1つ変わったのは,様々な努力のもとに設定された基準範囲を,他の検査室が利用するときにはどういう方法をとればよいかという点を,前回よりも具体的に詳しく指針として述べていることです。
 日本では,1992年頃から,臨床検査を担当している専門家の間で議論をして,NCCLSの考え方と,日本語名の「基準値」「基準範囲」を導入しました。幸いその後,関係各位の理解が徐々に深まり,今年の5月に厚生省から出された1997年版の「医師国家試験出題基準」の中からは,事実上「正常値」「正常範囲」という言葉が消え,正式に「基準値」「基準範囲」という言葉が盛り込まれています。
 したがって今後は,医学部・医科大学,医療関係職種の教育機関等でも,この言葉が急速に普及していくと考えられます。

診療上の意思決定の基準に

河合 さて,「基準値」の正しい意味を再度確認しておきたいと思います。一般的には,広い意味で使う場合と狭い意味で使う場合がありますね。
菅野 広い意味では,「医師が診療の上で意思決定をするための基準とする臨床検査の数値・結果」と考えてよいと思います。この場合にはあくまでも目安ですから,医師が病態を判断する上でという意味が含まれます。しかしこれを健康の基準値と考えることには問題があると思われます。これが「正常値」という言葉を使わない考え方と一致するわけです。
河合 一般に「基準値」といえば,「医学的に健康と判断された状態での臨床検査の数値および結果」ということだと思いますが,ただ「健康」と判断する基準に曖昧なところがあるため,しっくりいかないと感じられることがあるのですね。
菅野 また,非常に狭い意味では,あくまでも同じ生活習慣をしているグループの基準値と,自分の検査値とを比べるという形での使い方があります。つまり極端なことを言うと,例えば肝炎を患った人たちの「基準値」も存在するわけです。しかし今のところ,混乱を招くのでそこまでの使い方はしていません。
 ですから狭義では,煙草を吸う人,運動をしている人,お酒をまったく飲まない人,若干飲む人といったカテゴリーで,「自分と同じ生活習慣の人の値はどのくらいだろう」と参考にすることになります。

集団の基準値の範囲「基準範囲」

河合 「基準範囲」という言葉になると,今度は個人だけでなく,集団の基準値の範囲ということになりますね。
菅野 NCCLSの指針では,健康と考えられる同一の条件に基づいた人(基準個体)のグループを厳密に設定して,その方々の計測値の分布状態を調べます。そして,その中の95%を含む下限値と上限値の間を「基準範囲」と定義します。
 これには,中央値を含む・含まないで概念の違いがありますが,大部分の場合は中央値を含んだ分布の上限と下限という形で,95%を選べます。統計学的に2つの処理方法があるのですが,どちらを使ってもほぼ同じような値が得られています。
河合 つまり,健康な人たちの値がかなり正確に測れる測定法の場合は,中央の95%を含む範囲と考えてよいですね。
菅野 はい。
河合 しかし測定法によっては0や検出不能などの結果が出るものがありますね。そういう場合は,0から95%を含む上限までと考えてよいですか。
菅野 そうなのですが,その測定法を使うことがよいかどうかは今後の課題だと思います。
 また統計処理法については,プロポーズドガイドラインの時点では,ノン・パラメトリック法でよいという表現がありました。今度のアプルーブドガイドラインは,考え方としてはノン・パラメトリック法でよいが,n数が120以上であれば,ノン・パラメトリック法でもパラメトリック法でもあまり変わらないという概念に基づいています。
 これに関しては,川崎医大の市原清志先生が,現在はパラメトリック法のプログラムが完備しコンピュータも機能しているので,Box-Cox法による「べき乗変換法」を用いてパラメトリックに求める方法のほうがよいと提言しています。基本的にはパラメトリック法をとったほうがよいとの考え方が根強くあると言ってよいでしょう。


基準範囲を他施設で利用するには

河合 それでは「NCCLS Document C28-A」に話を移します。
 このガイドラインを利用する上で問題となるのは,どのように統計処理をするかという点と,ガイドラインに基づいて求められた「基準範囲」を,他の施設で(あるいは同一施設でも時期や測定方法,測定条件が変わった場合などに)どのように利用するかということですね。

transferanceの必要性

河合 基準範囲の設定は,厳密に選んだ健康な人を何百人何千人と集めなければいけないような作業ですから,実際に個々の検査室で独自に行なうのはほとんど不可能に近いですね。まず基準個体の血清や尿を集めるのも至難の技ですし,それからそれを日常の業務の中で測定する労力,そして,試薬や器械類の費用などを考えると,それぞれの検査室がガイドラインに基づいてデータを求めるのは,実質的には不可能なことです。
 ですから,他の検査室が厳密に求めた基準範囲を転用するという状況が出てきます。これにはtransferanceという言葉が使われます。新しいガイドラインでも,他の検査室が厳密に求めた基準範囲をどのように利用するかについて指針を提案していますね。
菅野 このtransferanceは非常に大事な概念ですね。例えば1つのグループがノン・パラメトリック法で120個体以上の人の値から基準範囲を設定しようと考えたとすると,性差や年齢差などの項目を考慮すれば,何千という人数が必要です。とても1つの施設で集められるようなものではありません。したがって,基準範囲は共同作業が可能な施設群や大きな病院で設定される必要があります。

基準個体が同じかどうか

菅野 まず,基準範囲を設定する大もとになるのは「基準個体」ですから,自分の施設の基準個体が,基準範囲のものと同一かどうかを検定する必要があります。
河合 その場合に,日常的にまず考えておかなければいけないのは性別,年齢,それ から健康状態ですか。
菅野 健康状態を把握する際に,やはり飲酒と喫煙は考慮するべきでしょうね。
河合 その他に空腹時などの影響もありますね。また,毛細血管血や静脈血など,採血の場所が問題になることがあります。
菅野 したがって,NCCLS Documentでは,採血の条件を厳しく規定しています。その条件が前提となって基準値を得るわけですから,基準個体を選ぶことと同時に採血の条件の規定は非常に厳しいです。
 測定条件が自分たちのグループと合っているかどうかは非常に大事なことです。例えばある工場の職員で早朝空腹時の採血ができないという場合の値と,早朝空腹時に採血したある病院の基準範囲と比べることは問題があるわけですね。

測定系が同一の施設の場合

河合 測定条件が同じという意味を考えてみたいのですが。これには測定系(アッセイシステム)という概念を持ち込む必要がありますね。測定原理,測定試薬,測定機器,そしてキャリブレーターの4つの要素が同じであれば,同一測定系と見なすということですね。
 同一測定系を使っている施設同士で基準値を利用する場合は,まずどうしたらよいですか。
菅野 同一測定系を使っている施設間でも,測定値が一致しているかどうかを確認する必要があります。まず最低20人の基準個体を万遍なく選び,縦軸と横軸にそれぞれの測定値の関係をとります。そしてそれがほぼ5%の変動以内で一致している場合には,両施設の測定系間には問題がないと認識できるので,すぐtransferanceが可能です。
河合 同一の測定系を使っているのだから本当はほぼ同じ値が出るはずですね。しかし,施設によっては,技術的な熟練度や部屋の温度,あるいはちょっとした操作の違いなどによって,同一の測定系を使っていても値が異なってくることがある。それをまず確認するということです。
 しかし一致しない例があった場合には,その人をはずしてもう一度最低20人になるように別のサンプルを補充して,おおよそ合っていればよいという考え方ですね。60個体を選ぶ方法が望ましいという考え方も示されています。

測定系が同一でない場合

河合 同一測定系を使っている場合はあまり問題がないですね。精度保証をきちんとして,同じ値が出るように検査室間で努力しさえすれば,基準範囲を共有できます。では測定系が違う場合にはどうですか。
菅野 いくつかの考え方がありますが,測定系が違った場合でも,2つの測定法間の互換性の度合いを点検する方法があります。これは,最低50くらいの数を集めて,縦軸と横軸に値をとってその関係を調べ,比例互換性を求めるものです。
 望ましい関係はY=Xですが,例えばY=2Xであっても関係が明らかであれば,お互いにその間で補正すれば基準範囲を転用することは可能です。ただし,同じ内容を測っていることが前提になります。

同じ検査項目でも内容が違うことが

河合 その点はしばしば誤解されますね。同じ検査項目だから同じものを測っていると思っている人が,検査を専門にしている人の中にもいます。例をあげると,最近ポピュラーになったCA19-9という腫瘍マーカーの検査があります。同じ検査項目で,同じ保険診療点数が設定されていますが,測っている原理・内容が違う場合があります。それをお互いに比較しようとしても,無理な相談です。
菅野 酵素の例をあげると,同じGOT,GPTの検査でも,IFCC(国際臨床化学会)が推奨している方法はピリドキサル燐酸が加わったものですね。この場合にはすべての活性化された酵素を測っています。しかし日本臨床化学会と昔のドイツ臨床化学会がとっている方法では,ピリドキサル燐酸を加えていません。
 ですから酵素の状態の違ったものを測っているのです。測定値が一致しないのは当然ですね。それを,同じGOTを測っているからといって,IFCCの方法でとった値を日本臨床化学会の方法に換算することはできません。
河合 それは非常に大切だと思います。
菅野 この概念が理解されていないと,非常に困ったことになります。GOT1とかGOT2などに表現を変えてもよいぐらい違ったものなのです。日本の場合には,昔から消化器病学会がピリドキサル燐酸を加えない方法で評価しているため,日本臨床化学会は,ピリドキサル燐酸を加えない方法を推奨したわけです。
河合 ですから測定系が違うときは,前提として,コミュータビリティが確保されている測定系についてはtransferanceが可能であるということですね。
菅野 関係式に基づいて数値の補正をすることで基準範囲が転用できます。基本的にはY=A+BXで,Aは誤差範囲内でかぎりなくゼロに近く,Bはいくつでもかまわないという条件が保証されれば,その施設間には互換性があります。そして値のバラつきは比例直線上にほとんど乗っている。このような条件での関係がコミュータビリティという概念です。

測定系の標準化

河合 平均値や測定値の場合は,Y=A+BXという関係式で補正できますが,集団の基準範囲になると,上限と下限の間に幅がありますね。上限と下限もその関係式で捉えますか。
菅野 その関係式で考えてかまわないと思います。さきほど言った比例互換性の求め方の中で,おそらく今後は標準血清を使って値を補正し合うという考え方が出てくると思います。
 アミラーゼの測定法を例にとっても,いまはたくさんの方法があります。そしてそれらの方法間の関係を見ると,ある1つの方法で得られた値で補正し合えば測定値はほとんど一致することもわかっています。ですから今後はコミュータビリティの概念を利用して,得られた座標直線上に標準血清の値が乗るならば,その値で補正し合うことは可能になります。
 日本臨床化学会では,「標準化法」という形で,学会の測定法で補正が可能なものは標準化しました。そうすれば,「日本臨床化学会の標準化法の基準範囲」という断り書きをつけて,共通の基準範囲を提示することが可能と考えられます。
河合 将来,臨床検査の標準化は究極的にはそこに行き着くと思います。
 まず測定系の標準化のためには,国際的なレベルで設定された標準物質とreference法の組み合わせによって,標準化された測定値が得られます。それが得られれば,ほかの測定系についても,それに合わせるように補正すればよいわけですね。
 そのように条件が満たされるならば,本格的に求めた基準範囲を,他の施設が共同で利用できます。ということは,それぞれの検査室で独自の基準範囲を求める必要がなくなってきたということですね。


共同作業による基準範囲の設定

日本人の血清蛋白13成分の基準範囲

河合 そこで,共同作業によって基準範囲を設定する動きが世界的に起きていて,日本でも急速に芽生えています。その1つの例として,免疫グロブリンや補体成分などの血清蛋白13成分について,日本人の成人の基準範囲を求めたプロジェクトがありますね()。
菅野 これは7つの施設が共同して,神奈川県予防医学協会が提供してくれた成人病検診などの検診の試料を中心に,それぞれの施設で値を測定したものです。
 なぜ神奈川県予防医学協会の試料を用いたかというと,問診によって,喫煙や飲酒歴,年齢,性などが明らかにされているからです。そのように条件の明らかな検体を用いて,血清蛋白成分について共同作業で測定しました。
 ただし,お互いの施設の測定原理が同じであることが前提ですから,その確認作業を,管理血清を使って行ないました。そのバラつきがある範囲内に入っていることを前提に,最終的には999名から得られた値を分析しました。性別,年齢,さらに飲酒習慣や喫煙習慣によって影響のある項目ではそれによる分類をし,13成分について,基準範囲はかくあるべしという値を設定したのです。
 多施設の共同作業ですし,2000に近い人数からいろいろな除外基準で選出した,非常にはっきりした健康状態の方についての値なので,かなり信頼できる値だと考えられます。今後,この値を目安として様々な展開がなされると考えています。
河合 共同作業の1つのきっかけになったのは,1992年にIFCCの血清蛋白標準化委員会が,国際標準品を作ったことです。つまり国際的に通用する標準血清というものができ,これをヨーロッパ,アメリカ,そして日本で共同で利用できる環境が整ったのです。そこで,本格的に日本人の血清蛋白13成分の基準範囲を求めれば,全国の検査室がその値を利用できるのではないかというのがプロジェクトのねらいです。
菅野 このプロジェクトは国際的に注目されています。各国でも同じような計測がされて,日本人との違いなどについてのディスカッションが起こりつつあります。
河合 世界的動向のきっかけをつくった大きなプロジェクトですね。
菅野 日本がこういうプロジェクトを実施したことで,次のIFCCの作業は基準範囲の設定ではないかということにまで進んだのですね。
河合 いまそれがIFCCの委員会で計画されています。

小児の基準範囲設定

河合 もう1つ,7年越しのプロジェクトに小児の基準範囲設定があります。読者の皆さんも日々悩んでおられると思うのですが,健康な小児の基準範囲をしっかり求めている病院はほとんどないですね。
 国立小児病院などが長年努力して,一部の検査項目についての基準範囲が決められてはいましたが。その他の施設の医師は,研究論文などの「小児の値は成人の値に比べて80%の値を示した」という記述を見て,自分の施設と比べて判断するというように,ある意味では勘で検査結果を判定していたと言ってもよいと思います。
 そこで,7年前に小児基準値研究班が発足しました。そして小児診療をしている全国の300以上の施設の協力を得て,健康な子どもの血液をボランティアで提供してもらったのです。1993(平成5)年から1995年までかかって約1万5000検体の提供を受けました。
 その貴重な血液を,日常診療で最も使われる検査項目104項目について1つの検査室で分析しました。累計で11万4600件の測定値が得られたわけです。

年末までには小児のデータ集を

河合 そして週齢,月齢,年齢別にある程度の数が集まった項目については統計処理をし,基準範囲を求めて一覧表を作っています。週齢別,月齢別,年齢別に十分な検体が集まってない項目については,統計処理に耐えないので統計処理はしていません。しかし実際に得られた数値をグラフの上にプロットして,小児科の先生方にそれなりに判断してもらうことにしています。
 年末までには,日本語と英語でデータ集を作って,日本全国の医療機関や世界に提供する予定です。ただ,transferanceの議論で出たように,データそのままでは測定した検査室の基準範囲にとどまってしまいます。それを他の施設がどう転用すればよいかという指針もつけ加えて,皆さんのご批判を仰ぐように準備しています。
 これが完成すれば,世界に類のない一大プロジェクトとして,小児科診療に大きな福音になると期待しています。
 もう1つなかなか検体が得られない分野に,高齢者があります。高齢者についてはもっと複雑で,60歳を超えれば,80%の人は何らかの異常値を持っています。また,高齢者の場合は生活の様式や活動状態によってかなり値が動く項目もありますので,一朝一夕にはなかなか求められません。現在のところ,大々的なプロジェクトはまだ行なわれていませんが,考えなければいけないことだと思います。

酵素活性の基準範囲提示に向けて

河合 さらに,皆さんが困っているのが酵素活性の検査です。酵素活性の検査は,肝臓あるいは心臓の検査として非常に広く使われおり,検診にもかなり使われていますね。しかし,菅野先生がおっしゃったように測定原理の異なる検査がかなりなされていますので,基準範囲を求めることが大変難しい検査項目の1つです。
 そこで,なんとかこれを標準化しようという目的で,日本臨床化学会酵素委員会が1つの試みをしています。菅野先生が委員長をされていますね。
菅野 はい。日本臨床化学会では,酵素活性測定に関して6つの酵素について勧告法を提示しました。そして,その勧告法で測定した場合の基準範囲は日本臨床化学会が責任を持って提示する必要があるだろうということで,3つの酵素の基準範囲を提示するプロジェクトが動いています。
 ここで問題になるのは,測定法と,もう1つは標準物質がどうしても必要なことです。エンザイム・リファレンス・マテリアル(ERM)と言いますが,これを提供して,日本臨床化学会の勧告法による測定値を添付する形で作業が進んでいます。
 ERMに関しては,もっと世界的視野での考え方をしていて,もしこれが国際的に認可されるならばどの国で使っていただいてもよいという姿勢で取り組んでいます。それだけよいものを提供するつもりで規格を決めて,現在どの製品をERMにするかという作業が進められています。

物差しとなる基準範囲を統一できる

菅野 この他にも日本の各地方で,基準範囲を共有しようという動きがあります。最終的には,測定系が共通ならば利用できる大きなデータベースの中に,個々の作業で測定された値が吸収されていく可能性があります。ですから何十万という数の計測値から,「20代女性のAST(GOT)の基準範囲」などの形で求められるようになると思います。
河合 そのようなボランティア集団の共同作業で集団の基準範囲が求められると,それを多くの施設が転用することによって,臨床検査の有用性がかなり改善されると思います。
 というのは,この十数年の臨床検査の分析技術の進歩によって,ある成分分析についてはどの施設で測ってもほとんど変わらない値が出るのですね。例えば尿素窒素,電解質,ブドウ糖,総コレステロールなどの項目については,どこで測ってもほとんど同じような値が出るようになりました。にもかかわらず,それぞれの施設で使っている物差しである基準範囲が,非常にバラついている現状があります。
 つまり,同じものを測って同じ数値が出るのに,臨床でその値が高いか低いか判断するときに,物差しがバラバラなために判断に狂いが生じるという由々しき状態にあるのです。それを改善するために,基準範囲をできるだけ適切な形で求め,それを臨床の先生方に提供しなければなりません。
 もう1つ,メーカー側も,新しい検査項目や新しい測定原理の試薬・器械を市場に出すときに,今後は検討の一環として基準範囲の設定をしてもらいたいのです。例えば癌に関する検査の場合,癌の患者をたくさん集めてどういう値が出るかを見る調査は,従来からよく行なわれています。しかしさらに大事なこととして,物差し,つまり健康な人の検査も同時に行ない,基準範囲についてもきちんと求めたものをユーザーに提供する義務があると思うのです。そうすることによって臨床検査の有用性が高まると思います。


個人の測定値と生理的変動

河合 いままで集団の基準範囲について話してきましたが,診療は個人が単位ですよね。本当は,目の前にいるその人自身の基準値がほしい。しかしそれがいつもあるとはかぎりません。成人病検診の検査項目についてはデータがあるかもしれませんが,病気になったときに行なう検査項目まではありませんね。
 そのため,仕方なく次善の策として集団基準範囲を物差しにしているのだということを,ぜひ理解してもらいたいと思うのですが,いかがでしょう。
菅野 それを理解した上での診療の留意点として,その人がどういう生活環境にいるかにもう少し注意していただきたいと思います。例えばお酒をたくさん飲んでいる人とまったくお酒を飲まない人の値では,基準範囲が違うことを前提にして評価するということです。
 しかしそのためには逆に,お酒を多く飲んでいる人,少し飲んでいる人,飲まない人という形で,区分けした基準範囲を設定する必要が将来どうしても出てきます。それがその次善の策になります。

生きたヒヨコの体長を測る

河合 仮にその人自身の基準値がある場合,これは絶対的な物差しなのでしょうか。 生理的な変動がありますよね。
菅野 ええ。生理的変動を加味した上で,なおかつ分析の変動を加味して評価すること,そしてそれがどの程度の幅かということを,具体的に検査室の側が提示することが大事だと思っています。
河合 多くの方は,数値が出ると,それがあたかも絶対的な物差しであるかのように考えます。しかし人間の体は,ホメオスタシスの中で制御されていて一定範囲以内に収まっている一方,その範囲内で大きく変動しているという二面性があるわけですね。ここがやはり問題なのです。
 私は臨床検査を,生きたヒヨコの体長を測ることに例えてよく説明します。生きているヒヨコは動き回りますから,体長を正確に測ろうとしても限界があります。また,外部からのいろいろな環境刺激があり,体はそれに対応して変動しています。生きている患者さんの場合もちょうどそれと同じことで,臨床検査の値はある程度大雑把な段階でしか測れません。
 ですから,一般の人に対しては,臨床検査の数値を過信しないことを理解してもらう必要があります。数値の背景にはいろいろなファクターがあるので,医師または専門の医療関係職種の正しい判断の上に立ってはじめて臨床検査の結果が生きてくると言えます。
菅野 IFCCが新しく提供した「検査の適正利用」というガイドラインの中にも,生理的変動や分析の変動を加味してデータを評価するように,検査室が臨床家にきちんと示す必要があると述べられています。
河合 非常に大切なことですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。

(おわり)