看護技術
ナラティヴが教えてくれたこと
看護技術の定義は、ベッドサイドで更新される
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臨床で提供される看護技術は、その時々で意味を変える。排泄介助の対価を払おうとする患者、食事を一気に口に運ぶことを求める患者、初めての急変に戸惑う看護師。患者と看護師、それぞれに背景があり、看護技術がもたらすものも変化する。
看護技術のテキストでは学べない、「ベッドサイドの看護技術」の面白さに触れる1冊。
著 | 吉田 みつ子 |
---|---|
発行 | 2014年12月判型:B6頁:176 |
ISBN | 978-4-260-02077-0 |
定価 | 1,760円 (本体1,600円+税) |
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- 序文
- 目次
- 書評
序文
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はじめに
ナラティヴ【narrative】 物語、語りを意味する。語られた言葉、内容、語り口などを指し、そこには語り手と聞き手の関係性も含まれる。医療の中では、客観的な疾患ではなく、体験としての病いに着目することによって、画一的ではない患者の理解や、固有、個別のケアへとつなげていくためのアプローチ(ナラティヴ・アプローチ)として認識されている。患者のみならず、医療者にも物語がある。
看護技術の授業中、眠そうにしている学生の表情が変わる瞬間があります。それは、教員が臨床で体験した事柄を話した時です。どの学生も興味津々の表情です。
私は新人看護師の頃、いろいろな失敗を重ねたせいか、いまだに鮮やかに何人もの患者さんの顔が思い浮かびます。いくつもの場面や出来事が、記憶の中に留まっているのです。
記憶の中から、今日は学生にどのような話をしようかと考えます。不思議なことに、記憶の中の出来事は思い返すごとに意味合いが変わり、忘れていた場面が蘇り、「あの時わからなかったけれど、そういう意味だったのか…」と解釈が変わることもあります。客観的な事実は一つかもしれませんが、時間を経ると過去の出来事の意味や解釈が変わります。
人の経験の意味は、後から起きる出来事によって、更新されていきます。また私たちは、個々の出来事について、バラバラに記憶しているのではなく、「いつ、どこで、何が起こり、どうなったのか」というような時間の流れ、その時の感情や出来事の意味や解釈も一緒に記憶しています。嬉しかったこと、痛い思いをした出来事は鮮明に記憶しているものです。
このような記憶の中にある出来事は、「物語」や「ナラティヴ」がもつ特徴と似ています。医療の中で「物語」「ナラティヴ」は、患者が語った体験や、言葉によって表現された世界のことをいい、それらを通し、患者の病いや治療の意味に着目することによって、より個別性の高い医療を提供するためのアプローチとして取り入れられています。
例えば、病状説明という場面で、田中さんにとっての意味、斉藤さんにとっての意味は異なるため、同じような対応はできないわけです。一人ひとり、出来事の意味が異なるということは、当然、医療者にとってもそれぞれの出来事の意味・解釈があります。
本書では、患者の物語、患者を取り巻く人々の物語、そして看護師である筆者自身の物語を、看護技術という切り口から取り上げます。看護の技術は、それ自体が単なる技術として提供されるわけではなく、患者と看護師の関係性、様々な文脈の中で、意味をもって存在します。同じ看護技術であっても、もたらされる結果も一元的ではありませんし、患者、看護師それぞれの意味の層が重なり合う多義的な出来事となります。
これまでの看護技術のテキストは、エビデンスやノウハウを中心に記されてきました。それらは欠くことのできない側面ですが、看護技術が展開される臨床の文脈から切り離すと、看護の楽しさや面白さが十分には伝わりません。
もしあなたが看護師であるならば、本書の物語に触れることによって、きっとあなた自身の記憶の中にある出来事が、思い起こされるでしょう。ぜひ、あなたの物語を仲間たちに語っていただけたら嬉しいです。
もしあなたが本書の物語を読んで看護師をめざしたいと思ったら、それは今まさにあらゆる現場で患者さんたちに向き合う看護師たちの姿が皆さんに届いたのではないかと思うのです。
もしあなたが患者、家族という立場にある方ならば、看護師たちにもっとあなたの物語を伝えていただきたいのです。
そうして「ナラティヴ」は、より広がりをもつ言葉となっていくのです。
ナラティヴ【narrative】 物語、語りを意味する。看護師の臨床経験の語りは、看護の意味や解釈を広げる。個々の看護師の語りの連鎖は、語り手と聞き手との間で新たな語りを生み出し、看護実践の知が広がっていくことになる。
本書は着想から執筆、出版に至るまでの十月十日〈とつきとおか〉、編集者である品田暁子さんという「助産師」の存在なくしてはなしえませんでした。そして、山田かな子さんは、読み手の心をほっとさせてくれる多くのイラストを描いてくださいました。
この場をかりて、感謝申し上げます。
二〇一四年十一月 吉田みつ子
ナラティヴ【narrative】 物語、語りを意味する。語られた言葉、内容、語り口などを指し、そこには語り手と聞き手の関係性も含まれる。医療の中では、客観的な疾患ではなく、体験としての病いに着目することによって、画一的ではない患者の理解や、固有、個別のケアへとつなげていくためのアプローチ(ナラティヴ・アプローチ)として認識されている。患者のみならず、医療者にも物語がある。
看護技術の授業中、眠そうにしている学生の表情が変わる瞬間があります。それは、教員が臨床で体験した事柄を話した時です。どの学生も興味津々の表情です。
私は新人看護師の頃、いろいろな失敗を重ねたせいか、いまだに鮮やかに何人もの患者さんの顔が思い浮かびます。いくつもの場面や出来事が、記憶の中に留まっているのです。
記憶の中から、今日は学生にどのような話をしようかと考えます。不思議なことに、記憶の中の出来事は思い返すごとに意味合いが変わり、忘れていた場面が蘇り、「あの時わからなかったけれど、そういう意味だったのか…」と解釈が変わることもあります。客観的な事実は一つかもしれませんが、時間を経ると過去の出来事の意味や解釈が変わります。
人の経験の意味は、後から起きる出来事によって、更新されていきます。また私たちは、個々の出来事について、バラバラに記憶しているのではなく、「いつ、どこで、何が起こり、どうなったのか」というような時間の流れ、その時の感情や出来事の意味や解釈も一緒に記憶しています。嬉しかったこと、痛い思いをした出来事は鮮明に記憶しているものです。
このような記憶の中にある出来事は、「物語」や「ナラティヴ」がもつ特徴と似ています。医療の中で「物語」「ナラティヴ」は、患者が語った体験や、言葉によって表現された世界のことをいい、それらを通し、患者の病いや治療の意味に着目することによって、より個別性の高い医療を提供するためのアプローチとして取り入れられています。
例えば、病状説明という場面で、田中さんにとっての意味、斉藤さんにとっての意味は異なるため、同じような対応はできないわけです。一人ひとり、出来事の意味が異なるということは、当然、医療者にとってもそれぞれの出来事の意味・解釈があります。
本書では、患者の物語、患者を取り巻く人々の物語、そして看護師である筆者自身の物語を、看護技術という切り口から取り上げます。看護の技術は、それ自体が単なる技術として提供されるわけではなく、患者と看護師の関係性、様々な文脈の中で、意味をもって存在します。同じ看護技術であっても、もたらされる結果も一元的ではありませんし、患者、看護師それぞれの意味の層が重なり合う多義的な出来事となります。
これまでの看護技術のテキストは、エビデンスやノウハウを中心に記されてきました。それらは欠くことのできない側面ですが、看護技術が展開される臨床の文脈から切り離すと、看護の楽しさや面白さが十分には伝わりません。
もしあなたが看護師であるならば、本書の物語に触れることによって、きっとあなた自身の記憶の中にある出来事が、思い起こされるでしょう。ぜひ、あなたの物語を仲間たちに語っていただけたら嬉しいです。
もしあなたが本書の物語を読んで看護師をめざしたいと思ったら、それは今まさにあらゆる現場で患者さんたちに向き合う看護師たちの姿が皆さんに届いたのではないかと思うのです。
もしあなたが患者、家族という立場にある方ならば、看護師たちにもっとあなたの物語を伝えていただきたいのです。
そうして「ナラティヴ」は、より広がりをもつ言葉となっていくのです。
ナラティヴ【narrative】 物語、語りを意味する。看護師の臨床経験の語りは、看護の意味や解釈を広げる。個々の看護師の語りの連鎖は、語り手と聞き手との間で新たな語りを生み出し、看護実践の知が広がっていくことになる。
本書は着想から執筆、出版に至るまでの十月十日〈とつきとおか〉、編集者である品田暁子さんという「助産師」の存在なくしてはなしえませんでした。そして、山田かな子さんは、読み手の心をほっとさせてくれる多くのイラストを描いてくださいました。
この場をかりて、感謝申し上げます。
二〇一四年十一月 吉田みつ子
目次
開く
はじめに
排泄介助 真夜中のオムツ交換、五千円は高いか安いか
整容 顎〈あご〉をなでる手、身体に残っていたしぐさ
環境整備 モーニングケアから失われたもの
無菌操作 実は、倫理が問われる技術
急変時の対応 第一発見者はそこを動くな
体位変換 身体の「隙間」を探し当てる
清拭 サテンのランジェリーとCVカテーテル
洗髪 「髪が抜けた」を笑い飛ばす力があるか
食事介助 ご飯か魚か、次の一匙〈さじ〉を決めるもの
罨法 安楽をもたらしたのは何なのか?
点入 眼の中に軟膏、どうやって塗る?
検査・処置の介助 「何かをしない」ことの意味
静脈血採血 ベテラン患者が取り出した「パンツのゴムひも」
アンプルカット なぜ指を切るのか、ベテランと新人の違い
リハビリ支援 リハビリ室で見た患者は幻か?
グリセリン浣腸 「物」化することで成立する、「恥ずかしい」行為
死後の処置 生と死、連続するケア
整容 顎〈あご〉をなでる手、身体に残っていたしぐさ
環境整備 モーニングケアから失われたもの
無菌操作 実は、倫理が問われる技術
急変時の対応 第一発見者はそこを動くな
体位変換 身体の「隙間」を探し当てる
清拭 サテンのランジェリーとCVカテーテル
洗髪 「髪が抜けた」を笑い飛ばす力があるか
食事介助 ご飯か魚か、次の一匙〈さじ〉を決めるもの
罨法 安楽をもたらしたのは何なのか?
点入 眼の中に軟膏、どうやって塗る?
検査・処置の介助 「何かをしない」ことの意味
静脈血採血 ベテラン患者が取り出した「パンツのゴムひも」
アンプルカット なぜ指を切るのか、ベテランと新人の違い
リハビリ支援 リハビリ室で見た患者は幻か?
グリセリン浣腸 「物」化することで成立する、「恥ずかしい」行為
死後の処置 生と死、連続するケア
書評
開く
人間の暮らしの中にある“もう一つの看護技術”
書評者: 陣田 泰子 (横浜市立大学看護キャリア開発支援センター)
本書を初めて手にした時,「ん? 看護技術に,ナラティヴって……?」というのが第一印象だった。さらに「看護技術の定義は,ベッドサイドで更新される」とある。えっ!
でも,患者さん一人ひとり病気も症状も違うし,それからナースだってベテランから新卒まで,さまざまな段階の人による技術であるし,状況や環境も異なるし,究極的には,そうだ。
◆本書の意図,それは“風景”
本書のユニークな点は,「これまでの看護技術のテキストは,エビデンスやノウハウを中心に記されてきた」と文中にあるように,あえてそうでない切り口から技術を捉えていることである。そのコンセプトが明瞭にわかるのが本書の構成の“看護技術のある風景”という表現である。前述した意図に沿って,それは一つの“風景”なのである。そして,その風景の描写がなんと細やかなのだろう。
一番うなったところは,一つひとつの看護技術の描写である。昼夜逆転の80歳の吉井さんのひげ剃り。舌を動かして,ひげを剃りやすいようにしてくれる。ミトンを外された手は,さらに剃りあがった顎をまんべんなく撫でて剃り具合を確かめるように……。そしてまだ終わらない。ひげを剃り終わり手渡された熱いおしぼりタオルで自分で顔を拭き,汚れた面を折り返してきちんと畳んだ。そしてもう一度顔を拭いた……。
思わず,患者さんの様子が目に浮かぶ。と同時に,そこに目をそらさず追っている著者のまなざしが,また見えてくる。
「臨床における学びは,一つの物語のように経験されるのである。(中略)そのナラティヴによって発動力や流動性,そして経験的学習に欠かせない実践的理解が把握されるのである」(P. Benner,他.ベナー看護ケアの臨床知 第2版.医学書院;2012.p.33)。
◆科学を超えた,人間の技術・看護の技術
それは看護の技術が,人間の技術になる瞬間である。その人と一体になった,まさに“看護実践”がここには描かれている。私たちは,これをめざしていたはずだ。今,このような瞬間はもう起きていないのだろうか。病院までもがハイスピード時代に入ってしまった現代に,このような情景はなくなってしまったのだろうか。そうではないような気がする。むしろ目に見えて少なくなったのは,この風景を読み取る,いやその前にこの風景に目を留める看護師の姿ではないだろうか。刻々と流れている状況の中で,自身も動き続けている中で,目を留め,目で追い,そこから見る,じっと見る,そして意味が見えてくる……,その実態,著者が“風景”と表現した,その別名“人間の生活・暮らし”,これは通常の生活の場ではなく病院の中だったりはするけれど,ないはずはない。
「病院は,工場になってしまった」,少々過激な表現を時々私はしてしまうのだが,それでも,そこで人間は眠って,起きて,動いている。そう,人間の暮らしがないはずはない。
本書で語られる物語を,過ぎ去ったセピア色の物語にしてはいけないと思う。「果たして,今伝わるだろうか」と思う一方で,「だからこそ今」とも思う。そんな著者の深い思いが見えてくる本である。
学生が看護技術の深い意味を考えるきっかけに (雑誌『看護教育』より)
書評者: 村松 静子 (在宅看護研究センターLLP代表)
本書の意図は,帯の言葉「看護技術の定義は,ベッドサイドで更新される」に示されている。そこからページをめくると,「臨床経験をもっと語ろう。心の風景も交えて語ろうよ。語りの連鎖が看護実践の知となって拡がるのだから……」と囁く著者の声が聴こえてくる。看護師として未熟だった頃の著者,患者の姿とそこでの失敗やさまざまな出来事が重なって鮮明に浮かぶ。その語り口が絶妙で,読み手の心にス~ッと入ってくる。まさに,なまのナラティヴ・アプローチである。
本書の特徴は,章立てがなく物語読本にこだわっているところにある。取り上げた看護技術は,排泄介助,整容,環境整備など17項目で,ごく一般的に分類されている。それだけをみれば,施設ケアの福祉職のためのテキストかと安易に受け止められてしまうかもしれない。しかし私は,看護学生はもちろん,多くの看護師に読んでもらいたい一冊として推奨したい。
◆語られる風景,そこに見えるもの
17項目の看護技術は4つの柱に沿って語られる。まずは技術の一般的な定義が示され,2つ目の柱,「看護技術のある風景」で,その技術にまつわる経験が臨場感豊かに語られる。
そして3つ目の柱,「看護技術の傍らに見えたもの」では,その生きた経験をもとに,紹介技術が臨床でどのような意味をもつか,考察される。その考察をうけ,冒頭の技術の定義が,より広がりをもったものとして更新される。これが4本目の柱である。
◆身近な技術に潜む“看護のエキス”
読み進めていくと,若かりし頃のあの純粋さが蘇ってくる。懐かしく,これまでの看護技術のテキストとは一味違うことに気づく。溢れる看護のエキスにホッとする。また,自ら先輩から盗み取った技を提示し,先輩から技を盗み取れと,さり気なく伝えるなど,ユーモアを交えながらのその語りには思わず頷かされる。私も,急変時の対応などは,先輩の背を見,真似ながらトレーニングを積んで一人前になってきたからである。
本書は,とにかく読みやすい。サラリと構成されたその枠は,当たり前のようでいて当たり前ではなく,実に小気味いい。また,語っていることが身近なことであるがゆえに読み手を惹き込み,感性を揺さぶる。そこに潜んでいる看護のエキスが見え隠れする。看護学生たちも,先輩の生きた経験に基づいた考察から学ぶことは多いだろう。
著者は,本書で大切な問いを投げかける。「私たちは患者の姿を忘れ,“道具の点検”だけをしていないでしょうか」。
私は看護職の同志として,著者に対し敬意を表す。「まず読んでご覧!」といえるテキストに久々に出会った,そんな気分になっている。
(『看護教育』2015年3月号掲載)
書評者: 陣田 泰子 (横浜市立大学看護キャリア開発支援センター)
本書を初めて手にした時,「ん? 看護技術に,ナラティヴって……?」というのが第一印象だった。さらに「看護技術の定義は,ベッドサイドで更新される」とある。えっ!
でも,患者さん一人ひとり病気も症状も違うし,それからナースだってベテランから新卒まで,さまざまな段階の人による技術であるし,状況や環境も異なるし,究極的には,そうだ。
◆本書の意図,それは“風景”
本書のユニークな点は,「これまでの看護技術のテキストは,エビデンスやノウハウを中心に記されてきた」と文中にあるように,あえてそうでない切り口から技術を捉えていることである。そのコンセプトが明瞭にわかるのが本書の構成の“看護技術のある風景”という表現である。前述した意図に沿って,それは一つの“風景”なのである。そして,その風景の描写がなんと細やかなのだろう。
一番うなったところは,一つひとつの看護技術の描写である。昼夜逆転の80歳の吉井さんのひげ剃り。舌を動かして,ひげを剃りやすいようにしてくれる。ミトンを外された手は,さらに剃りあがった顎をまんべんなく撫でて剃り具合を確かめるように……。そしてまだ終わらない。ひげを剃り終わり手渡された熱いおしぼりタオルで自分で顔を拭き,汚れた面を折り返してきちんと畳んだ。そしてもう一度顔を拭いた……。
思わず,患者さんの様子が目に浮かぶ。と同時に,そこに目をそらさず追っている著者のまなざしが,また見えてくる。
「臨床における学びは,一つの物語のように経験されるのである。(中略)そのナラティヴによって発動力や流動性,そして経験的学習に欠かせない実践的理解が把握されるのである」(P. Benner,他.ベナー看護ケアの臨床知 第2版.医学書院;2012.p.33)。
◆科学を超えた,人間の技術・看護の技術
それは看護の技術が,人間の技術になる瞬間である。その人と一体になった,まさに“看護実践”がここには描かれている。私たちは,これをめざしていたはずだ。今,このような瞬間はもう起きていないのだろうか。病院までもがハイスピード時代に入ってしまった現代に,このような情景はなくなってしまったのだろうか。そうではないような気がする。むしろ目に見えて少なくなったのは,この風景を読み取る,いやその前にこの風景に目を留める看護師の姿ではないだろうか。刻々と流れている状況の中で,自身も動き続けている中で,目を留め,目で追い,そこから見る,じっと見る,そして意味が見えてくる……,その実態,著者が“風景”と表現した,その別名“人間の生活・暮らし”,これは通常の生活の場ではなく病院の中だったりはするけれど,ないはずはない。
「病院は,工場になってしまった」,少々過激な表現を時々私はしてしまうのだが,それでも,そこで人間は眠って,起きて,動いている。そう,人間の暮らしがないはずはない。
本書で語られる物語を,過ぎ去ったセピア色の物語にしてはいけないと思う。「果たして,今伝わるだろうか」と思う一方で,「だからこそ今」とも思う。そんな著者の深い思いが見えてくる本である。
学生が看護技術の深い意味を考えるきっかけに (雑誌『看護教育』より)
書評者: 村松 静子 (在宅看護研究センターLLP代表)
本書の意図は,帯の言葉「看護技術の定義は,ベッドサイドで更新される」に示されている。そこからページをめくると,「臨床経験をもっと語ろう。心の風景も交えて語ろうよ。語りの連鎖が看護実践の知となって拡がるのだから……」と囁く著者の声が聴こえてくる。看護師として未熟だった頃の著者,患者の姿とそこでの失敗やさまざまな出来事が重なって鮮明に浮かぶ。その語り口が絶妙で,読み手の心にス~ッと入ってくる。まさに,なまのナラティヴ・アプローチである。
本書の特徴は,章立てがなく物語読本にこだわっているところにある。取り上げた看護技術は,排泄介助,整容,環境整備など17項目で,ごく一般的に分類されている。それだけをみれば,施設ケアの福祉職のためのテキストかと安易に受け止められてしまうかもしれない。しかし私は,看護学生はもちろん,多くの看護師に読んでもらいたい一冊として推奨したい。
◆語られる風景,そこに見えるもの
17項目の看護技術は4つの柱に沿って語られる。まずは技術の一般的な定義が示され,2つ目の柱,「看護技術のある風景」で,その技術にまつわる経験が臨場感豊かに語られる。
そして3つ目の柱,「看護技術の傍らに見えたもの」では,その生きた経験をもとに,紹介技術が臨床でどのような意味をもつか,考察される。その考察をうけ,冒頭の技術の定義が,より広がりをもったものとして更新される。これが4本目の柱である。
◆身近な技術に潜む“看護のエキス”
読み進めていくと,若かりし頃のあの純粋さが蘇ってくる。懐かしく,これまでの看護技術のテキストとは一味違うことに気づく。溢れる看護のエキスにホッとする。また,自ら先輩から盗み取った技を提示し,先輩から技を盗み取れと,さり気なく伝えるなど,ユーモアを交えながらのその語りには思わず頷かされる。私も,急変時の対応などは,先輩の背を見,真似ながらトレーニングを積んで一人前になってきたからである。
本書は,とにかく読みやすい。サラリと構成されたその枠は,当たり前のようでいて当たり前ではなく,実に小気味いい。また,語っていることが身近なことであるがゆえに読み手を惹き込み,感性を揺さぶる。そこに潜んでいる看護のエキスが見え隠れする。看護学生たちも,先輩の生きた経験に基づいた考察から学ぶことは多いだろう。
著者は,本書で大切な問いを投げかける。「私たちは患者の姿を忘れ,“道具の点検”だけをしていないでしょうか」。
私は看護職の同志として,著者に対し敬意を表す。「まず読んでご覧!」といえるテキストに久々に出会った,そんな気分になっている。
(『看護教育』2015年3月号掲載)