DSM-5を使いこなすための
臨床精神医学テキスト

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エビデンスに基づく簡潔、公正な信頼性の高い解説と、具体的な症例により診断基準の使い方が身に付く。ミュージカル「レ・ミゼラブル」上演中に客席から舞台に駆け上がり政権の不正を叫んだチャールズや、ボタンが怖くてシャツが着られない少年ジョンなど、興味深い症例のエピソードにも引き込まれる。DSM-5を学ぶための参考書として最適!
※「DSM-5」は American Psychiatric Publishing により米国で商標登録されています。
原著 Donald W. Black / Nancy C. Andreasen
監訳 澤 明
阿部 浩史
発行 2015年06月判型:B5頁:464
ISBN 978-4-260-02116-6
定価 6,600円 (本体6,000円+税)

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Preface to the Japanese edition日本語版への序監訳の序はじめに

Preface to the Japanese edition
 If you chose to become a doctor because you want to help and heal other human beings, then being a psychiatrist is a perfect choice.

 Psychiatry is the most interesting and most clinical specialty in medicine. Although we may lament the fact that we have fewer technologies than cardiologists or surgeons, we should rejoice in the fact that we have other advantages. We work with the most interesting and complex organ in the human body?the brain and its product the mind. We are the only specialty that works with the whole person. Each patient that we see is unique and interesting, because each person is a composite of his or her life experiences. We are the only specialty that emphasizes understanding individual human beings, within the context of a unique environment and a unique life history. Although we may group patients by diagnoses, no two people within those diagnostic categories are alike. Being a psychiatrist is never boring and is always challenging.

 Psychiatry is also the most privileged medical specialty…we are entrusted with the most personal and intimate information that people can share with a doctor.

 Dr. Black and I have written this book as an introduction to our specialty. Although we have kept it relatively brief and simple, we hope that it will open a door to the exploration of big and complex questions. How does the human mind produce such strange thoughts and behaviors? How do they arise in the brain? What can we do to heal these fascinating and mysterious disturbances of the mind and brain? We hope that studying this book will inspire you to think of more questions….and even try to answer them.

Nancy C. Andreasen MD PhD
Andrew H. Woods Chair of Psychiatry
University of Iowa Carver College of Medicine
2015



日本語版への序
 もし,あなたが医師となって,ほかの人を助け,そしてその人を癒したいのなら,精神科医になることは,完璧な選択である.

 精神科は医学において,最も興味深く,かつ,臨床的な専門分野である.私たちは,循環器科や外科と比べて使いこなせるテクノロジーが少ないことを嘆くこともあるが,ほかの優位な点があることを喜ぶべきである.私たちは,人体において最も興味深くかつ複雑な器官,すなわち脳とその産物である心,についてかかわっているのであり,また,人間というその総体に対して取り組んでいるのである.私たちが診るすべての患者は,それぞれの人生経験のうえにあるがゆえ,いずれの方も独特でかつ興味深い.固有の環境と生活史という文脈の中で,各個人というものを理解することが強調される唯一の診療科でもある.私たちは,診断によって患者をグループ分けするが,たとえ同じ診断カテゴリーにあっても,すべての方々は決して同じではない.精神科医の生活は,決して退屈ではなく,常に刺激の中で新しいものを見いだしていくことができる.

 精神科は,患者が医師と共有する最も個人的でかつ内奥にある情報を託されているという点において,医学の専門分野の中で特別の意味をもっていることは念頭に置くべきである.

 ブラック医師と私は,この本を精神科の入門書として記した.私たちは簡潔に記したが,この本を通して読者が,大きくかつ複雑な疑問に対する探求に向けて,扉を開いてくれることを望んでいる.どのようにして,人の心が異様な思考や行動を生じさせるのか? どのようにして,それが脳の中で引き起こされるのか? また,この魅惑的で神秘的な心と脳の不調を癒すために,私たちにできることは何があるのか? 私たちは,本書により刺激を受け,勇気づけられることで,日本の読者の皆さんがさらなる数多くの質問を見いだし,それに対する答えを求めていかれることを望んでいる.

ナンシー C. アンドリアセン,MD PhD
Andrew H. Woods Chair of Psychiatry
University of Iowa Carver College of Medicine

2015年


監訳の序
 2013年にDSM-IVからDSM-5に改訂がなされたが,これは,旧来のDSMのカテゴリカルな精神疾患のとらえ方と,近年注目されているディメンジョナルなとらえ方とがせめぎ合う中で行われた.少なくとも米国では,カテゴリカルな分類は,精神科臨床現場での迅速な対応を助け診断の信頼性を保つという点では,ある一定の評価は得てきているように思われる.一方でそれらの分類が,他の診療領域で重視される医学,生物学的な学問的根拠に基づいた「妥当性 validity」があるか,という点では多いに疑問をもたれてきた.そこで米国精神衛生研究所(The National Institute of Mental Health;NIMH)が進めるResearch Domain Criteria(RDoC)をはじめ,精神疾患をディメンジョナルな視点でとらえ直すことが可能か,という分類学的議論が,現在盛んである.その結果,DSM-5の本体をなす第II部には,ディメンジョナルなアプローチは全面的には採用されてはいないものの,第III部にそれらを含むことで,現在の議論を反映させた形になっている.具体例を挙げるなら,「パーソナリティ障害群の代替DSM-5モデル」としての,パーソナリティ障害のカテゴリカルなモデルとディメンジョナルなモデルのハイブリットモデルの記載,重症度を定量的に含んだ多数のディメンジョンで精神病症状を評価しようとする尺度の導入などがある.こうした改訂姿勢が精神科診療にとってよいかどうかは今後の評価を待つことになるが,そうした新しいDSM-5を上手く使いこなすためには,その背景にある生物学的,心理学的,社会学的背景ならびに精神医学の歴史についてバランスよく熟知する必要があるだろう.しかしながら,この観点に立ったときに,初学者にとって使いやすく,かつ,内容を掘り下げた教科書は必ずしも多くない.
 本書の原著を記したひとりであるナンシー・アンドリアセンは,精神医学分野を生物学的観点からのみならず,さまざまな観点から研究し,この分野を牽引してきた精神医学者であり,また,DSM-IIIとDSM-IVの作成チーム(Task Force)に参加するなどDSMと深くかかわってきた.最近私は,精神医学にかかわる学術委員会などでナンシーと責任をともにする機会が多く,そうしたよき交流を通して彼女のもつ精神医学に対する深い洞察に敬意を深めていた.また,彼女がフラッグシップとして君臨するアイオワ大学医学部精神神経科は,優れた臨床教育プログラムや研究を行っており,私の所属するジョンズホプキンス大学医学部精神神経科とのかかわりも深い.このように米国でもトップレベルの非常に経験豊富な著者陣によって著されたこの優れた本は,精神科臨床医がDSM-5を使いこなすためのよい教科書となると信ずる.
 この本との最初の出会いは,私の若き友人のおひとりである阿部浩史君を通してであった.彼は精神医学の初期臨床研修ののち,精神科領域における研究の必要性を感じて米国に留学,その後その経験を日本の臨床の第一線で生かそうと努力している熱血漢である.ある日,10年ぶりぐらいであったろうか,彼から数年間心血を注いでこの本の日本語訳を作ってきたことを聞いた.医学書院編集部とのチームワークを通して彼が作り上げていた訳文は,日本でこの道を目指す方々にとって十分によいものに見え,この翻訳を出版することを応援することに躊躇はなかった.したがって監訳者としての私の仕事は,ナンシーらの原著にあるいくつかの疑問点を見いだし,それをどのように訳本のなかで整合性のとれたものにするかだけだったかもしれない.とはいえ,本書は第1版であり,生硬な訳文が多いと思う.原著も長年の改訂の中で,何度も改善してきた歴史があるようだ.本書も改訂の中で,改良を重ねていきたいと考えており,読者からのフィードバックを重ね重ねお願いしたいところである.
 最後に,医学書院の編集部の方々,特に本件をリードくださった中嘉子さんには特に,御礼を申し上げたい.阿部君の情熱とチームワークが生んだこの訳本が,真剣な思いで精神医学に取り組む若手の方々に少しでも役立つことを願っている.私事で誠に恐縮ながら,私は今年で医学部卒業後25年を迎えてしまった.この間に私は何をしたか? 少年老いやすく学成り難し,の言葉があまりに痛く心に感じられるこのごろである.ほとんどの時間を管理業に追われながらも,最近私は初学者のための教科書をもう一度読み直すことを日課としている.この訳本が若手のみならず,広く皆様にも少しでもお役にたてるならば,監訳者としてはそれ以上の喜びはない.

 2015年5月
 澤 明



 初学者が精神医学を学び始めるとき,精神医学とは何であるかについて,巷にあふれるポップカルチャーからの先入観に影響されていることがある.タクシー運転手,会社社長,教師,牧師など,精神医学と心理学の根本的な相違すらよく理解していないかもしれないのに「精神医学的問題」をどのように扱うか情報を提供し助言する資格があると,しばしば思われている人々もいる.精神医学と心理学という2つの学問の違いは,一般人にとって曖昧模糊としており,「精神医学」という専門用語は大衆にとって,フロイトの寝椅子,または映画『カッコーの巣の上で』の中で電気けいれん療法を受ける俳優のジャック・ニコルソン,あるいはテレビショーの中で性生活の問題へ助言するドクター・ドリューの香りを彷彿とさせることとなる.それらのイメージや連想は,精神医学に,「曖昧」,「不正確」,「錯乱した頭」,「容赦ない強制」などの雰囲気を与える.このような偏見があまりにも広く行き渡っていることは不幸だが,不幸中の幸いとして,そのほとんどは誤りであり,本書から学びつつ精神科の実地学習を経れば,直ちに誤解であることがわかるであろう.
 一体,精神医学とは何だろうか? そう,精神疾患の診断・治療に特化した医学の一部門のことである.統合失調症,アルツハイマー病,さまざまな気分障害など,深刻な病状を取り扱う.それらよりは軽症であるが今なお重要な,不安症やパーソナリティ障害なども対象としている.精神医学は医療である点から心理学とは区別される.すなわち精神医学は心理学が最も重視する正常心理を差し置いて,何よりも疾病・障害や精神異常にその学問的関心を集中させている.当然のことながら,異常心理学が心理学の一部であるのと同様に,精神医学における正常心理の理解は,精神の働きの異常を理解し治療するために必須である.医学の一分野としての精神医学の主要な目的は,疾病を理解して定義すること,治療法を発見すること,さらに究極的には,原因を究明し発症を未然に防ぐ手段を開発することにある.
 精神医学が医学の中で最高に魅力的であるとする理由がいくつかある.第一に,精神医学は身体の臓器のうち最も魅力的な「脳」を扱うことを専門としていること.人々が相互に影響し合い連携するのに似て,脳は全身のほとんどすべての臓器の機能に影響を及ぼしているため,そもそもが魅力的である.ニューロサイエンスの手法により脳の解剖学・生化学・生理学的側面が研究者により解明されているが,精神医学も同様にニューロサイエンスの発展により急速に進歩している.ヒトの感情や行動の正しい理解は,ついには精神疾患のより効果的な治療に結実するであろう.
 精神医学がかつてより精密な科学になったとはいえ,医学の分野における精神医学は,とりわけ臨床的かつ人間的な部門であり続けている.患者と直接かかわることを望んで医学の道を選んだ者に対して,精神医学はその希望を叶え,特に見返りの多い部門となることだろう.精神科医となった者は,患者と時間を共有する中で,患者から人間の本質のみならず、疾病や個別の問題を抱え込んだ個人としての人間の在り方をも学ぶであろう.ある人の生活歴の詳細を知ることは,大きな喜びであり興味深い.ある同僚は,こう言った.「人が常々どうにかして知りたがっている他人の生活の秘密を,自分はなんと料金をもらって拝聴しているのだと気がついたときは,なんともまあ,痛快だったよ!」
 最後に,精神医学は途方もなく広い学問である.科学の一部門としては,分子生物学の詳細な知見から,「こころ」についての非常に抽象的な概念まで及び,臨床医学の一部門としては,統合失調症などの精神疾患を特徴づける興味深く複雑に入り組んだ混沌状態から,幼い子どもが両親と離れ、学校に登校したり、ベビーシッターとともに残されたりしたときに示す理解可能な恐怖にまで対象が及んでいる.精神医学は分子遺伝学や神経画像診断(ニューロイメージング)など高度に科学的・先端技術的であることは間違いない.また同時に,精神医学は患者の話に耳を傾け,患者が洞察を得る手助けをし,患者をただ単に励ますときにすら,医師としての喜びが得られる全く人間的かつ個人的な側面も合わせもっているのである.
 本書は,患者とあなたの指導をする教授の言うことを深く理解するために役立つ指南書であることを意図している.したがって,なるべく簡潔に,明晰に,事実に基づいて記述することを目指した.各章の多彩な話題について詳しく知りたい読者のために参考文献も示した.本書は,医学生やレジデント向きの体裁であるが,看護師やソーシャルワーカーなど異なる分野のコメディカルが精神医学を知るためにも使いやすいよう書かれている.本書が活用され,ありとあらゆる年齢とタイプの学生が,著者らと同様に,精神科の患者にかかわる喜びと,最先端の精神医学の技術と知識を活用して働くことの喜びとを学んでくれることを望みたい.
 本書の改訂は,精神医学のマニュアルであるDSM-5®の出版を契機としている.著者は,本書が精神科診断の最新情報に基づいていることが非常に重要であると考えている.人生の発達段階に従い序列するように改訂されたDSM-5に沿って,本書第6版も,構成し直した.それには,いくつかのクラスやカテゴリーの移動,新規診断の追加,診断の統合,多軸診断の廃止などが含まれている.著者は,読者がこのとてもポジティブな変化に賛同されると信じている.
 長年,助言してくれた多くの読者に感謝を捧げたい.この本を形作るにあたって,この教科書を活用した医学生・精神科研修医・他の分野の研修生からの反響が大変重要な役割を果たした.また,支援と示唆を与えてくれた以下に列挙した同僚たちにも感謝したい.Jennifer McMilliam, Linda Madson, Jon E. Grant, Jodi Tate, Jess Fiedorowicz, Robert Philibert, Laurie McCormick, Anthony Miller, Wayne Bowers, Mark Granner, Vicki Kijewski, Susan Schultz, Del Miller, Tracy Gunter, Russell Noyes, そしてScott Temple.
 著者二人は,American Psychiatric Publishingの編集長であるRobert E. Hales, Rebecca Rinehart, John McDuffieらのほか,本書の理念を共有し出版に携わってくれた有能なスタッフたちにここで改めて感謝を表明する.


はじめに
You are not here merely to make a living.…You are here to enrich the world,
and you impoverish yourself if you forget the errand.
Woodrow Wilson

生計を立てるためだけに生まれてきたわけではない… われわれは,世界を豊かにするために生まれてきたのだ.この使命を忘れてしまえば人生は虚しいばかりとなる.
—「大学の理想像」
 スワースモア大学での演説からの抜粋(1913年10月13日)
 ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ大統領)―

 読者の多くにとって,本書が精神医学に初めて触れる機会となろう.精神医学が,外科と並んで最古の医学の一部門であることを知らない人もいるかもしれない.18世紀,数名の医師が精神を病む人の治療に専念することに決めたとき,精神医学は内科系医学の特別な一分野として独立したのである.アメリカ独立運動や合衆国憲法の制定に携わった偉大なアメリカ建国の父の一人,ウィルソン大統領なども影響を受けた啓蒙時代の思想を背景に,このとき,医師らは人間的かつ人道的な原則に基づいて,その活動を開始した.
 一般的には,フランス革命の活動家でもあるフィリップ・ピネルPhilippe Pinelが「近代精神医学の父」と考えられている.1793年,ピネルは,パリに所在する,「正気を失った男性」を収容するビセートル救済院(病院)の院長に任命された.就任してまもなくピネルは病院の壁に鎖でつながれていた病者を解放するという,重大かつ象徴的な施策の変更を行ったほか,「モラル・トリートメント(モラル療法)」(仏;treatment morale, 英;moral treatment)と呼ばれる新しい治療を作り上げた(「モラル療法」とは,道徳的にも倫理的にも注意深く患者を取り扱うという意味である.)後に,ピネルは女性版ビセートル救済院ともいうべきサルペトリエール病院の院長にも就任した.精神を病む者に対して親身になり人間として正当に扱った彼は,同時に科学的な研究姿勢を精神病研究にもち込んだ.ピネルの著書『Treatise on Insanity(精神病に関する医学=哲学論)』(1806)の中で,その努力について記述している.

 それゆえ,我が輩は自然史を扱うすべての部門が例外なく成功している方法を採用することとしたのである.すなわち,将来のために必要な素材を一つ残らず採集して,そこに含まれる事実を寸分なく記録し,できる限り,自分を勘定に入れず,自分の偏見も,時代の権威たちの意見にも影響されず探求するという方法を採用したのである(2頁).

 このようにして,精神を病んだ人の手当に特化した医師団よりなる,特別な一分野が誕生したのである.この医師たちは,「psychiatrists(精神科医)」と呼ばれた。“psychiatrists”とは,文字どおり「精神を治療する医師」という意味である.

 これは,何を意味しているのか? 精神科医は実際には何をするのであろうか? 精神医学を学ぶことをなぜ選び,さらにそれを専攻するのはなぜか? 人が精神医学を学び,精神科医になるのは,何が人に不可解な振る舞いをさせるかに興味があるからである.「こころ」や「魂」を理解すると同様に,脳について理解を深めたくて精神科医になるものもいるだろう.われわれは,人間に興味があるために,臨床経験が重要な精神医学を選び,そして,個人として病者に寄り添って汗水を垂らすのである.われわれ精神科医は,社会生活の文脈から患者を理解することや,熟練をもって患者の過去から現在に至る「患者の生きている物語」の概略を引き出し,この引き出した情報を,どのように症状が形作られているかを理解することや,よりよい治療を行うことに利用することを好む.かけがえのない個々の患者との対面が,新しい冒険であり,発見の旅であり,そして,新しい人生の物語なのである.患者たちの物語の間には,類似も見受けられるが,それでもなお,個々の患者は,唯一無二である.時には重篤な症状に苦しむ患者に向き合い,より強力な救いの手をさしのべたいときさえあるという事実はさておき,前述したことが精神医学の実践を,やりがいある,知的に満ち足りた,複雑かつ喜びに満ちた学問にしているのである.精神科医には,人生の最も内に秘められたプライバシーと個人的な側面を探索しつつ,患者の人生の充実を手助けすることができる職務上の特権が与えられているのである.
 数ある臓器の中で最も複雑で,最も魅力的な臓器である人間の脳に興味があるために,精神医学を学び,精神科医になった人も多い.豊かな感情も,複雑な思考も,信念も,さまざまな行動も,すべてこの頭蓋骨の奥深くに大切に保護されている皺が寄ったデコボコな組織の塊の活動から生み出されるのである.現代の神経科学は,分子から全体にまで及ぶさまざまな研究手段により,人類の脳の神秘の一端を解き明かし始めている.脳の中に蓄えられた記憶が,まさに,その人をその人たらしめる本質である.分子や細胞のレベルにおいて,記憶がどのように刻印され保持されているのか,すでに多くのことが解明されている.脳の発生や老化,ヒトにおける思考形成の複雑な神秘が,解明されようとしている.ほかの多くの科学的知識に加えて,脳のこのような過程が解明されると,精神疾患の発症メカニズムの理解,新しい治療や,さらには予防法の開発の機会すら提供するであろう.今,まさに脳の探求が,沸き立つ時代なのである.
 精神疾患は,人類が苦しんできた臨床上最も重要な病気だからこそ,精神医学を学び,精神科医になるのだということを述べ,本章を締めくくりたいと思う.1996年に,ハーバード大学の二人の研究者と世界保健機関(WHO)が共同で行った調査の結果,「世界の疾病負担研究」と銘打ったとても重要な著作が出版された.この著作は,世界中でさまざまな病気が社会に強いる経済的負担についてのデータを,初めて客観的に提供したことから,医学界の指導者層の注目を集めることとなった.なかでも注目すべきは,精神疾患によって発生する損失である.たとえば,単極性うつ病は,世界でも最も大きい損失を生み出す疾患であることが明らかにされた.さらに,15~44歳を対象とすれば,「損失リスト」の上位10位のうち,4つは精神疾患である.その4疾患とは,うつ病,アルコール使用障害,双極性障害,統合失調症である.自殺・自傷行為も精神疾患の帰結として発生していると考え合わせれば,世界中の傷病の上位10位のうち,5つまでもが精神疾患に帰することとなる.この事実が人類に問いかけることは,至極単純である.すなわち,医師は,もはや精神疾患を軽視し続けることはできないのである.すべての医師が精神疾患を診断・同定し,治療・専門医に紹介できる能力を獲得しなければならない.精神科医になって,より深層の理解を探求する人材も必要となる.
 精神疾患の研究に専念する医学の一部門である「精神医学」という学問は,すなわち,興味深く重大な様相を伴って個々人を苦しめる病気として立ち現れてくる脳機能異常を研究することに身を挺することにした専門分野であると言える.統合失調症などでは,その臨床的な異常は,一見して明瞭かつ重篤であるが,適応障害のように,区別が困難で軽く見えるものもある.現代精神医学の究極の目標は,精神活動から分子レベルの全領域に及ぶ正常脳機能を理解することと,その正常脳機能がいかにして撹乱され(遺伝子に由来する内因から,環境に影響される外因まで)精神疾患の症状出現の原因となるか決定することにあるのである.

 DSM-5®の診断基準について:本書で使用するDSM-5の診断基準は,診断コードとコードに関する但し書きが省かれている.読者は,省略のないDSM-5を参照して欲しい.

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Preface to the Japanese edition
日本語版への序
監訳の序
著者について
利益相反(COI)の開示

はじめに

第1部 背景 BACKGROUND
 第1章 診断と分類 Diagnosis and Classification
   患者を診断するのはなぜか?
   臨床以外の診断の目的
   DSMの歴史
   DSM診断の利点と欠点
   DSM-5の使用を学ぶこと
   診断の記載手順
 第2章 面接と評価 Interviewing and Assessment
   精神科面接
   面接の技法
   よくある症状の定義と,その聴取の実際
 第3章 精神疾患の神経生物学と遺伝学
  The Neurobiology and Genetics of Mental Illness
   解剖学的・機能的脳神経系
   神経化学系
   精神疾患の遺伝学

第2部 精神疾患 PSYCHIATRIC DISORDERS
 第4章 神経発達症群/神経発達障害群(児童精神医学)
  Neurodevelopmental (Child) Disorders
   子どもの臨床評価の特殊な一面
   知的能力障害(知的発達症/知的発達障害)
    intellectual disability (intellectual developmental disorder)
   コミュニケーション症群/コミュニケーション障害群 communication disorders
   自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害 autism spectrum disorder
   注意欠如・多動症/注意欠如・多動性障害
    attention-deficit/hyperactivity disorder(ADHD)
   限局性学習症/限局性学習障害 specific learning disorder
   運動症群/運動障害群 motor disorders
 第5章 統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群
  Schizophrenia Spectrum and Other Psychotic Disorders
   妄想性障害 delusional disorder
   短期精神病性障害 brief psychotic disorder
   統合失調症様障害 schizophreniform disorder
   統合失調症 schizophrenia
   統合失調感情障害 schizoaffective disorder
 第6章 気分障害 Mood Disorders
   双極性障害 bipolar disorders
   抑うつ障害群 depressive disorders
   気分障害特定用語 mood disorder specifiers
   気分障害群の鑑別診断
   気分障害群の疫学
   気分障害の原因・病態生理
   気分障害の治療
 第7章 不安症群/不安障害群 Anxiety Disorders
   分離不安症/分離不安障害 separation anxiety disorder
   選択性緘黙 selective mutism
   限局性恐怖症と社交不安症/社交不安障害(社交恐怖)
    specific phobia and social anxiety disorder (social phobia)
   パニック症/パニック障害 panic disorder
   広場恐怖症 agoraphobia
   全般不安症/全般性不安障害 generalized anxiety disorder
   他の不安障害群
 第8章 強迫症および関連症群/強迫性障害および関連障害群
  Obsessive-Compulsive and Related Disorders
   強迫症/強迫性障害 obsessive-compulsive disorder
   醜形恐怖症/身体醜形障害 body dysmorphic disorder
   ためこみ症 hoarding disorder
   抜毛症 trichotillomania (hair-pulling disorder)
   皮膚むしり症 excoriation (skin-picking) disorder
 第9章 心的外傷およびストレス因関連障害群
  Trauma-and-Stressor-Related Disorders
   反応性アタッチメント障害/反応性愛着障害と脱抑制型対人交流障害
    reactive attachment disorder and disinhibited social engagement disorder
   心的外傷後ストレス障害 posttraumatic stress disorder
   急性ストレス障害 acute stress disorder
   適応障害 adjustment disorders
 第10章 身体症状症群および解離症群
  Somatic Symptom Disorders and Dissociative Disorders
   身体症状症 somatic symptom disorder
   病気不安症 illness anxiety disorder
   変換症/転換性障害(機能性神経症状症)
    conversion disorder(functional neurological symptom disorder)
   身体症状症,病気不安症,変換症の治療
   他の医学的疾患に影響する心理的要因
    psychological factors affecting other medical conditions
   作為症/虚偽性障害 factitious disorder
   詐病 malingering
   解離症群/解離性障害群 dissociative disorders
 第11章 食行動障害および摂食障害群 Feeding and Eating Disorders
   食行動障害群 feeding disorders
   摂食障害群 eating disorders
 第12章 睡眠-覚醒障害群 Sleep-Wake Disorders
   正常な睡眠と睡眠の構造
   睡眠の評価
   不眠障害 insomnia disorder
   過眠障害 hypersomnolence disorder
   ナルコレプシー narcolepsy
   呼吸関連睡眠障害群 breathing-related sleep disorders
   概日リズム睡眠-覚醒障害群 circadian rhythm sleep-wake disorders
   睡眠時随伴症群 parasomnias
   レストレスレッグス症候群(むずむず脚症候群) restless legs syndrome
   物質・医薬品誘発性睡眠障害 substance/medication-induced sleep disorder
 第13章 性機能不全群・性別違和・パラフィリア障害群
  Sexual Dysfunction, Gender Dysphoria, and Paraphilias
   性機能不全群 sexual dysfunctions
   性別違和 gender dysphoria
   パラフィリア障害群 paraphilic disorders
 第14章 秩序破壊的・衝動制御・素行症群
  Disruptive, Impulse-Control, and Conduct Disorders
   反抗挑発症/反抗挑戦性障害 oppositional defiant disorder
   間欠爆発症/間欠性爆発性障害 intermittent explosive disorder
   素行症/素行障害 conduct disorder
   放火症 pyromania
   窃盗症 kleptomania
   他の秩序破壊的・衝動制御・素行症群
 第15章 物質関連障害および嗜癖性障害群
  Substance-Related and Addictive Disorders
   物質関連障害群の診断
   物質関連障害群の評価
   物質使用障害群の病因
   アルコール関連障害群 alcohol-related disorders
   他の物質関連障害群
   物質関連障害群の治療
   非物質関連障害群 non-substance-related disorders
 第16章 神経認知障害群 Neurocognitive Disorders
   せん妄 delirium
   認知症(DSM-5)および軽度認知障害(DSM-5)
    major and mild neurocognitive disorders
 第17章 パーソナリティ障害群 Personality Disorders
   疫学
   病因
   診断
   治療
   DSM-5 パーソナリティ障害群

第3部 臨床トピックス SPECIAL TOPICS
 第18章 精神科救急 Psychiatric Emergencies
   暴力と攻撃
   自殺と自殺行為
 第19章 司法精神医学 Legal Issues
   民事関連
   刑事関係
 第20章 行動療法・認知療法・力動的精神療法
  Behavioral, Cognitive, and Psychodynamic Treatments
   行動療法 behavior therapy
   認知行動療法 cognitive behavioral therapy(CBT)
   個人精神療法 individual psychotherapy
   集団精神療法 group therapy
   カップルセラピー(夫婦療法) couples therapy
   家族療法 family therapy
   対人技能訓練 social skills training(SST)
 第21章 精神薬理学と電気けいれん療法
  Psychopharmacology and Electroconvulsive Therapy
   抗精神病薬 antipsychotics
   抗うつ薬 antidepressants
   気分安定薬 mood stabilizers
   抗不安薬 anxiolytics
   錐体外路症状の治療薬
   電気けいれん療法 electroconvulsive therapy(ECT)

用語集
引用文献一覧
訳者あとがき
索引

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DSM-5が身につく格好の教科書
書評者: 神庭 重信 (九大大学院教授・精神病態医学)
 『DSM-5を使いこなすための臨床精神医学テキスト』(原題:Introductory Textbook of Psychiatry, 6th edition)には,二つの大きな特徴がある。

 その一つは,米国の教科書らしく,『DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル』(以下DSM-5)にのっとった疾患分類に沿って章立てされ,それぞれの疾患の解説が診断基準とともに紹介されていることである。読みこなすのが容易ではないDSM-5自体に比べ,本書は疾患の説明が簡潔にして要を得ているので,精神医学の初学者にとって,DSM-5の主要な点をざっくりと理解できる格好の教科書となっている。このことが,訳者らが本書の和文タイトルを,『DSM-5を使いこなすための臨床精神医学テキスト』としたゆえんであろう。この教科書は初版が1990年に発刊され,以来改訂を繰り返し,今日に至るロングセラーとなっている。

 第二の特徴は,この教科書がわが国でも評価の高いアイオワ大学のNancy C. Andreasenと同僚の医学教育者Donald W. Blackの二人の手で書かれていることである。読者はきっとAndreasenがどのような教科書を書いているのかに興味を引かれずにはいられないだろう。

 わが国にも精神医学の教科書は数多い。私も教科書を編集している一人なので,その構成には共通した特徴がみられることを知っている。まず総論に多くの紙面が割かれ,精神医学史,症候学,診断学,精神の発達,神経科学的基盤の解説,検査,治療方法が説明される。続いて各論に入ると,主要な疾患により多くの説明が加えられ,あまり遭遇しない疾患はおざなりに済ませてしまいがちである。これに対して本書では,総論は簡潔で,「診断と分類」「面接と評価」「精神疾患の神経生物学と遺伝学」の3章のみである。各論ではDSM-5の疾患順に章が並び,それぞれの章に比較的均等に紙面が割かれ,鑑別診断や治療が日本の教科書に比べてかなり実践的な内容に仕立てられている。これは米国では,医学生がベッドサイドでかなり踏み込んだ臨床実習を体験するためかもしれない。また,統合失調症やうつ病(DSM-5)・双極性障害はもとより,神経発達障害,PTSD,性別違和,パラフィリアなどの記述が充実しており,米国精神医学にその進歩の多くを負う疾患について知識を整理するのに都合が良い。一方で,米国の精神科医がかかわらないてんかんや脳波の説明は扱われていない。

 本書の監訳者は,意外なことに,神経科学の世界で著明な業績を挙げているジョンズ・ホプキンス大学の澤 明教授である。話は横に逸れるが,この意外性について少し触れてみたい。米国の教科書として私の印象に残っているのが,駆け出しの頃に読んだSnyder SHの『最新精神医学入門』(原題:Biological Aspects of Mental Disorder, 1980,翻訳:松下正明,諸治隆嗣,1981,星和書店)である。Snyderは,DSM-III以前の精神医学すなわち精神分析学のトレーニングを受けた精神科医であり,当時は精神薬理学の気鋭の学者でもあった。彼は,この教科書において心理学的見方と生物学的立場との統合を試みたことを,その序文に書き残している。なぜこの話をするのかというと,澤先生は,『最新精神医学入門』の訳者の一人である松下先生に精神医学を学び,その後にSnyderの直弟子として神経科学の道を進まれた方だからである。そして彼の関心も二人の師と同じく,脳科学と心理学との統合にあるとお聞きしたことがある。だから澤先生がAndreasenの教科書に強い関心を持ったのも納得できる。それは彼女が,生物学的精神医学の巨塔の一人でありながら,米国でDSMの浅薄な用いられ方が蔓延し,精神科医の患者理解の劣化をもたらしたことを嘆いたことでも知られるからである。

 本書は比較的楽に読みこなせるテキストである。全章を読み終えたときには,自然とDSM-5が定義する精神疾患の診断と治療の進め方が身につくはずである。これで,いわゆるDSM-5をチェックリストとして用いてしまうわなに陥ることはなくなるであろう。DSM-5は,19年の時間を経て改訂され,診断の分類や診断基準の変更は,この間の研究で明らかにされた事実が激しく議論された上で加えられたものである。さらに欲を言えば,読者には,本書を振り出しとして,DSM-IVからDSM-5への改訂の背景にある精神医学を探索し,DSM-5の評価できることと未だに不十分なことを吟味できるようになっていただきたい。
DSM-5を使う人のパートナーになる1冊
書評者: 村井 俊哉 (京大教授・精神医学)
 米国精神医学会が出版する『精神疾患の診断・統計マニュアル』(通称DSM)の改訂第5版(DSM-5)が,2013年に出版された。そして,その日本語訳は日本精神神経学会の用語監修のもと,2014年に出版された。WHOによる疾病分類であるICDの改訂も,DSM-5と歩調を合わせていくことが予想されているから,これからの日本の,そして世界各国の精神科の臨床・研究・教育は,DSM-5に準拠したかたちで行われていくと考えて間違いないだろう。

 日本の精神科医は,それぞれの現場で,DSM-5の使用を開始しているだろうけれども,DSM-5の書籍それ自体は,単独では使いこなすのが難しい。今回紹介する『DSM-5を使いこなすための臨床精神医学テキスト』は,原題が“Introductory Textbook of Psychiatry 6th edition”となっているように,精神医学の初学者を対象とした教科書である。ただ,DSMの改訂を契機として,DSM-5に完全に準拠するかたちで,第6版は全面的に改訂された。結果として,精神科医としてのキャリアは十分であるがDSM-5は使い始めたばかりのほとんどの精神科医(例えば私)にとっても,重宝する内容となっている。

 本書は3部構成になっているが,第1部(第1~3章)は,単独でも読み応え十分である。DSM-5の無味乾燥な診断基準の羅列をみて,精神医学に対して幻滅しかかっている初学者がいたとしたら,是非第1章を一読され,診断基準の使用法と共に,こうした診断基準作成の背後にある思想に触れられることをお勧めしたい。一方で,DSMが日本に導入される前に精神医学教育を受けたベテランの精神科医には,第2章が興味深いかもしれない。精神科面接の心得の基本的なところは,DSM時代の米国であっても,昔の日本とさほど変わらないことに気付かれるだろう。

 第2部(第4~17章)の疾患別解説は,DSM-5への準拠が徹底された,本書の目玉である。エビデンスに基づく体系的な解説と,具体的な症例記載のバランスがよい。馴染みの疾患についてはDSM-5での診断基準の変更点に着目しながら知識を再度整理できるし,経験の少ない疾患についても疾患概念の概略を掴んでおく上で本書の利用価値は高い。

 治療論を中心とした第3部(第18~21章)は,初学者にとってはもちろん必須の学習事項だろうけれども,ベテランの精神科医にとっても利用価値は高い。例えば司法精神医学を扱った第19章など,日米の社会状況やシステムの違いを比較しながら読んでみるのもよいかもしれない。

 翻訳は,こなれていて非常に読みやすい。こうした書物は出版のスピード感も重要である。短期間で,クオリティの高い翻訳を日本の読者に届けていただいた監訳者・訳者のお二人の先生方に感謝したい。

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