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≪シリーズ ケアをひらく≫

中動態の世界

意志と責任の考古学

著:國分 功一郎

  • 判型 A5
  • 頁 344
  • 発行 2017年04月
  • 定価 2,160円 (本体2,000円+税8%)
  • ISBN978-4-260-03157-8
失われた「態」を求めて-《する》と《される》の外側へ
自傷患者は言った。「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」依存症当事者はため息をついた。「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」-当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか?それ以前に、私たちの思考を条件づけている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。
*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
本書が小林秀雄賞を受賞!
第16回小林秀雄賞(主催:財団法人新潮文芸振興会)が2017年8月18日に発表となり,本書が選出されました。同賞は,自由な精神と柔軟な知性に基づいて新しい世界像を呈示した作品に授与されるものです。同賞の詳細情報は こちら(新潮社「小林秀雄賞」のページ)

●著者からのメッセージです。

《中動態が失われたというのは何を意味するかというと、意志を強く問う言語、尋問する言語が登場したということだと思います。ではなぜ意志にフォーカスする言語が出てきたのか?》
『週刊読書人』2017年6月23日 講演「失われた『態』を求めて」より)

《私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」-「する」と「される」の外側へ》-國分 功一郎(哲学者・高崎経済大学准教授)
「現代ビジネス」講談社、2017年4月2日より)

《『中動態の世界』の謎に迫る!》
「かんかん!-看護師のためのwebマガジン」医学書院、2017年3月28日より)

●新聞で紹介されました!
《國分さんは自ら哲学してるという感じがすごくあって、そういう仕事を出来る人は同じ時代に日本にたくさんはいないんです。しかも、母語でない言語だから一番難しい、それをやってしかもこれだけの結果を出すのは凄いことだなと思いましたね。》――大澤真幸(社会学者)
『週刊読書人』2017年6月23日 対談「中動態と自由」大澤真幸×國分功一郎より)

《あたかも、地下迷宮に潜り込み、いにしえの名剣を手に入れた冒険家が、地上に戻り戦いに向かっていくかのようだ。》―野矢茂樹(東京大教授・哲学)
(『朝日新聞』2017年5月21日 読書欄・BOOK.asahi.comより)

《たとえばアルコール依存症の人々は、自由に飲酒する喜びを喪失した人々、自身の「外」にある病によって飲酒を強制された人々、と言えるだろう。…彼らの「本質」と「自由」の回復を支援する臨床家にとっても、「中動態」から見える風景は、新たな希望の糧となるだろう。》-斎藤環(筑波大教授・精神科医)
(『毎日新聞』2017年5月28日 読書欄より)

《充実した哲学書であるとともに、きわめて臨床的な書物である。…精神病理学/精神分析の思考を刺激する本書が、医学書院の「シリーズ・ケアをひらく」で出た意味は大きいと言わざるをえない。》-松本卓也(京都大准教授・精神科医)
『図書新聞』第3305号 2017年6月3日 より)

《シリーズ「ケアをひらく」の一冊に入った本書で、看護が正面から論じられる場面はほとんどない。だが、私たちが生きる現場を根底から見据える視点を、哲学から与えてくれる。》-納富信留(東京大教授・哲学)
(『読売新聞』2017年5月7日 読書欄より)

《これまで人は行動をどう捉えてきたか。これが本書のテーマだ。〔…〕読み終えて現実だと思い込んでいた夢から醒めるような感覚にくらくらする。》-山本貴光(文筆業・ゲーム作家)
(『日本経済新聞』2017年4月29日 読書欄より)

●webで紹介されました!
《「まさにそこを質問したかった」と読み手の気持ちを先取りする、「そんな大事な論点が残っていたか」と蒙を啓かせる、「そんな細かいところまで詰めるのか」と感心させられる、本書では、そんな驚きの問いが次から次へと繰り広げられる。》-小木田順子(編集者)
『三省堂書店×WEBRONZA 神保町の匠』2017年04月20日より)

《この論点を「ケアをひらく」というシリーズ内に収めたことも秀逸な視点だと思う。アルコール依存症や薬物依存症の問題は、本人の意志だけではどうにも解決できないのだが、周囲に正しく理解されないことも多い。これを回避するための術が、この中動態という概念の中に眠っているかもしれないというのだ。》-内藤順(書評家)
『HONZ』おすすめ本レビュー 2017年04月11日より)
序 文
プロローグ-ある対話

-ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

-ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂...
プロローグ-ある対話

-ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

-ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう」

-それは「この人は自分とは違う……」って感じるということですか?
「そういうのもあるかもしれないけど、人とのほどよい距離に耐えられない」

-多かれ少なかれ、そういう気持ちは誰にでもあるような気もしますけど。
「でも、私たちの場合、人との安全な距離というのがよく分かってない。だから、たとえば相手から聞かれれば、実家の住所から電話番号、携帯のアドレスも全部教えちゃう」

-自分でうまく相手を選べない、と。
「というか、そもそも人間関係を選んでいいなんて知らないんです」

-ああ。
「ちょっと親しくなると、『全部分かってほしい』ってなる。相手と自分がピッタリ重なりあって、〈二個で一つ〉の関係になろうとしてしまう。自分以外は見ないでほしい。自分以外としゃべってほしくない。そういうふうに思っちゃうわけ」

-その相手に一〇〇パーセント依存しようとするというか……。
「だから私が話を聞いて『大変だったね』って言うよね。そうすると次のときにクスリを使ってきたりする。『こんなでも受け入れてくれる?』って彼女たちはそう思ってしまう」

-それは分からないことはないけど、うまく想像ができない感じもあります。いちおう理解できるけれど、目の前で本当にそれをやられたらショックというか、自分はうまく対応できない気がする。
「そう、援助する人も傷つくんだよね」

-そういう話を聞くと、どうしても「しっかりとした自己を確立することが大切だ」と思ってしまう自分がいるんですが……。
「まあ私たちっていつも、『無責任だ』『甘えるな』『アルコールもクスリも自分の意志でやめられないのか』って言われてるからね」

-そういう言葉についてはどう思いますか?
「アルコール依存症、薬物依存症は本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気なんだってことが日本では理解されてないからね」

-そういう言葉を発したくなるという気持ちは正直分かるんですよね。病気だってことは知ってます。でも、やっぱりまずは自分で「絶対にもうやらないぞ」と思うことが出発点じゃないのかって思ってしまう。
「むしろそう思うとダメなのね」

-そうなんですか。
「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」

-そこがとても理解が難しいです。アルコールをやめる、クスリをやめるというのは、やはり自分がそれをやめるってことだから、やめようって思わないとダメなんじゃないですか?
「本人がやめたいって気持ちをもつことは大切だけど、たとえば、刑務所なんかの講習会とかに呼ばれるじゃない? クスリで捕まった女性の前で話すんだけど、話が終わった後で、刑務官の女の人が『みなさん、分かりましたか。一生懸命に努力すれば薬やアルコールはやめられます。あなたたちもしっかり努力しなさい』なんてまとめをされて、『ああ、私が一時間話したことは何だったの』とかなる」

-僕の友人でも、「回復とは回復し続けること」って言葉の意味が全然分からなかったという人がいるんですよ。彼は「ずうっと毎日、回復の努力をし続けなければならないなんて大変だなぁ」って思っていたと言う。
「こうやって話していると何となく分かってくるんだけど、しゃべってる言葉が違うのよね」

-と、言いますと?
「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」

-ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその二つの狭間にいるという感じかな。
「そうやって理解しようとしてくれる人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね……」

-僕なんかはお話をうかがっていると、むしろふだん見ないようにしている自分が見えてくる感じがしますけどね。だから、別世界の話とは思えない。けれどもそれが別世界の話じゃないと理解するのを妨げる何かがあって、僕のなかにもその何かがまだ作用している気がする。
「やっぱり言葉だと思う」

-そうですね。この相容れない二つの言葉って何なんでしょうね……。
書 評
  • 「能動的な学び」の価値観に一石を投じる(雑誌『看護教育』より)
    書評者:大谷 則子(和洋女子大学看護学部設置準備室)

     能動的な学習者を育てる,という言葉が盛んにいわれている昨今,私は,能動と受動といった二項対立の枠組みとは異なる,もう少し自由な学習者のとらえ方があるのではないか,というジレンマに陥っていたことがある。なぜ,安易に学習者を二項対立の図式にあてはめようとするのか。
     能動と受動の対立,つまり「する」...
    「能動的な学び」の価値観に一石を投じる(雑誌『看護教育』より)
    書評者:大谷 則子(和洋女子大学看護学部設置準備室)

     能動的な学習者を育てる,という言葉が盛んにいわれている昨今,私は,能動と受動といった二項対立の枠組みとは異なる,もう少し自由な学習者のとらえ方があるのではないか,というジレンマに陥っていたことがある。なぜ,安易に学習者を二項対立の図式にあてはめようとするのか。
     能動と受動の対立,つまり「する」か「される」かの対立には意志と責任の概念が存在し,これが善か悪かの二項対立の判断基準になるという。学習においては,能動的な学習者が意志と責任を担う善で,受動的な学習者が悪とされる。
     しかし,この本はそこに疑問を投じる。「強制ではないが自発的でもなく,自発的ではないが同意している」という事態は,看護基礎教育の現場にも,臨床の現場にも,ありふれている。「それが見えなくなっているのは強制か自発かという対立で,すなわち,能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして能動と中動の対立を用いれば,そうした事態は実にたやすく記述できるのだ」と著者は語りかける。
     では,中動態とは何か。著者は中動態の起源から歴史的な背景と変遷を紐解き,迫っていく。言語学者バンヴェニストによると,能動と受動の対立においては,するかされるかが問題になるのであるが,能動と中動の対立においては,主語が過程の外にあるか内にあるかが問題となる。
     この考え方をもとに臨地実習における学生とのかかわりを例に挙げてみると,学生は,対象者との間でさまざまに揺れ動く相互作用プロセスの内に存在しているため,臨地における学生は中動的に存在しているとも考えられる。つまり,臨床の現実に圧倒され,自分からは手も足も出ないように見える学生であっても,まちがいなく看護という相互作用のプロセスのなかにいるのだ。中動的な存在である学生というとらえ方は,プロセスの外側から学生に能動的であることを強いる教員に疑問を投げかける。一見すると教員の答えを待っているだけの受動的に見える学生ではあっても,中動的にそのときその場に存在するなかで学びを得ているのだ。こうした新たな学習者観をもつことは,形式だけの能動を強制せず,ゆるやかに学び続けることを可能にするのでないだろうか。
     これは,自らの看護実践における対象者との相互作用や,日常の学生とのかかわり,学習者のとらえ方などにも通じるであろう。私自身が生きるあらゆる過程の内において,中動態の世界はとても自然だ。この世界を知ることは,自由に近づき,自分自身を解き放つ素敵な発見であると私は感じている。

    (『看護教育』2017年7月号掲載)
  • 中動態の歌(雑誌『精神看護』より)
    書評者:伊藤 亜紗(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)

    1 世界に対してできる作用

     15年ほど前に、初めてバリ島のウブドという村を訪れた時のこと。薄靄の中で目が覚めた私は一瞬、国立競技場のピッチのど真ん中、しかもサッカーW杯の決勝戦がまさに行われているピッチのど真ん中に自分が横たわっているのではないかと錯覚した。満員の観客席から湧き...
    中動態の歌(雑誌『精神看護』より)
    書評者:伊藤 亜紗(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)

    1 世界に対してできる作用

     15年ほど前に、初めてバリ島のウブドという村を訪れた時のこと。薄靄の中で目が覚めた私は一瞬、国立競技場のピッチのど真ん中、しかもサッカーW杯の決勝戦がまさに行われているピッチのど真ん中に自分が横たわっているのではないかと錯覚した。満員の観客席から湧き上がる歓声にも似た、地鳴りのような生き物たちの大合唱が、夜明けのウブドを包んでいたのである。ホテルといっても壁のない部屋で私は、天井から吊られた蚊帳の中でじっと横になったまま、ジャングルのあらゆる葉の陰、あらゆる石の下、あらゆる水の辺に生き物がいて、それら一匹一匹が自分に可能な方法で音を出し、満足し、また沈黙に帰っていく様子に、じっと耳を澄ませていた。


     虫もいたし鳥もいたしトッケイという鳴くヤモリもいた。面白いのは、この大合唱には時間的に移ろう「模様」のようなもの、パターンの変化のようなものがあったことだ。もちろん楽譜はないが、かといってただのカオスでもない。右の藪からある種類の虫の声がわーっと聞こえてきたかと思えば、今度は奥の田んぼから別の種類の虫が一斉に声をあげ、その音の層に穴を開けるようにトッケイが鳴き始め、その違和を埋めるようにして樹冠で鳥たちが鳴き出す。そんな具合に、ゆるやかな構造が生まれては消え、消えてはまた生まれながら、生き物たちの大合唱は日が昇るまで続いたのである。

     「あいつが声を出したからオレも返事しよう」とか、「隣の田んぼの住人には負けたくない」とか、生き物たちが思っていたかどうかは知らない。知らないが、明らかに同調する動きや、逆に打ち消そうとする動きがあり、その「模様」に聴き入りながら、人間の営みと言われているものも、じつは同じようなものなんだろうな、と思っていた。

     私たちが世界に対してできる作用はただ2つ、「同調(YES)」と「違和(NO)」だけだ。生起しつつある運動の流れに、身を任せるないし加速させるか、それとも異質なものを付け加えるか。コマンドはこの2つしかないけれど、エージェントの数が多いからきわめて複雑な、相互に干渉しあうネットワークが生まれる。それが社会なのではないか、と。


    2 いつも“意志”して行動してる?

    ◆「能動か受動か」では分けられないこと

     國分功一郎『中動態の世界』は、「中動態」というインド=ヨーロッパ語族の失われた文法カテゴリーを発掘しながらも、いわゆる言語学の領域を超えて、世界の新しい見方、つまり「中動態的な見方」を教えてくれる哲学の本である。文法カテゴリーとしての中動態は、「意志」概念の誕生と共に衰退した。だから「中動態的な見方」とは、一言でいえば、「意志」の枠組みを外すことによって見えてくる行為や出来事のありようを捉える、ということである。

     もとになっているのは本誌『精神看護』に2014年1月号から11月号まで連載されていた論考だ。主題的に論じられることはないが、発端になったのは、依存症患者とのかかわりだったという。アルコールや薬物に依存してしまう人は、まさに「やめようという意志が弱いからやめられないのだ」といった「意志」の枠組みで責任を追及されがちだ。ところが彼らの実感としては、「依存したくないのに依存させられている」だったり、「やめようとすればするほどやめられない」だったり、意志や責任といった概念ではスパッと割り切れないものを抱えている。むしろ、概念のほうに、私たちの心の動きや行為の構造には合わない、不具合があるのではないか。そのあわいをすくい取るために本書は、そうした概念を支えている言語の仕組みにまで遡り、「中動態」という失われた態を召喚するのである。

     中動態は、能動態でも受動態でもない、はたまたその中間でもない、全く別の態である。インド=ヨーロッパ語はある時代まであまねくこの態を持っていたことがわかっており、古典ギリシャ語にもサンスクリット語にも、中動態はふつうに存在する。しかしラテン語では失われている。いまでは能動態と受動態が対のように考えられているが、かつては能動態と中動態の対立があった。受動態は、中動態から派生してその地位を奪い、ついでに相方となる能動態の意味をも書き換えたのである。

     能動態と受動態は、行為や出来事を「する」と「される」に二分するシステムである。「する」というと、意志して自発的にやっているようだが、実際の行為や出来事を観察してみれば、話はそんなに単純ではない。「やらざるを得ないからやっている」行為や、「やらされたわけじゃないけど、すすんでやっているわけでもない」行為のような、どっちつかずの例がたくさん存在する。というか、そんな行為が日常にはむしろありふれている。例えば私が本を拾う時、それは落ちたから仕方なく拾うのであって、どう見ても意志的な行為とは言えない。かといって、拾わないという選択肢もないわけではないのだから、強制とも言えない。そんな「能動か受動か」では割り切れない事態も、中動態ならうまく語れる、というわけだ。

    ◆「意志」があやしい

     そもそも「意志」という概念がそうとうあやしい。意志は、〈私〉が〈意志して〉〈行為する〉という形で、行為の起点を「私」の中に置こうとする。しかしそもそも、100%自分発進で始まる行為など存在するだろうか。

     私が本を拾う時、その前にまず「本が落ちる」という出来事があったはずだ。本が落ちる手前には「本を机の上に積み上げる」という習慣があったはずで、さらにその前には「読み切れないほどの大量の本を買い込む」という衝動が、その前には「講演会で面白そうな本をたくさん紹介される」という出会いが、さらには「その講演会に行こうと友達に誘われる」という人間関係があったかもしれない。その講演会に行くにしても、たまたまその日に「上司に仕事を褒められて気分がよかった」から何となく行ったのかもしれないし、「同姓同名の小説家が講師だと勘違いして」行ってしまったのかもしれない。要するにすべての行為は、過去に起こったさまざまな出来事との関係でなされているのであって、決して「私」を絶対的な開始地点として起こっているわけではない。「意志」という仕方で強引に開始地点を確定することは、「無からの創造」と同じくらい無謀なことなのだ。

    ◆意志とは、「過去の切断」である

     著者は、哲学者ハンナ・アレントにならって、意志を「過去の切断」と定義する。「責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は、私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする」(132頁)。

     確かに、仮にあの本が、「前を歩いている女性のカバンから落ちたもの」であったとしたら、それを拾うことは「女性のもとに返す」という責任を生む。どうも声がかけづらくて、あるいはただ信号が赤になったせいで、その責任が果たせなかったとしたらどうだろう。場合によっては窃盗罪に問われるかもしれない。私は「意志して」その本を拾った人になってしまうのだ。「常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまう」(133頁)。

     意志をこのように時間的な視点からとらえる発想は、とても面白い。過去とのつながりを断ち切ってしまうのだから、意志とはいわば連続性に対する不敬行為ということになる。となると、意志の概念が生まれるより前に使われていたカテゴリー、すなわち中動態が語っていたのは、断ち切られていない時間の感覚、さまざまな出来事が起こり、作用しあい、積み重なって行く、その連続的な流れの中にいる感覚ということになろう。私が今何かの行為をしているとすれば、それは過去のさまざまな出来事のうちに、すでにきっかけや萌芽が埋め込まれていたのだ。同じように未来に対しても、自分の行為は別の出来事や別の行為、思いもよらない結末の可能性を秘めている。「中動態的な時間感覚」というものがあるとすれば、それはこのような過去から未来へと続く連続性の中にある感覚だ。

    ◆主語が、過程の内にあるか外にあるか

     著者の言葉を借りて整理してみよう。

     中動態が指し示していたのは、「主語が過程の内部にある」状態だと著者は言う(88頁)。中動態のみをとっていた動詞、たとえば「できあがる」「惚れ込む」「希望する」などはどれも、生成の過程、感情に突き動かされている過程、未来に期待している過程を表している。逆に能動態のみをとっていた動詞、たとえば「行く」や「食べる」は、「行ってしまう」や「平らげる」といったニュアンスを持ち、主語が完結した過程の外部にいる状態を表していた(88-89頁)。「中動態と能動態」という対で語られる時、問題になるのは「過程の内か外か」なのだ。このような「過程の内部」にある連続的な視点に立つ時、初めて「する」という単純な意志の枠組みでは割り切れない行為を表せるようになる。「流れでやることになったけど楽しい行為」や「気づけばやっていたけど狙ったわけじゃない行為」。そんな日常生活にありふれた行為のあり方について、中動態ならば生き生きと語ることができるのだ。


    3 日常は、中動態にあふれている

     さいごに著者の議論を離れて、この中動態的時間感覚にぐーっと身を沈めてみたい。すると私には、冒頭で述べたあのウブドの夜明けの大合唱が聞こえてくるのだ。いつからともなく始まった大音量の歌ならぬ歌に、あらゆる生き物がその声でもって「同調(YES)」あるいは「違和(NO)」の入力をし続ける時間。その相互作用によって、歌の「模様」が少しずつ変化していき、つんざくような鳥の甲高い一声さえ、ひとつの違和的応答として飲み込まれていく。もちろん私はあの時は大合唱の外に、つまり中動態ではなく能動態の側に立っていたわけだが、それでも蚊帳の底に横たわって動けないほど、あの分厚いポリフォニーに圧倒されていたことは確かだ。それは、私がふだん東京という大都会で生活していること、つまり仮設された「意志」の世界に生きていることと、おそらく無関係ではあるまい。

    ◆回転寿司のポリフォニー

     ふだんは「意志」の言語で生きているとしても、おそらく本質的には、人間の営みもまたあの大合唱のようなものだと思う。「人間の営み」と言うと何だか大げさなのだが、そんな歌は、耳をすませばいたるところに聞き取ることができそうだ。例えば、回転寿司店の店内。

     いきなり卑近な例で恐縮だが、回転寿司店の内部は、さまざまな行為や出来事が、飲食店としては異常なほどに可視化された空間だ。それゆえ、相互作用がきわめて「聞き取りやすい」のである。ポイントはあの同心円状の構造である。中心から順番に、料理人(板前)、コンベア上を回る寿司、客、店員、という多数のエージェントが、帯状に円を成している。全員が中心を向き合う格好になるため、他の客の食事のペースや料理人の忙しさ、やってくる寿司ネタの順番などを、誰もがお互いに察することができるのだ。通常の飲食店では客同士の目線がぶつからないように席の配置が工夫されていることを思えば、これはまさに異例の空間デザインである。


     料理人にネタを注文することは、能動/受動式の発想からすれば、まさに「意志」のカタマリのような行為だ。何しろここは回転寿司店で、黙ってコンベアの寿司を取って済ませることもできるのだから。

     しかしこの注文行為は、「意志」の様相に反して、実際にはさまざまな出来事の干渉の産物である。料理人に確実に聞き入れてもらうためには、体がこちらに向くのを待ったり、「まぐろ1枚!」の前に「すいません」を付けて注意を引き付ける必要がある。直前に別の客が同じネタを頼んでしまったら、続けて注文するのは何だか気まずい。そうこうしているうちに、コンベア上の惹句につられて「まぐろ」ではなく「ホタテ」が食べたくなることもあるだろう。料理人は料理人で寿司を握る手をリズミカルに動かしつつ客の注文を聞き、担当でないネタの注文にも復唱で応え、シャリの残り具合を勘案してホールのスタッフに指示を出したりする。まるですべてのエージェントが、協力するわけでもなく、ただ黙々と相互に干渉しあいながら、ひとつの「中動態ポリフォニー」を歌っているかのようだ。

     個人的に以前から気になっていたのは、「おあいそ!」のタイミングである。私がよく行く近所の回転寿司店は繁盛店で、週末に行くとたいてい待たされる。壁伝いの列に並びながら、客が去って行くタイミングをぼんやりと観察するはめになるのだが、そこには明らかに「波」のようなものがある。一組の客が「おあいそ!」と叫んで席を立つと、それにつられるかのように別の客も「おあいそ!」となり、あれよあれよと言うまに店内は歯の欠けたようになって行列が一気に解消される。パチンコで言うなら「確変」のような時間帯だ。逆に、待てど暮らせど「おあいそ!」がかからない我慢比べのような時間帯もある。

     「おあいそ!」とは、いわば回転寿司的な「中動態の歌」から降りるという離脱宣言である。そのような大きな「決断の一手」こそ、私たちは流れの中で歌うように下すのかもしれない。

    (『精神看護』2017年7月号掲載)
目 次
プロローグ-ある対話

第1章 能動と受動をめぐる諸問題

第2章 中動態という古名

第3章 中動態の意味論

第4章 言語と思考

第5章 意志と選択

第6章 言語の歴史

第7章 中動態、放下、出来事-ハイデッガー、ドゥルーズ

第8章 中動態と自由の哲学-スピノザ

第9章 ビリーたちの物語


あとがき