坂口恭平 躁鬱日記

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ベストセラー『独立国家のつくりかた』などで注目を浴びる坂口恭平。しかしそのきらびやかな才能の奔出は、「躁のなせる業」でもある。鬱期には強固な自殺願望に苛まれ外出もおぼつかない。試行錯誤の末、彼は「意のままにならない《坂口恭平》をみんなで操縦する」という方針に転換した。その成果やいかに!

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
坂口 恭平
発行 2013年12月判型:A5頁:298
ISBN 978-4-260-01945-3
定価 1,980円 (本体1,800円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

●動画配信中!
本書発売記念 サイン会&ゲリラライブ!(2013年12月12日 新宿紀伊國屋書店前)

当日のレポート:『坂口恭平 躁鬱日記』発売記念 書店回りとサイン会とゲリラライブ!(看護師のためのwebマガジン「かんかん!」)

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(あとがきより)
鬱の花とクレオール

 僕の躁鬱の波は当然ながら今もたびたび揺れ動き、突如閃光が走ったように直感が下りてきては韋駄天〈いだてん〉のごとく世界を飛び回り、そうかと思ってフーがヒヤヒヤしはじめると、知らぬ間に穴熊のごとく六畳間の自宅書斎に引きこもり、絶望の唸りを上げていたりする。

 つまりは、まったく治ってません! 治るわけがありません! 仕方なく躁鬱を持った坂口恭平は、己を大自然なのだと捉えることにした。と、かっこよく言っているが、実際のところは、「治す」ということを根本から諦めてしまったわけである。

 僕は、人工的に管理できるような、電子機器満載のハイブリット車ではない。年代物のポンコツ車なのである。というよりも、野生の猿なのである。猿だけでなく、野生に生きる自然の動物、植物、大気の動き、天候、それらをすべてひっくるめて、大きな山の麓〈ふもと〉にジャングルが広がるジオラマでも頭の中で想像しながら、僕は自らを大自然だと思うことにした。

 太陽が燦々〈さんさん〉と照り、花々が咲き乱れ、そのあいだを虫という名の小型宇宙飛行船が飛び交っていると、しだいに入道雲が訪れ、世界はグラデーションを描きながら灰色から真っ暗闇の世界へ突入し、どしゃぶりの雨が降りはじめる。大雨のなか、蝶々はいったいどこに隠れているのだろう。そんなことを思い浮かべつつ、僕はベッドの上でただただ寝ている。いや、寝転んでいるものの、眠れはしない。頭の中ではぐらぐらとネガティブなことが渦巻いてくる。落ち着かず、足をばたばたさせている。フーに助けを乞うことにした。

 「鬱のときはいつもそうなってるよ。あなたが駄目になっているのではなく、今はそういう思考回路になっているのよ」

 フーはいつもと変わらぬ調子で助言してくれた。大雨のときに裸で海沿いをサングラスをかけながらランニングし、終わったあとにビーチサイドでビールを飲むなんてことを企画しても実現するわけがないのだ。今は暗雲が立ち込め、一寸先が見えないほどの勢いで水の塊が落ちてきている。葉の後ろにでも隠れて、静かに英気を養っておくことしかできない。

 躁鬱の僕は、どうにかして客観的・俯瞰的な視点を持ち、躁鬱それぞれの時期に起きるさまざまな現象に対応しようと試みるのだが、これが驚くべき高い確率で失敗をする。言ってしまえば、毎度うまくいかない。自分を管理しようと試みるも、そのつど管理方法や管理環境、管理するために駆使する技術の具合が違うので、いったいどの地点に位置する自分が正しいのかまったくわからなくなってしまうのである。僕の中に定点観測者がいないのだ。

 それならば、大自然のままに生きればいい。管理するのではなく、なるがままに生きる。開き直ると問題は簡単に見えた。しかし、人間はやはり完全な大自然ではない。好き勝手にどこにでも寝られる生き物ではないのだ。お金を貯蔵し、所有権を購入し、なおかつ法律に従い家を建て、表札を掛けて、初めて眠ることができる。元々は野生の猿と同じ自然物であったはずなのに。

 見せかけの大自然である坂口恭平は、だからいつも困ってしまう。ただ生きて、太陽を燦々と浴びて、そのまま枯れて朽ちるのが本望とは思いつつも、やはり腹の底では、慈愛の精神でもって垂らされる一滴の如雨露〈じょうろ〉からの人工的作業による恵みの水を欲している。

 「恭平、夕食できたよ」

 妻であるフーは、僕が躁だろうが鬱だろうが同じように対応する。この女性は躁鬱病というものをまったく理解していない。それなのに、フーから苦情をもらったことは一度もない。僕が暗く沈鬱な状態であっても嫌そうな顔をされたことがない。いつも同じなのである。僕が死にたいと言ったときだけ、「嫌だ」と強く言う。それ以外は、僕は放置される。大自然のままで居られるのはフーがいるからなのである。

 自分一人だけで自立していることが求められている社会の前で言うのは恥ずかしいのだが、僕はフーと一緒にいることで、坂口恭平を自立させている。自分自身を見つめ直したり修繕したりはまったくできないが、フーという定点観測者と雑談することで、自分が位置している座標軸を予測することができる。さらには五歳になったアオと零歳の弦もいる。坂口恭平という運動体は、坂口家という集団によって運営されているといえる。

 この本の著者は、「坂口恭平」と銘打たれている。もちろん僕が直接書いており、フーは一行もゴーストライティングしていないのであるが、坂口恭平=著とは、坂口家共同執筆ということである。自分一人で生きていくことができない大自然坂口恭平はとてつもなく頼りないが、おかげでフー、アオ、弦は、とても人間らしく、大きく成長していくのだろうと確信している。

 僕が鬱のとき、アオは五歳児にもかかわらず「えーー、またウツなの?」と溜息を漏らすようになってしまった。むかしはそれでも遊ぼうと騒いでいたが、今では僕が「躁になったらどこまでも自転車に乗って遊びに連れていってあげるから、ジジの車に乗って幼稚園に行ってくれ」とお願いすると、書斎から立ち去り、ドアをきちんと閉めてくれるようになってしまった。申し訳ない。

 娘、息子に自分のどうしようもないところを見せたくないと泣いていると、フーは言う。

 「どうせ隠せないんだから、全部見せればいいのよ。べつに私はなんとも思っていないよ。鬱のときのあなたも悪くないんだから」

 僕にはそう思えない。それでも、坂口恭平の一人であるフーが言うのであれば、それもまた一理ということなんだろう。そうやって僕は自分自身の問題を、その他の坂口恭平構成員の言葉や立ち振る舞いを見ながら、解決するようになった。

    ★★★★

 「恭平の中に、二人いることは確認できているのよね……」

 フーがある日、呟いた。

 「やっぱり全然違うのか?」

 理解できない僕は、しみじみとフーを見る。悲しいかな、躁のときには鬱の記憶が完全に取り除かれ、鬱のときには躁の活躍がまったく理解できなくなる。フーから言われて初めて気づいた。

 「三人目の坂口恭平が必要だね。今年の目標は、新たなる坂口恭平と出会うこと!」

 そんなことを言っていたのが今年の初め。そんななか僕はこの日記を書いていた。とはいっても、三人目の坂口恭平との邂逅〈かいこう〉など演出することもできず、僕は躁になり、もう二度と落ちることはないと叫びながら、もちろん定期的に鬱になった。

 それでもどうにか『幻年時代』という記憶再現装置のような本を完成させることができた。躁鬱の波は恐ろしく、死の危険が常に潜んでいるのだが、鬱の洞窟から無事に抜け出した後には、新編されたアルゴリズムによる活発な創造活動が待っている。これが坂口家を稼働するエネルギー源となる。

 トントンと小さなノックの音。ベッドに寝転びながら首だけを上げると、静かにドアが開いてアオの顔が飛び出てきた。

 「パパ」

 「なに? パパは調子が悪いから、寝かせてね。今日は鬱の恭平くんのほうなんだから」

 「わかってるわかってる。違うの。絵を描いたんだよ。あげる」

 アオから、コピー用紙に描かれた絵を受け取る。虹が描かれ、その真下に小さい男の子が両手を上げて笑っている。

 「これ弦ちゃん? アオはやっぱりうまいねえ」

 「違うよ。弦ちゃんじゃないよ」

 「じゃあ、誰?」

 「パパだよ」

 「パパ?」

 「パパとママが、恭平は二人いるって言ってたじゃん」

 「うん。ママには二人いるように見えるらしいね。パパにはわからないんだけど」

 「二人じゃないよ」

 「!?」

 僕は寝ていた体を起こし、アオの言葉に耳を傾けた。

 「三人だよ」

 アオはそう言いながら、僕が手に持っているアオが描いた坂口恭平を指差した。

 「これ、四歳のパパ」

 そう言うと、アオは再びドアを閉め、居間へと歩いていった。

 躁と鬱。この二人がいる。それはなんとなくわかる。だからこそフーに言われるままに、僕は、躁の坂口恭平から鬱の坂口恭平へ向けて手紙を書いた。

 七月下旬、当然ながら再び鬱状態に陥った僕は、フーが入れてくれた封筒を開けて、手紙を開き、読んでみた。笑えてしまうくらい、意味不明の文面であった。

 躁状態のままに書いた文章はけっきょく、鬱の僕を一片も慰めてはくれなかった。無理やり鼓舞するどころか、彼は空高く飛翔してしまっており、その姿すら見えない。鬱の僕が読むと、アカの他人が書いた手紙にしか思えなかった。しかも鬱の状況をまったく理解していない人間による仕業だ。躁と鬱おのおので使われる言語は、英語と日本語というくらい構造が違っており、完全にコミュニケーションが断絶されている。会話が噛み合わないのではなく、まったく別の言語なのである。

 「三人目は四歳の坂口恭平」

 アオの言葉を思い返していると、二つのイメージが現れてきた。

 僕はいつもイメージで感知する。なぜなら今の社会で使われている言語の意味で自分を捉えると、単純明快に「ただの病気の人」ということになってしまうからだ。

 僕は躁鬱病(現在では双極性障害というわかりにくい言葉で呼ばれている。主治医によると僕は「双極性障害II型」らしい)で、精神障害者で、躁状態と鬱状態という大きな二つの波に苦しむ患者であり、治療にはリチウムなどの気分安定剤が使われ、しかも、なぜリチウムが躁鬱病に効果があるのかは解明されておらず、遺伝である可能性が高い脳機能障害であるが、つまるところ詳しい原因はわかっていない……。

 もちろん、現社会での言語表現も僕にとってヒントにはなるのだが、それだけでは心許ない。だからこそ僕は頭に想起されたイメージ、映像、音感、直感などを統合させて——周囲からは関係妄想などとときどき言われてしまうが、そんなことは気にせず振りほどき——新しい独自の言語によって再構築しようと試みる。興味深いことに、この僕の作業が、けっきょくは創作活動へと結びついていく。今、定義されてしまっているものをとりあえず横に置いておいて、既存の言葉を再構成し、浮かび上がってきたイメージを的確に立体的に具現化するために新しい言語を生み出す。これが僕の創作の原点である。

 ……そうだ、僕はアオの絵によってひらめきが舞い降りていたのだった。それはこんな映像であった。

    ★★★★

 躁状態は、土からむくりと起き上がった鮮やかな緑色の芽である。芽は太い茎となりながら成長していく。「躁の茎」は太陽に向かってまっすぐ、どんな障害があろうともまっすぐ、垂直に伸びていく。茎は柔らかいが、重力をもろともせずに、金属のように硬質に微動だにせずに伸びている。

 天高く伸びたあと、成長が止まった。茎の先には小さな蕾〈つぼみ〉が見える。しかし茎であると勘違いしているその蕾は、さらに太陽に向かって伸びようと試みている。蕾は茎ほどに強くはなく、伸びようと思っても蕾自体の重量もあって、徐々に萎〈しお〉れていく。蕾は落ち着かない。茎のような力強さに惹かれている。自分が茎とはまったく別種の存在であることに気づいていない。

 やがて蕾は完全に疲れ果て、下を向く。茎はぐにゅんと折れ曲がり、蕾は今にも落ちていきそうだ。さらに雨が降ってきた。風も吹く。蕾は雨風によって己の弱さに気づき、落ちないように耐える。やがて、雨が上がった。下を向いた蕾は、地面にできた水たまりに映った自分の姿を見て、自分が鬱という名の蕾であることを知覚し、納得する。その瞬間、蕾は落ちてもいいとすべての力を抜き、「鬱の花」を咲かせる。

 イスタンブールのような市場街。青空市場には無数のテントが立っている。さまざまな言語が飛び交い、商品が並べられ、人々が雑踏となって蠢〈うごめ〉いている。一人の商人が、不思議な色で光る装飾具を持って叫んでいる。躁の坂口恭平である。

 そこへ、見たこともない素材でつくられた布を羽織りながら暗くうつむいている寡黙な鬱の坂口恭平が歩いてくる。躁の坂口恭平はそのうつろな姿に見入り、声を掛ける。しかし二人は言葉が通じ合わない。躁の坂口恭平は持ち前の力みなぎる笑顔と立ち振る舞いを駆使して、静かに佇む鬱の坂口恭平を落とそうと試みている。その姿を見た鬱の坂口恭平は、言葉の意味はわからないけれども、躁の坂口恭平のコミカルな動作が気に入り、二人はめでたく結婚をする。数年後、彼らは一人の子どもを授かることになった。その名は、四歳の坂口恭平。

 鬱の花とは、僕が作品をつくろうと思い立つときの創造する力そのもののこと。鬱の花が咲く映像の向こうには、人々がひしめくマーケットがピンぼけのまま見えている。商人たちの掛け声が鮮明にこちらに聞こえてくる。躁の坂口恭平と鬱の坂口恭平の混血児である四歳の坂口恭平が、こちらに寄ってくる。次第にピントが合うと、両手で鬱の花を摘み取り、髪に飾り、走り去っていく。そんな妄想の映画の冒頭シーンが浮かんできた。

 躁の言語と鬱の言語ではコミュニケーションが成立しない。しかし、言葉など通じなくても、愛は芽生えるし、子どもは生まれるのだ。そうやって混血児は、両親である躁の坂口恭平と鬱の坂口恭平を分断する言語の壁を超えて、さらに詳細な意思疎通を図るために新しい言語をつくる。母語や現地語などいろいろな言語が混ざったクレオール言語のようなものだ。漢字にカタカナにひらがなと三種類の文字を駆使し、どの国の言語にもできないような複雑な感情も表現することができる日本語も、北方の言語と南方の言語が混ざり合って生まれたクレオール言語から発生したという説もあるという。

 躁の坂口恭平と鬱の坂口恭平が結婚し、産まれた混血児、クレオール坂口恭平。クレオール坂口恭平が使う言語、それが僕にとっての創造という行為ということなのかもしれない。躁と鬱のあいだに産まれた四歳のクレオール坂口恭平が、極彩色の鬱の花をいくつも髪に飾り立て、サバンナの真ん中で不思議なダンスを踊っている。熱狂しているかと思った瞬間に冷血な顔を見せ、下を向いたかと思うとコミカルな仮面姿で空高く飛び上がる。

 クレオール坂口恭平は、いったいどこへ行くのだろうか。僕にも想像できない。本書もそうやって産まれたクレオール坂口恭平の一人である。末永く、生きて続けてほしいと思う。

    ★★★★

 二〇一三年の四月から七月というたった四か月の記録であるが、原稿は膨大になった。ここまで濃密に自分の日常を記録したのは初めてである。日常というか、これは僕からの視点による妄想といっても過言ではない。よく本になったものだと思う。僕のひらめきに、何も躊躇せずに引き受けてくれた医学書院の白石正明さんに感謝を述べたい。ご苦労様でした。

 内実は、朝、自転車でアオを幼稚園まで送り、その後、少しだけ原稿仕事を行い、二時四五分になると再びアオを迎えにいき、家に帰ってからはアオと遊び、アオと弦をお風呂に入れているだけである。しかし僕は、ふっと消えて忘れてしまいそうな日々の生活の中に、いつもたくさんの世界が紛れ込んでいるのを確認する。躁状態のときには、さらにそれが増幅されていく。もちろん、僕の躁状態はいいことばかりではない。問題も多い。それでも僕は、躁真っ最中のときに湧き出てくるあらゆる人々、景色、大気、感覚に対する大きな愛情が好きである。

 アオが「パパが元気なときはどこにでも遊びにいけるから楽しい」と健気〈けなげ〉に言うとき、なんともいえない気持ちになる。それは躁だからだよと冷めて言いつつも、やはり僕はアオと一緒に自転車に乗って川沿いを走っているとき、大きな声で叫びたくなってしまうほど幸福だ。アオ、いつも自転車に一緒に乗ってくれてありがとう。

 弦も今では首がすわり、なんちゃってハイハイも始めている。これから坂口恭平を稼働させる新米構成員として頑張ってもらうことになる。よろしくお願いします。また僕の仕事も変化していくのだろう。

 この本の主役はもちろん、フーだ。本書にも少しだけ登場してくるタンゴが、下北沢であった東京ティンティンの公演にフーをたまたま連れてきて出会ったのが一二年前の二〇〇一年十一月。フーが証言するところによると、そのころからときどきふっと落ち込んだり、突然、今から尾道に行こうと言って「青春18きっぷ」で二人で旅に出たりと、躁鬱の気はしっかりとあったらしい。それでも嫌な顔ひとつせず、いつも笑っているフーはやはり今も僕にとっては謎のままである。

 今では、僕の読者から「私は実はフーさんのファンなんです。坂口恭平よりも、私はフーさんのほうが好きなんです!」と熱弁されたりする。フーにそれを伝えても、わっはっはと笑って、すべてをかわす。僕はいつか『伝記フー』を書きたいと思っている。そんなフーに、最大限の感謝を伝えたい。また笑われそうだが。

 坂口家一同による「坂口恭平」という家庭内手工業は、もちろん今日も続いている。いったいこれからどうなるのかわからなくなり、僕はフーのいる台所で嘆く。しかし、フーもアオも、最近では弦までみんなが笑っている。

 「パパが動けなくなったら、わたしがゆめマートでバイトするから大丈夫だよ」

 フーは屁とも思っていないようだ。

 そろそろ時間のようだ。早く寝ないと寝坊してしまう。

 ベランダで一服する。空は雲ひとつない。明日も晴れだろう。

 絶好の自転車日和である。

 フー、アオ、弦の三人は二つの布団に寄り添い合って、まったく同じ方角を向いて、同じ姿勢で眠っている。

 坂口家のみんな、ありがとう。

 パパは死にません!

  二〇一三年十一月一日
  熊本市の自宅にて
坂口恭平

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第1部 アオと自転車に乗って
    2013年 4月15日~ 5月18日

第2部 ベルリンの日々
    2013年 5月26日~ 5月31日

第3部 謎の女、フー
    2013年 6月 1日~ 6月25日

第4部 鬱の恭平くんへ
    2013年 7月 6日~ 7月11日

あとがき 鬱の花とクレオール


鬱記
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