医学界新聞

対談
川崎医大救急医学講座開設20年
救急医学の専門性と医学教育
小濱啓次
 川崎医科大学教授・救急医学
   高久史麿
 自治医科大学学長


 きたる11月2日に,川崎医大の救急医学講座開設20周年の記念式典が行なわれる。
 20年の間には,救急救命士の国家資格の創設など,救急医療をとりまく状況の変化があり,また阪神・淡路大震災をはじめとする災害や事故の経験を経て,救急医療体制の整備やあり方についての議論は一層進みつつあると言える。
 本号では,救急医学講座が全国の医大に先駆けて同大に開設された経緯,救急医学教育の課題,僻地医療との関わりなどについて,自治医大の高久史麿氏,川崎医大の小濱啓次氏に語っていただいた。


初の救急医学講座開設の意義

高久 自分のことで恐縮ですが,私は東大を1954(昭和29)年に出たもので,救急とはまったく縁のない世界で教育を受け,卒後も血液が専門だったので,救急とはあまり縁がありませんでした。
 自治医大の開学は1972(昭和47)年で,実際に診療を始めたのは1974年なのですが,自治医大でいざ救急をやろうとなってまず問題になったのが,絶対に採算が合わないということでした。これには救命救急センターの指定を受けていないことなどの理由もあるのでしょうが。
小濱 救命救急センターになると施設・設備・運営費がつきますからね。
高久 おそらく日本でも,80ある医学部,医科大学の中で,救命救急センターを持ってきちんと活動しているところは,まだ少ないようですね。
小濱 はい。どちらかというと私立の医科大学に多いです。
高久 そうですね。救急の重要性は東大(医学部長)のときにも思っていましたし,国立国際医療センター(院長・総長)でも,救急を充実させようと努力しましたが,なかなか難しいですね。
 現在学長を務めている自治医大でも,特に教育の面から救急医学は重要だと考えています。そういう意味で,20年前に日本で初めて川崎医大で救急医学講座を開設したのは,非常に先見の明があると思います。

講座開設まで

高久 先生が救急医学の世界に入られたきっかけは何ですか。
小濱 私は1965(昭和40)に奈良医大整形外科の恩地裕教授のところに入局したのですが,恩地教授がその年の8月に阪大の麻酔科の教授になられたのに伴い,一緒に阪大に移りました。そして1967年に大阪府の補助で阪大に特殊救急部ができ,恩地教授が兼任の部長となられたため,私も麻酔科にいながら特殊救急部に行くようになったのです。1970(昭和45)年には兵庫県立西宮病院に交通災害医療センター(後に救急医療センター)ができ,そこに5年間いました。
 そして1975年の6月頃に,恩地先生から「川崎医大附属病院で救急部を作るそうだから行ってくれないか」という話があったのです。
高久 川崎医大に救急部を作る話は,やはり川崎助宣理事長が中心となって進められたのですか。
小濱 ええ。川崎先生は,病院経営の要は救急であるというお考えをお持ちで,大学病院を開いた直後から救急診療をやりたいと考えられていたようです。
 私はとりあえず麻酔科の助教授として行き,半年間かけて救急部の開設準備をしました。川崎医大は1970年の開学で,1973年に病院がオープンしたのですが,私が行った当時はまだ400床しかありませんでした。ですから教授会でも,各科の体制ができていないときに救急部を作ってどうなるのかという意見が多く,その他いろいろな点で半年間非常にもめました。
 川崎先生は最初,従来の救急部,つまりとりあえず医師を置いて,どんどん患者を受けて,それを各科に渡すという形を考えておられました。ですからそれほど定員も予算もいらないと。ところがやはり,医大はまず講座に定員がついて,それが科の診療をするという形が基本だから,講座が必要だということになり,それからもめたわけです。

初めは麻酔学講座の1つとして

小濱 半年後の1976(昭和51)年4月1日に,「麻酔学第3講座(救急担当)」としてやっと医師の定員がつきました。川崎先生は救急部として定員を置きたかったけれども救急医学講座が認められなかったために,結果的に出てきたのが  。
高久 麻酔科に入れることですね。
小濱 当時は,麻酔科の医師が救急に関わることが多かったのです。ですから,とりあえず大学では麻酔学講座に,病院では救急部に行きなさいということで,麻酔学第3講座の教授兼救急部の部長でスタートしました。同時に,6年生に対する救急外来での臨床実習を始めました。
高久 臨床実習をすぐ始めたのですか。
小濱 はい。それで,麻酔学と名がついていても,救急ですから麻酔とはまったく関係のない実習内容ですし,診療も麻酔をかけるわけではないですよね。そういうことから,1977(昭和52)年の1月1日付けで麻酔学第3講座改め救急医学講座になりました。これが全国初の救急医学講座になったのです。したがって救急医学講座としては今年が20年目ですが,救急の教育を始めてからは21年目になります。


救急医学の専門性-初期から3次まで

高久 自治医大ができて診療を始める前年頃に,主にアメリカのいろいろな病院に行ったのですが,アメリカで一番印象深かったのがやはり救命救急センターです。非常に活発ですし,しかもアメリカは救急でも結構稼ぐのですね。さらに学生の教育もしているということで,印象に残りました。
小濱 救命救急センター以外の病院では,アメリカはどちらかというと外来での初期治療とトリアージが救急の中心ですね。
 日本では,阪大の特殊救急部が,わが国初の救急専任医を置いて救急診療を開始した病院だと思うのですが,重症の労働災害や交通事故に遭った人を収容する目的での設置でした。つまり日本では重症患者の外科的な治療から救急が始まったわけです。ですからアメリカはプライマリケアから始まり,日本はどちらかといえば重症の3次救急から救急専門病院ができたと言えます。

総合外来と救急診療

高久 川崎医大では総合外来と救急とは別ですか。
小濱 川崎医大には総合診療部がありますが,一緒にはやっていません。総合診療部というのは,どちらかというと家庭医の立場で,内科疾患を中心として,訪問医療を含めた活動をしています。
 また昼間,紹介のない新患は原則としてすべて総合診療部の外来に行きます。そこで診て,例えば外傷や心筋梗塞などの重症患者は,救急部に紹介されてきます。そして夜間は,昼間であれば総合診療部に行くような患者も含めて,風邪から何からすべて救急部で扱っているわけです。救急部は24時間常に動いていますが,患者の85%が夜間休祭日です。
高久 なるほど。私は総合外来と救急を1つにできないかと思っているのですが,どうでしょう。
小濱 私のところも一時そういう話はかなりありました。しかし救急としてすでに24時間動いている中で総合診療部と一緒になるとかえってややこしくなるので,総合診療部は総合診療部で日中の診療を行なうことになりました。川崎医大はもともと救急医学講座があって,それから総合臨床医学講座ができた。つまり元来分かれた形で開設されたわけです。
高久 そういう歴史的な背景もありますね。国立国際医療センターでは,総合外来が以前からあって,私がいる間に救急と一緒にするという体制になりました。スタッフの人数が少ないものですから,合わせないともたないのですね。

救命救急センターになる意義

高久 いまスタッフは何人くらいですか。
小濱 専任の医師は10人です。教授が2人,助教授が2人,講師が6人。あとはレジデントと研修医です。
高久 多いですね。
小濱 講座開設後,軽・重症を含めたすべての救急疾患を24時間体制で診療しましたので,とても手が足りなくなりまして。川崎医大は1講座に教授1,助教授1,講師3が定員なのですが,救急を2講座にして,第1救急医学講座と第2講座を合わせて計10人にしたのです。
 風邪から3次救急まで,患者数は外来患者が年間2万人以上,入院が1500人くらいです。
高久 ベッドは何床あるのですか。
小濱 いまは集中治療室(ICU)が10床と一般病床が46床で,合計56床。これは全部救急専用です。講座開設当時は経過観察用に5床だけでした。
高久 川崎医大が救命救急センターになったのは1979(昭和54)年ということですが,それで人が増やせたということもあるのでしょうね。
小濱 そういうことです。また,救命救急センターになって初めて専属のICUを作ってもらい,それで安心して医療ができるようになりました。そういう意味で救命救急センターになることは非常に重要な位置を占めると思います。
高久 重要ですね。ところでICUを含めて56床ということですが,救急から専門科のベッドに移る人はどれくらいいますか。
小濱 だいたい4割です。
高久 大学によってはベッドが6つか8つで,基本的にアメリカ方式のところもありますね。そこへあまり長い時間置かないで,他科に移すという。
小濱 そうですね。いま日本の大学で多いのは,いわゆる救急部と救命救急センターが別になっていて,救命救急センターは救急専属で3次救急だけ,救急部は初期救急と2次救急で各科の医師が診るという二本立てになっている施設です。多くは救急部と救命救急センターは別ですね。川崎医大はこれを一本化しています。ですから私は救急部と救命救急センターの部長を兼任しています。

救急診療の方式

小濱 救急診療を行なうには,独立型と各科方式と2つあって,どちらがよいかよく議論になります。私は独立併設型がよいと思っています。これはどういうことかというと,救急部や救命救急センターが総合病院に併設されていて,そこで働く医師は救急専門の医師であるということです。この方式だと運営がうまくいくと思います。
高久 他科に協力してもらう必要がありますからね。
小濱 はい。救急部で診断・治療ができる範囲の患者はよいのですが,できない場合は各科にお願いしないといけませんから。
 救急医学教育を行なうには,この初期から3次の救急の中で,外傷の患者が来たときにそれを鑑別して,これは脳外科だ,これは胸部外科だと決めること,それが重要です。「お腹が痛い」と言う患者にも,消化器疾患もあれば婦人科疾患も泌尿器科疾患もある。これらの患者の中には救急医だけで診ることのできない疾患もあります。これは各科にお願いするということです。
高久 私も,卒前卒後の救急医学教育を考えると,そのほうがよいと思います。特に卒前は。
小濱 そうですね。救急専業医を育てるのではなくて,すべての学生・研修医に救急医学教育をするということを考えるとそう思います。

救急医学のピラミッド

小濱 日本の救急医学は3次救急からスタートしていますから,例えば川崎医大でもICUを10床持っていて,手術や集中治療ができるわけですね。これは日本医大など他の私立医科大学も同様です。
 救急医学には個々の初期診断と初期治療,鑑別診断が基本にあって,その上にICU的な,これはクリティカルケア・メディシンといってもよいと思いますが,救急特有の重症患者管理があります。それは体液管理であり,呼吸管理であり,循環管理です。そしてその上に外科的な頭部外傷の手術や急性腹症の手術があります。
 そういうピラミッドになっていて,裾野のほうで学生教育や一般の研修医教育ができて,さらにその上で救急専門医を育てるという考え方です。
 救急では風邪などの他に重症患者もいて,どのような疾患か,入院させるのかさせないのかなど,鑑別過程が大事です。これはすべての医師に必要な基本的なことで,その上にわれわれ救急医の,専門医としての3次救急があるという考えでやらないと本当の救急医学教育はできないと思います。


卒前・卒後の救急医学教育

救急医学教育は実地なしにはあり得ない

高久 いま私が不満に思っているのは,日本の卒前・卒後の救急医学教育が不十分なことです。
小濱 ええ。救急医学教育は生の救急診療なしにはあり得ないと思います。理論だけでは教育になりません。ですから大学として,あるいは関連病院で24時間体制の救急診療を行ない,その中で卒前・卒後教育をしていくことが最も大事だと思います。そのための努力をぜひ各大学でしていただきたいし,またそのときに大切なのは3次救急だけではなくプライマリの救急から診ることだという点を,ご理解いただきたいと思います。
高久 それからまた,救急医療体制そのものがまだ不十分ではないかと思いますが,いかがですか。例えば,救命救急センターの数が不十分ではないかということなのですが。
小濱 そうですね。しかし1992(平成4)年からは2次医療圏に1か所,つまり30万人に1か所作るようになりました。1977(昭和52)年に制度ができたときには100万人に1か所でしたので,いまは数は相当広がっています。
高久 ただ,医大の付近に1つあると,それでその地域にはもういらないとなってしまうでしょう。救命救急センターが大学にあると教育の上で利点が多いと思うのです。またセンターでないと経営上無理がありますからね。

救急医学講座は25大学に

高久 しかし救急医学講座はだんだん増えてきているのですね。
小濱 いまは全国で25大学にできています。ただ残念なことに,国立大学の救急医学講座は,医師の定員が3人なのです。そして救急部の定員は1人。これではいかんともしがたい。私立の場合は,ほとんどが救命救急センターを誘致して,定員数を増やし設備を整えて活動していますが,国立大学の体制はあまりにも私立との格差が大きすぎて,今後の大きな問題だと思います。
高久 国立大学は救命救急センターにならないのですか。
小濱 救命救急センターは厚生省の補助事業で,国立大学は文部省管轄ですから,難しいようです。ですから,文部省が厚生省と同じように,大学における救急医療をよくするような別枠の予算を組んで,センターに準じる施設・設備,人員を配置する必要があると思います。
高久 文部省が設置した「21世紀医学・医療懇談会」(会長=浅田敏雄氏)の中には教育部会,研究部会,教育病院部会の3つの部会があります。私は大学病院のあり方を考える「教育病院部会」の長になっていますが,救急は非常に大きな問題ですね。
小濱 いまのままだと定員に縛られていますので,別の予算をとって,新たに国立大学に救命救急センターのような施設を作っていくべきだと思います。
高久 本来は救命救急センターを病院に置くようになればよいわけですね。
小濱 そうですね。
高久 定員3人だと救急ではかなり厳しいし,ベッドも少ないでしょう。
小濱 そうです。一応3~5床だと思うのですが,大学の院内事情によって異なるようです。

全科の研修医が救急部に

高久 川崎医大救急部での卒後研修はどのような形ですか。
小濱 川崎医大では,ほとんどすべての科の研修医が救急部に研修に来ます。
高久 全部の科の研修医が回る。
小濱 ええ。外傷だけでなく,心筋梗塞や脳卒中などもありますから,卒後研修にも非常に有用です。内科の研修医も外科系の疾患を診て,小さい縫合などができますし,外科の研修医は小児科や内科が診られます。
高久 全科の研修医が来るということは,卒後研修カリキュラムに救急が入っているのですね。
小濱 はい。
高久 救急が専門の研修医はいるのですか。
小濱 います。しかし,それはそれで整形外科などにローテーションしていますので,救急部にはどちらかというと他科の研修医のほうが常に多いです。
高久 将来救急の専門に進むにしても,その前にむしろいろいろなことを勉強しておいたほうが,将来は救急をやるわけですから合理的ですね。
 そうすると,研修医は1年間に100人くらいですか。2年間で200人。
小濱 いえ,川崎医大は大学に残る研修医は約1/3なんです。ですから40~45人くらいですね。
 年間40人くらいが救急にローテーションで来て,1単位2か月で回って,中には3か月から半年いる者もいます。

卒後研修の今後の動向

小濱 アメリカの場合は,大学病院のような総合病院が24時間体制で救急診療をしていて,そこに毎日300~1000人くらいの患者が行きます。その中で卒前・卒後教育もしていて,すべての科の医師が相当数の救急患者を診てから自分の専門科に進みますから,基本的な救急対応はできる形にできあがっています。
高久 たしかカナダでは2~3か月救命救急センターでの研修を受けないと医師になれないと聞きました。臨床研修必修化については微妙な問題がありますが,日本でも救急の研修は必要ではないでしょうか。
小濱 厚生省では,卒後研修で小児,外科,内科,救急を必須にすることを考えているようです。
高久 救命救急センターがあるとよいのでしょうが,なくてもできないことはないですね。外の施設に出ればよいわけですから。
小濱 そうですね。救急救命士の制度ができてしばらく経ちましたが,彼らは除細動ができ,いずれ気管内挿管も行なうようになると思います。この制度を作った厚生省は,すべての医師に,鑑別診断の他に,気管内挿管や静脈路の確保などの研修をしてほしいと考えていると思います。医師の基本的業務として,耳鼻科の医師でも眼科の医師でも,救急救命士ができる処置はできないと困るということです。
高久 それがないと医師としての自信もつかないでしょう。
小濱 これからは,自分の医院の前で交通事故が起こって重症患者が出た場合,「俺は専門外だから早くほかの病院に連れていってくれ」というのでは済まないと思います。
高久 みっともないですね。
小濱 ある医院での話ですが,患者が急変したので救急車を呼んだところ,救急救命士が来て,心電図をとると心室細動だったそうです。救急救命士は医師の指導のもとに行動することになっていますから,除細動器を持って,その医院の医師に「先生,心室細動です。早く“やれ”って言って下さい」と言い,そこで医師が「わかった,やってくれ」と言って,救急救命士が除細動をし,患者は助かって社会復帰したという。これは実際にあった話なんですよ。


救急医療と僻地医療

高久 特に自治医大の卒業生は僻地医療に行きますから,まさに1次から2次までの救急診療ができないと仕事になりません。
小濱 私は1994(平成6)年から毎年僻地医療についての現地調査をしているのですが,絶対に救急の知識は必要ですね。救急部で研修すれば,かなり僻地で役に立つ医師になると思います。
高久 そうです。3次救急までは自分でできなくても,その鑑別はできないと困りますね。
小濱 そうですね。救命救急センターでは,3次も含めていろいろな救急患者が来るので,これは手術が必要だとか,これは入院させるべきだとかいう判断もできます。そういうところで教育された医師は,離島に行っても,本島に移して大きな病院で治療すべきなどの判断が早くできますから,そういう意味で救命救急センターを含む救急部での卒前・卒後教育は大切だとずっと考えています。
高久 そう思いますね。現実がなかなか思うようにならないのが不満なのですが。

医療のない地域は過疎化が進む

小濱 先生が自治医大の学長をされているのでお願いなのですが,僻地をあちこち回ってみると,やはり医師が足りないですね。ぜひ僻地医療に参加する医師の数を増やしていただきたいと思います。
 僻地を回っていて思うのは,医療のない町村は過疎化が加速的に進むということです。普通,過疎と言えば若者がいなくなりますね。しかし,「医療がない」とは「福祉がない」ということですから,お年寄りまでもが老後が心配だといって,子どものいる街に出てしまうわけです。そうすると加速的に過疎化が進んでいく。
 僻地でも,非常に医療に熱心な地域にはむしろ若い人が帰ってきているのです。そういう意味で,過疎化を防ぐためにも,私はよい医師が過疎の村や離島にいることは,すごく大事だと思っているんです。
高久 自治医大の卒業生が僻地医療に行くのは9年間となっていますが,途中で研修をしないでずっと行きっぱなしというのは難しいようですね。むしろ問題は,9年経つとその地域の行政が医師を放り出している場合があることなのです。9年経っても彼らが僻地医療に従事するような体制を作ってもらう必要があります。もともと義務年限で縛るのは,いまの時代には非常に困難ですから。
 彼らが満足して僻地医療に従事できるような体制を作っている県はうまくいっているようです。しかし義務年限の間だけあちこち配置するような県も多いのです。県によっては9年経つと出されてしまい,困って開業したり私立の病院に行ったりする卒業生もいます。もちろん大学に帰ってきたり,自分の好きなことをやりたい者も出てくるでしょうが,義務あけの卒業生のかなりの部分の人たちは,体制さえあれば僻地医療をやりたいと言います。行政のほうでそれをできない状態にしてしまっているのですね。

全国の大学に救急医学講座を

高久 さて今回,川崎医大の救急医学講座が開設20周年を迎えるということですが,今後の展望はいかがですか。
小濱 開講以来,医学教育の中に救急医学教育が必要だという考えで活動していますが,それはいま学内でほとんど認められており,おかげで各科から研修医がきていますし,各科からも研修に対して高い評価を得ています。
 川崎医大のあと,6年後(1983年)に日本医大に救急医学講座ができ,その次に1986年に阪大にできたのが3番目です。阪大は,その前に特殊救急部を開設した時の体制をベースに講座を作りましたから,他の国立大学と違って,医師の数は8人,ベッドも15床あります。そのあとはどんどん増えていますが,ぜひ他の大学でも救急医学講座を作って救急医学教育を始めていただきたいです。
 私は20年やってきて絶対に大丈夫という自信がありますので,ぜひ全国の大学に講座を作ってほしい。そして,すべての医師が,少なくとも目の前で患者さんが倒れたときには,救命治療ができてある程度の鑑別診断ができるようになってほしいというのが,私の今後の願いです。
 また,今後は僻地医療も考えていきたいのです。まだ具体的には考えていませんが,都市部の医科大学で救急医学に従事している医師の会を作って,個々の大学が責任を持って,若手の医師を僻地・離島に絶えず交代させながら派遣すると。やはり僻地医療を自治医大やその県の医大だけに頼るのでは,いつまでたっても解決しないと思うんです。
高久 しないでしょうね。
小濱 むしろ東京とか大阪とか,都会の大学も僻地医療の責任を担う。そういう組織を作りたいと思っています。もちろん僻地医療を専門にしている医師にも入っていただいて,救急医学を僻地医療まで広げていかれないかと最近考えています。
高久 ありがたい話だと思います。本日はどうもありがとうございました。

(おわり)