対話と承認のケア
ナラティヴが生み出す世界
人の物語に触れることが、なぜケアになるのか。ナラティヴ・アプローチ探究の決定版。
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「患者の話を聞く」という行為は、その一言では到底説明しきれない奥深さと難しさがあり、専門的な行為として扱われてしかるべきものです。本書は、ナラティヴに対する誤解を解くことから始め、〈ケアする人〉と〈ケアされる人〉の二者関係を軸に、ナラティヴによる「解釈」「調停」「介入」を熟思し、なぜ「患者の話を聞くこと」「患者と対話することが」がケアになるのかを解き明かしていきます。
著 | 宮坂 道夫 |
---|---|
発行 | 2020年02月判型:A5頁:282 |
ISBN | 978-4-260-04161-4 |
定価 | 2,640円 (本体2,400円+税) |
更新情報
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本書が日本医学哲学・倫理学会 学会賞を受賞しました(学会ウェブサイトへ)
2022.01.18
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●本書が日本医学哲学・倫理学会 学会賞を受賞!
第15回 日本医学哲学・倫理学会 学会賞(2021年)に本書が選出されました。同賞は、日本医学哲学・倫理学会の目的および進歩に寄与する顕著な研究を行い、さらに将来の発展を期待される研究者を顕彰するものです。
詳細はこちら(日本医学哲学・倫理学会ウェブサイトへ)。
序文
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はじめに
「対話」「承認」「ケア」。
本書のメインタイトルになっている、これら三つの言葉の関係は、思いのほか複雑である。
人と人が対話をする。対話は、単なる会話でもなければ、情報交換でもない。それは、対等の立場で向かい合って話をすることであり、お互いの価値を認め合っていなければ成り立たない。つまり、お互いを承認し合っている関係でのみ、対話が成り立つのである。
これに対して、「ケア」という言葉は、いろいろな意味で使われる。本書では、病いを抱えている人へのケアを考えるのだが、それでもその意味はさまざまである。見知らぬ人が苦しそうにしているのを見て、「大丈夫ですか」と声をかけることもケアだろうし、その人が病院に運ばれて、高度な医療技術を駆使して行われる治療もまた、ケアである。
では、ケアをする人とされる人とのあいだで、対話は成り立っているのだろうか――。
おそらく、本書を手に取っている人の多くは、こう考えるだろう。
「患者と対話をすること(あるいは、患者を対等な存在として承認すること)は、ケア者にとって、とても大切なことだ」。
ところが、実際には、対話がなくても、ケアは行われている。
たとえば、病人が意識をなくしていて、会話さえできなくても、救急車が呼ばれ、手術が行われる。その間、ケアをする人とされる人が、対話をする機会はない。あるいは、もっとありふれた場面、たとえば医療機関を受診した患者が、治療を担当した医師と話をする場面を考えてみるとよい。医師は患者の症状を聞き、治療について説明をして、同意書への署名を求めるだろうが、本当の意味で「対話」と呼べるような話をすることは、めったにない。
医療従事者にとって、患者を自分と対等な存在として「承認」しているのは、ある意味で当然のことだろうし、時間をかけて会話をする余裕がないにしても、丁寧な態度や言葉遣いを心がけて、「対話」と呼べるようなコミュニケーションに近づく努力もしているだろう。
それでも、「対話」や「承認」は、「ケア」を行うための必須要件ではなく、「実現困難な理想」として、心のどこかに沈められているものかもしれない。
本書のサブタイトルに含まれているこの言葉は、「対話」「承認」「ケア」の関係に、新しい可能性を与える力をもっている。
それは、対話や承認それ自体がケアになるという可能性である。
本書では、この可能性を考えるために、「ナラティヴ」を手がかりに、ケアする人とされる人の二者関係を掘り下げていく。ナラティヴ(物語)について書かれた書物はたくさんあるが、本書がそれらの書物とどう違うのかと言えば、この「ケアする人とされる人の二者関係」を、最初から最後まで軸に据えていることである。
よく言われるように、人は物語をつくりながら生きている。もっと言えば、「自分という存在」の意味や、「いまこうして生きていること」の意味を、物語をつくることで理解し、納得しようとする。これが、「私のナラティヴ」とか「自己物語」と呼ばれるものである。ナラティヴについて書かれてきたものの大半は、この「私のナラティヴ」を軸にしている。ケアとの関わりで書かれた本ならば、「私のナラティヴ」とはもっぱら「患者のナラティヴ」であり、医療従事者のような「ケアする人」は、その「患者のナラティヴ」に耳を傾ける人、すなわち「聞き手」の役割をもたされている。
これに対して、「ケアする人」の側にもナラティヴがある、というのが、本書のスタンスになっている。ケアする人とされる人が完全に対等な人間だという前提に立つ、本来は次の二つを同時に考える必要がある、ということである。
もちろん、ある人が病気になって、別の誰かがその人のケアをしているとき、二人のあいだには、入れ替えのできない絶対的な立場の違いがある。私たちは、病気の人に成り代わることはできない。そのことをわきまえながら、ケアする人とされる人の二者関係を考え、対話や承認がケアになる可能性を考えてみたい。
筆者は本書を、プロフェッショナルなケア者である「保健医療」にたずさわる人と、家々の屋根の下で病者のケアをしている人に、ともに読んでほしいという気持ちで書いた。もちろん、病いを抱える人、いつかそうなる予感をどこかに抱いている人にも、本書が届いてほしいと思っている。そういう人たちが読みやすいように、できる限り、「病いの現場」で起こっている事例をあげながら各章を書いた。
それでも、「ナラティヴ」というテーマを扱うには、いくつもの領域にまたがる学問的な話を持ち出さないわけにはいかないため、少し難しく感じられるところもあるかもしれない。とりわけ第二章は、文学や言語学の領域での物語論の概略や、哲学の領域の存在論と呼ばれるものに触れていて、「病いの現場」にいる人たちには、あまり馴染みのない感じを与えるだろう。
しかし、これらの内容は、本書の内容を一貫したものとして構成するのに必要なものであり、いわば本書の「骨」のようなものである。読み飛ばしていただいてもよいのだが、そうすると、全体が骨のない姿に見えてしまうかもしれない。
残りの各章のうち、第一章は、本書の趣旨を短いエピソードで理解してもらおうとした導入で、第三章は、ここで述べてきた〈ケアする私〉〈ケアされる私〉という二者関係についての内容である。第四〜六章には、ナラティヴを用いたさまざまなケア実践(本書ではこれらをまとめて「ナラティヴ・アプローチ」と呼ぶ)が整理して収めてある。この整理のしかたも本書独自のもので、「解釈」「調停」「介入」という三つの種類のナラティヴ・アプローチとして分類してみた。そこには、有名なホワイトとエプストンの「ナラティヴ・セラピー」から、これまで「ナラティヴ・アプローチ」とは認識されてこなかった数多くのケア実践まで、多種多様なものが収められている。筆者が取り組んできた臨床倫理の内容や、最近話題の「オープンダイアローグ」、あるいは「人生紙芝居」のようなものも入っている。一つ一つがキラキラと輝いていて、個性のきわだつユニークな取り組みだが、これらを「ナラティヴ・アプローチ」という大きな風呂敷のなかに包んでみた。
このような内容に関心をもっていただけたなら、どうか本書を最後までお読みいただきたい。
「対話」「承認」「ケア」。
本書のメインタイトルになっている、これら三つの言葉の関係は、思いのほか複雑である。
人と人が対話をする。対話は、単なる会話でもなければ、情報交換でもない。それは、対等の立場で向かい合って話をすることであり、お互いの価値を認め合っていなければ成り立たない。つまり、お互いを承認し合っている関係でのみ、対話が成り立つのである。
これに対して、「ケア」という言葉は、いろいろな意味で使われる。本書では、病いを抱えている人へのケアを考えるのだが、それでもその意味はさまざまである。見知らぬ人が苦しそうにしているのを見て、「大丈夫ですか」と声をかけることもケアだろうし、その人が病院に運ばれて、高度な医療技術を駆使して行われる治療もまた、ケアである。
では、ケアをする人とされる人とのあいだで、対話は成り立っているのだろうか――。
おそらく、本書を手に取っている人の多くは、こう考えるだろう。
「患者と対話をすること(あるいは、患者を対等な存在として承認すること)は、ケア者にとって、とても大切なことだ」。
ところが、実際には、対話がなくても、ケアは行われている。
たとえば、病人が意識をなくしていて、会話さえできなくても、救急車が呼ばれ、手術が行われる。その間、ケアをする人とされる人が、対話をする機会はない。あるいは、もっとありふれた場面、たとえば医療機関を受診した患者が、治療を担当した医師と話をする場面を考えてみるとよい。医師は患者の症状を聞き、治療について説明をして、同意書への署名を求めるだろうが、本当の意味で「対話」と呼べるような話をすることは、めったにない。
医療従事者にとって、患者を自分と対等な存在として「承認」しているのは、ある意味で当然のことだろうし、時間をかけて会話をする余裕がないにしても、丁寧な態度や言葉遣いを心がけて、「対話」と呼べるようなコミュニケーションに近づく努力もしているだろう。
それでも、「対話」や「承認」は、「ケア」を行うための必須要件ではなく、「実現困難な理想」として、心のどこかに沈められているものかもしれない。
***
「ナラティヴ」。本書のサブタイトルに含まれているこの言葉は、「対話」「承認」「ケア」の関係に、新しい可能性を与える力をもっている。
それは、対話や承認それ自体がケアになるという可能性である。
本書では、この可能性を考えるために、「ナラティヴ」を手がかりに、ケアする人とされる人の二者関係を掘り下げていく。ナラティヴ(物語)について書かれた書物はたくさんあるが、本書がそれらの書物とどう違うのかと言えば、この「ケアする人とされる人の二者関係」を、最初から最後まで軸に据えていることである。
よく言われるように、人は物語をつくりながら生きている。もっと言えば、「自分という存在」の意味や、「いまこうして生きていること」の意味を、物語をつくることで理解し、納得しようとする。これが、「私のナラティヴ」とか「自己物語」と呼ばれるものである。ナラティヴについて書かれてきたものの大半は、この「私のナラティヴ」を軸にしている。ケアとの関わりで書かれた本ならば、「私のナラティヴ」とはもっぱら「患者のナラティヴ」であり、医療従事者のような「ケアする人」は、その「患者のナラティヴ」に耳を傾ける人、すなわち「聞き手」の役割をもたされている。
これに対して、「ケアする人」の側にもナラティヴがある、というのが、本書のスタンスになっている。ケアする人とされる人が完全に対等な人間だという前提に立つ、本来は次の二つを同時に考える必要がある、ということである。
ケアする私の前に、ケアされるあなたがいる。
ケアされる私の前に、ケアするあなたがいる。
こうして並べてみると、「私のナラティヴ」とは、ケアをする人とされる人が、各々に抱えもっているものだということに気づく。もっと言うと、「私のナラティヴ」は、たった一人でつくりだすものとは限らず、「あなた」の前でつくられるのかもしれない。あるいはまた、「私のナラティヴ」を、目の前にいる「あなた」に、語って聞かせるかどうかは、あなたとの関係次第だということにも気づくのではないだろうか。ケアされる私の前に、ケアするあなたがいる。
もちろん、ある人が病気になって、別の誰かがその人のケアをしているとき、二人のあいだには、入れ替えのできない絶対的な立場の違いがある。私たちは、病気の人に成り代わることはできない。そのことをわきまえながら、ケアする人とされる人の二者関係を考え、対話や承認がケアになる可能性を考えてみたい。
***
筆者のこうした構想を後押ししてくれたのが、実際に病気にかかった人たちの体験談であり、またケアの現場で誠実に働いている医療従事者たちの姿であり、さらには数多くの研究者や思想家たちの書いたものであった。筆者は本書を、プロフェッショナルなケア者である「保健医療」にたずさわる人と、家々の屋根の下で病者のケアをしている人に、ともに読んでほしいという気持ちで書いた。もちろん、病いを抱える人、いつかそうなる予感をどこかに抱いている人にも、本書が届いてほしいと思っている。そういう人たちが読みやすいように、できる限り、「病いの現場」で起こっている事例をあげながら各章を書いた。
それでも、「ナラティヴ」というテーマを扱うには、いくつもの領域にまたがる学問的な話を持ち出さないわけにはいかないため、少し難しく感じられるところもあるかもしれない。とりわけ第二章は、文学や言語学の領域での物語論の概略や、哲学の領域の存在論と呼ばれるものに触れていて、「病いの現場」にいる人たちには、あまり馴染みのない感じを与えるだろう。
しかし、これらの内容は、本書の内容を一貫したものとして構成するのに必要なものであり、いわば本書の「骨」のようなものである。読み飛ばしていただいてもよいのだが、そうすると、全体が骨のない姿に見えてしまうかもしれない。
残りの各章のうち、第一章は、本書の趣旨を短いエピソードで理解してもらおうとした導入で、第三章は、ここで述べてきた〈ケアする私〉〈ケアされる私〉という二者関係についての内容である。第四〜六章には、ナラティヴを用いたさまざまなケア実践(本書ではこれらをまとめて「ナラティヴ・アプローチ」と呼ぶ)が整理して収めてある。この整理のしかたも本書独自のもので、「解釈」「調停」「介入」という三つの種類のナラティヴ・アプローチとして分類してみた。そこには、有名なホワイトとエプストンの「ナラティヴ・セラピー」から、これまで「ナラティヴ・アプローチ」とは認識されてこなかった数多くのケア実践まで、多種多様なものが収められている。筆者が取り組んできた臨床倫理の内容や、最近話題の「オープンダイアローグ」、あるいは「人生紙芝居」のようなものも入っている。一つ一つがキラキラと輝いていて、個性のきわだつユニークな取り組みだが、これらを「ナラティヴ・アプローチ」という大きな風呂敷のなかに包んでみた。
このような内容に関心をもっていただけたなら、どうか本書を最後までお読みいただきたい。
目次
開く
はじめに
第1章 日々のケアにひそむナラティヴ
1 日々のケアにひそむナラティヴ・アプローチ
2 ナラティヴのブームと誤解
第2章 ナラティヴとは何か
1 言葉の話
2 文学と言語学の物語論
3 現実世界の物語論
4 ヘルスケアの物語論
第3章 ケアする私、ケアされる私
1 〈ケアする私〉の物語論
2 〈ケアされる私〉の物語論
3 ケアし、ケアされる〈私たち〉の物語論
第4章 他者のナラティヴを読む――解釈的ナラティヴ・アプローチ
1 医療制度の入口で
2 急性疾患の臨床現場で
3 慢性疾患の臨床現場で
4 日常臨床での解釈的ナラティヴ・アプローチ
5 ナラティヴの解釈が「ケア」になるとき
第5章 複数のナラティヴの前で――調停的ナラティヴ・アプローチ
1 ナラティヴの不調和
2 調停における実在論と構築論
3 ナラティヴの調停が「ケア」になるとき
第6章 他者のナラティヴに立ち入る――介入的ナラティヴ・アプローチ
1 心のケアと心の病い
2 〈私の物語〉への介入
終章 ナラティヴがケアになるとき
文献・註
あとがき
第1章 日々のケアにひそむナラティヴ
1 日々のケアにひそむナラティヴ・アプローチ
2 ナラティヴのブームと誤解
第2章 ナラティヴとは何か
1 言葉の話
2 文学と言語学の物語論
3 現実世界の物語論
4 ヘルスケアの物語論
第3章 ケアする私、ケアされる私
1 〈ケアする私〉の物語論
2 〈ケアされる私〉の物語論
3 ケアし、ケアされる〈私たち〉の物語論
第4章 他者のナラティヴを読む――解釈的ナラティヴ・アプローチ
1 医療制度の入口で
2 急性疾患の臨床現場で
3 慢性疾患の臨床現場で
4 日常臨床での解釈的ナラティヴ・アプローチ
5 ナラティヴの解釈が「ケア」になるとき
第5章 複数のナラティヴの前で――調停的ナラティヴ・アプローチ
1 ナラティヴの不調和
2 調停における実在論と構築論
3 ナラティヴの調停が「ケア」になるとき
第6章 他者のナラティヴに立ち入る――介入的ナラティヴ・アプローチ
1 心のケアと心の病い
2 〈私の物語〉への介入
終章 ナラティヴがケアになるとき
文献・註
あとがき
書評
開く
「ナラティヴ」から問う、看護とは?(雑誌『看護教育』より)
書評者: 吉田 みつ子 (日本赤十字看護大学看護学部)
本書は、これまで私のなかに浮かんでは消えていた「ナラティヴ」にまつわる2つの問いについて考える機会を与えてくれた。
1つは、ナラティヴ、ナラティヴ・アプローチという一種のムーブメントが、医療、ケアのあり方に何をもたらすのかという問いである。看護現象を説明するための理論的基盤を探し求めてきた看護学は、関連領域の理論を取り込んできた歴史がある。ゆえに、新しいムーブメントにはいつも敏感である。本書は、ナラティヴがヘルスケアにもたらすムーブメントの意味を、実在論と構築論という二つの疾病観に基づくヘルスケアを対比することによって浮かび上がらせる。医学論文で推奨されるエビデンスに基づく標準化された治療やケアを提供することを重要視する医療を「実在論的ヘルスケア」、ナラティヴ・アプローチに基づく疾病観と医療を「構築論的ヘルスケア」とし、これらを二項対立図式においたときに何が見えるのか議論されている。構築論的ヘルスケアにおいては、病気の原因は独立して存在しないし、唯一正しい説明もない。病気はそれを語る患者や、他の複数の人々の「文脈性をともなった語り」に基づいて構成されるととらえられる。よって、医療従事者が実在論的な医学的解釈枠組みに沿って都合よく話を聞こうとすることはナラティヴ・アプローチからは外れる。「ナラティヴ」の世界観においては、医療者がもつ知識やそれに基づく解釈も、患者の語りと同等に位置づけられる。つまり「ナラティヴ」は医療に携わる者が専門性のとらえ方を根本から転換することを求めている。
もう1つの問いは、患者の語りを聴くことが看護ケアとしてどのような意味をもつかである。著者は、他者の「ナラティヴ」を「解釈」「調停」「介入」することが「専門的な」ケアになりやすいのは、臨床心理士のような職業的枠組みや相談外来のような制度のなかである場合だと述べる。すると看護師が行っている患者の話を聴くという行為は、「特に専門性のあるものではなく、自分たちが実践知として身につけているもの、あるいは看護の世界でよく言われる『患者のニーズに応える』という、いつもどおりの実践の1つ」と見なされてしまうと疑問を投げかける。確かに、患者の身体をともなった「ナラティヴ」は、看護師を否応なしに巻き込み、逃げ出すこともとどまることもできない状況に追いやる。のっぴきならない状況だからこそ生まれる対話がある。意図的に行われるばかりではない、看護の「聴くこと」をどう説明すればよいだろうか。これは簡単には説明できそうにないので、本書から与えられた私への宿題としたい。
本書はナラティヴの学問的・実践的意味を問う学術書であり、看護とは何かを問いかけられた1冊でもあったように思う。
(『看護教育』2020年5月号掲載)
対話と承認がもたらす日常の「民主化」
書評者: 向谷地 生良 (浦河べてるの家/北海道医療大学)
私が,本書のタイトルになっている「ナラティヴ」と出合ったのは2002年ごろだったような気がする。当時,私は『べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章』(医学書院,2002)の執筆のために医学書院に足を運んでいたが,ちょうど同じころ,『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院,2002)を書かれた野口裕二氏(東京学芸大)とも,直接お会いする機会があった。その際に「べてるは,ナラティヴ・コミュニティー」という言葉を頂いたのが最初である。
◆ナラティヴは実現困難な理想なのか?
本書でも触れられているように,わが国でもM.ホワイトとD.エプストンの『物語としての家族』(金剛出版,1992)が紹介されて以来,次々に「ナラティヴ」本が刊行され,すでに静かなブームとなっていたが,不勉強な私は「ナラティヴ・コミュニティー」の真っただ中にいるという自覚もないままに「三度の飯よりミーティング」を理念として掲げ活動をしていた時期であった。
著者は,当時,あれほど注目され,現場を熱くした「ナラティヴ」の世界が,いまだに手ごたえと手掛かりを失い「実現困難な理想」(本文p.2より)の域を出ないのは,なぜかと問うことから論を立ち上げている。そして,「ナラティヴ」を「理想」の域から,より身近な私たちの日常の世界に引き戻し,定着させるために用いたキーワードが「対話と承認」である。「ナラティヴ・アプローチというものを,異なる階層にいる人たちが専門性の違いを超えて取り組める対話実践と位置づけ,それによって心のケアに対する社会的な障壁を少しでも低くする」という本書の意図は,当事者研究という対話実践を試みてきた私自身の問題意識とも重なるものである。
◆対話と承認による変革の予感
しかし,「対話」の持つ難しさは,それが単なる「話し合い」や「傾聴」ではなく,オープンダイアローグを創始したヤーコ・セイックラの言葉を借りるならば「人生そのものが対話」であり,「あまりにもシンプルなので,シンプルだと認識できないパラドックスがある」ことである。「ナラティヴ」の概念をまとったさまざまなアプローチが,「理想」の域を出ないのは,「人は,生まれた瞬間から対話がはじまる」という対話の持つ生命論的な可能性と特徴,さらにはそれを裏づける「いかに動くか」という目に見えるシステムの変革が重要であるという理解が不十分なまま,専門家による心理的,態度的技法という枠の中でしか扱えなかったからではないか,と私は考えている。
本書が提示する「対話と承認」の視点は,私たちの医療や福祉の現場ばかりではなく,日常そのものを「民主化する」提案であり,「ナラティヴ」というのは,より「ポリティカル」な目に見える変革の延長線上に立ち現れる現実であることを示唆しているように思える。
ケアとは弱さの共有である(雑誌『精神看護』より)
書評者: 斎藤 環 (筑波大学医学医療系 社会精神保健学・教授)
◆ヘルスケアにおける2つの立場
ケアにおけるナラティヴ・アプローチの意義とは何か。著者は、迷いつつ自問自答しながら思索を進めていくかのようだ。冒頭ではアリストテレスからバフチンに至る物語論の歴史が概観され、ケアを考える際の基本的な対立軸として、「実在論」と「構築論」が導入される。
前者は物事が人間の認識とは独立して存在すると考える立場であり、エビデンスなどに基づいて対応を考える。後者は物事が人間の認識によって存在するという考え方であり、これは言語とコミュニケーションが現実を構成するとする、いわゆる「社会構成主義」である。ヘルスケアは、このいずれかの立場に二分される。標準化された公平なケアという正解を目指す実在論的なものと、患者のナラティヴに注目し、公正性に基づいて、個別化されたケアを提供する構築論的なものと。
◆「ケアする側」の物語の存在
また、著者はケアの非対称性を前提としつつも、「ケアされる側」のみならず「ケアする側」の物語をも重視する。医療者は自らの立場の正当性を先述した実在論のもとで「正しさのリスト」にまとめようとする。しかし「ケアの倫理」を構築論的に考えるなら、ケアする側の正当性以上に、する側とされる側の相互作用をいかにもたらすか、という点を考慮しなければならない。この時ケアする側は、自身の脆弱性や限界を踏まえたうえで、ケアされる側の声を傾聴し、その主観世界を共感的に受け入れる必要がある。患者の人生史に敬意を払い、関心を向けること。そのための技法としてディグニティ・セラピーや人生紙芝居などが紹介される。なかでも著者が実践しているという、診療記録などから患者の一人称に立って文章を書いてもらうという課題は興味深い。
◆ケアを真に成り立たせる要件とは
それでは、なぜナラティヴがケアになるのか。著者はまず「複数のナラティヴを調停すること」がケア効果を持つ点に注目し、アルコール依存症者の自助グループ、内在化された他者への質問、リフレクティング・チーム、そして評者らもかかわってきたオープンダイアローグなどの手法が紹介される。さらに中核的な手法としてのナラティヴ・セラピーにおいて、「外在化」、物語の語り直し、人生における登場人物の再構成(リ・メンバリング)、「定義的儀式」などがどのような意義を持つかの説明がなされる。
ならば、こうしたことのケア効果は何によってもたらされるのか。本書の最終章で著者は次のようにまとめる。「ケアする側とされる側が、これから行おうとする対話実践を信頼して、それに取り組むという協働の姿勢」なのだ、と。ナラティヴ・アプローチは、双方の物語を交換するという形式で、この協働がなされやすい。しかしそれ以上に重要なのは、著者が唐突に記す以下のくだりだ。「ケア者の側の死の可能性が、病を抱える人へのケアを真に成り立たせる要件である」。評者はこの言葉にこそ、物語と脆弱性の共有がケアにつながる大きなヒントがあると考えている。
(『精神看護』2020年7月号掲載)
死なないロボットに自分の話を本気で語れるか ケアする側にナラティヴがあるとき,対話と承認のケアが動き出す(雑誌『看護研究』より)
書評者: 池田 喬 (明治大学文学部准教授)
対話や承認がケアになる。そういう言葉の不思議な力がある。ケア者が,被ケア者の人生に意味を与えているナラティヴに耳を傾けるとき,ただ聞いてくれる人がいるというだけで,医療的な治療・処置とは別の仕方で,ケアが起こっている。
ここまでは何度も語られてきたことだ。本誌の読者で「ナラティヴ・アプローチ」なんて聞いたことがないという人は稀だろう。しかし,こういうよくある語り方では対話的ケアが,当然のごとく,医療従事者の〈本業〉の外部に位置づけられている。現に,検査,診断,治療などの定式化された医療実践とは対照的に,言葉による対話的実践にはほとんど名前もなく,診療報酬の対象にもならない。ナラティヴによるケア力の背後には相当な経験やスキルがあるはずなのに,それらが特別なものと見なされていない。結果,よき聞き手たれといったスローガンでナラティヴ・アプローチは終わらせられがちだ。
第1章で著者はこうした状況認識に立ち,ナラティヴを聞くときに何が生じているのか,何が行なわれているのかへと視線を丁寧に向け直す。人の生活や人生史までを聞くという行為は,録音装置のように相手の声を漏らさず拾うことではないはずだ。ケア者は聞くと同時にすでに語り,聞き手としての態度を示し,相手のナラティヴに複雑な仕方で参与している。相手のナラティヴを読み解き理解しようとする「解釈」,対話自体が対立に陥ることなく成立するように工夫する「調停」,他者のナラティヴにあえて立ち入り,評価したり,修正や再考を促したりする「介入」。4〜6章では医療現場におけるナラティヴ・アプローチのこの三側面が分析される。
終章で,対話実践の前提としての「弱さの共有」という仮説が提示されるところが刺激的だ。非常に高度な医療用ロボットができ,態度もとても良い。このロボットが永久不滅の頑丈なロボットである場合と,故障してそのうち廃棄されるロボットであれば,どちらに話をしたくなるだろう。相手もいずれ死んでしまう存在だと思えないなら,話を聞いてもらっても空々しいと感じるのではないか。ケア者の側の死の可能性が,病を抱える人へのケアを真に成り立たせる要件であるように思われる,と著者は最後に言う。
この最終地点から,本書全体を見直したとき,一貫したメッセージが流れていることがわかる。ケア者が,ナラティヴ・アプローチを実践しようとするなら,(エビデンスに基づいた)正解を間違えずに教えようとするときとは違う倫理的誠実さが必要になる。この倫理的態度には,ケア者と被ケア者が同じ地平に立つ「協働の姿勢」が含まれる。「よく聞こう」では同じ地平に立っていない。ケア者はナラティヴを聞くだけで,自分の側にも生活と人生と固有なナラティヴがある,という発想がないからだ。本書は,この落とし穴から出て,弱さの共有へと進むことで,ナラティヴ・アプローチのさらなる可能性を開く1冊なのだ。
ナラティヴの世界は複雑で奥行きがある。その世界に対応できる豊かな言語は医療の言語からだけでは得られないだろう。2章,3章で,著者は,文学,言語学,哲学,倫理学,社会学などを縦横に行き来しながら,ナラティヴとは何かを何重にも解き明かす。ナラティヴ・アプローチを,医療従事者だけでなく,教師,親,バーテンダー,美容師なども含めて,心のケアにかかわる人々による対話的実践と位置づけようとする著者の目論見どおりに,ぜひ広く読まれてほしい。
(『看護研究』2020年7月号掲載)
書評者: 吉田 みつ子 (日本赤十字看護大学看護学部)
本書は、これまで私のなかに浮かんでは消えていた「ナラティヴ」にまつわる2つの問いについて考える機会を与えてくれた。
1つは、ナラティヴ、ナラティヴ・アプローチという一種のムーブメントが、医療、ケアのあり方に何をもたらすのかという問いである。看護現象を説明するための理論的基盤を探し求めてきた看護学は、関連領域の理論を取り込んできた歴史がある。ゆえに、新しいムーブメントにはいつも敏感である。本書は、ナラティヴがヘルスケアにもたらすムーブメントの意味を、実在論と構築論という二つの疾病観に基づくヘルスケアを対比することによって浮かび上がらせる。医学論文で推奨されるエビデンスに基づく標準化された治療やケアを提供することを重要視する医療を「実在論的ヘルスケア」、ナラティヴ・アプローチに基づく疾病観と医療を「構築論的ヘルスケア」とし、これらを二項対立図式においたときに何が見えるのか議論されている。構築論的ヘルスケアにおいては、病気の原因は独立して存在しないし、唯一正しい説明もない。病気はそれを語る患者や、他の複数の人々の「文脈性をともなった語り」に基づいて構成されるととらえられる。よって、医療従事者が実在論的な医学的解釈枠組みに沿って都合よく話を聞こうとすることはナラティヴ・アプローチからは外れる。「ナラティヴ」の世界観においては、医療者がもつ知識やそれに基づく解釈も、患者の語りと同等に位置づけられる。つまり「ナラティヴ」は医療に携わる者が専門性のとらえ方を根本から転換することを求めている。
もう1つの問いは、患者の語りを聴くことが看護ケアとしてどのような意味をもつかである。著者は、他者の「ナラティヴ」を「解釈」「調停」「介入」することが「専門的な」ケアになりやすいのは、臨床心理士のような職業的枠組みや相談外来のような制度のなかである場合だと述べる。すると看護師が行っている患者の話を聴くという行為は、「特に専門性のあるものではなく、自分たちが実践知として身につけているもの、あるいは看護の世界でよく言われる『患者のニーズに応える』という、いつもどおりの実践の1つ」と見なされてしまうと疑問を投げかける。確かに、患者の身体をともなった「ナラティヴ」は、看護師を否応なしに巻き込み、逃げ出すこともとどまることもできない状況に追いやる。のっぴきならない状況だからこそ生まれる対話がある。意図的に行われるばかりではない、看護の「聴くこと」をどう説明すればよいだろうか。これは簡単には説明できそうにないので、本書から与えられた私への宿題としたい。
本書はナラティヴの学問的・実践的意味を問う学術書であり、看護とは何かを問いかけられた1冊でもあったように思う。
(『看護教育』2020年5月号掲載)
対話と承認がもたらす日常の「民主化」
書評者: 向谷地 生良 (浦河べてるの家/北海道医療大学)
私が,本書のタイトルになっている「ナラティヴ」と出合ったのは2002年ごろだったような気がする。当時,私は『べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章』(医学書院,2002)の執筆のために医学書院に足を運んでいたが,ちょうど同じころ,『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院,2002)を書かれた野口裕二氏(東京学芸大)とも,直接お会いする機会があった。その際に「べてるは,ナラティヴ・コミュニティー」という言葉を頂いたのが最初である。
◆ナラティヴは実現困難な理想なのか?
本書でも触れられているように,わが国でもM.ホワイトとD.エプストンの『物語としての家族』(金剛出版,1992)が紹介されて以来,次々に「ナラティヴ」本が刊行され,すでに静かなブームとなっていたが,不勉強な私は「ナラティヴ・コミュニティー」の真っただ中にいるという自覚もないままに「三度の飯よりミーティング」を理念として掲げ活動をしていた時期であった。
著者は,当時,あれほど注目され,現場を熱くした「ナラティヴ」の世界が,いまだに手ごたえと手掛かりを失い「実現困難な理想」(本文p.2より)の域を出ないのは,なぜかと問うことから論を立ち上げている。そして,「ナラティヴ」を「理想」の域から,より身近な私たちの日常の世界に引き戻し,定着させるために用いたキーワードが「対話と承認」である。「ナラティヴ・アプローチというものを,異なる階層にいる人たちが専門性の違いを超えて取り組める対話実践と位置づけ,それによって心のケアに対する社会的な障壁を少しでも低くする」という本書の意図は,当事者研究という対話実践を試みてきた私自身の問題意識とも重なるものである。
◆対話と承認による変革の予感
しかし,「対話」の持つ難しさは,それが単なる「話し合い」や「傾聴」ではなく,オープンダイアローグを創始したヤーコ・セイックラの言葉を借りるならば「人生そのものが対話」であり,「あまりにもシンプルなので,シンプルだと認識できないパラドックスがある」ことである。「ナラティヴ」の概念をまとったさまざまなアプローチが,「理想」の域を出ないのは,「人は,生まれた瞬間から対話がはじまる」という対話の持つ生命論的な可能性と特徴,さらにはそれを裏づける「いかに動くか」という目に見えるシステムの変革が重要であるという理解が不十分なまま,専門家による心理的,態度的技法という枠の中でしか扱えなかったからではないか,と私は考えている。
本書が提示する「対話と承認」の視点は,私たちの医療や福祉の現場ばかりではなく,日常そのものを「民主化する」提案であり,「ナラティヴ」というのは,より「ポリティカル」な目に見える変革の延長線上に立ち現れる現実であることを示唆しているように思える。
ケアとは弱さの共有である(雑誌『精神看護』より)
書評者: 斎藤 環 (筑波大学医学医療系 社会精神保健学・教授)
◆ヘルスケアにおける2つの立場
ケアにおけるナラティヴ・アプローチの意義とは何か。著者は、迷いつつ自問自答しながら思索を進めていくかのようだ。冒頭ではアリストテレスからバフチンに至る物語論の歴史が概観され、ケアを考える際の基本的な対立軸として、「実在論」と「構築論」が導入される。
前者は物事が人間の認識とは独立して存在すると考える立場であり、エビデンスなどに基づいて対応を考える。後者は物事が人間の認識によって存在するという考え方であり、これは言語とコミュニケーションが現実を構成するとする、いわゆる「社会構成主義」である。ヘルスケアは、このいずれかの立場に二分される。標準化された公平なケアという正解を目指す実在論的なものと、患者のナラティヴに注目し、公正性に基づいて、個別化されたケアを提供する構築論的なものと。
◆「ケアする側」の物語の存在
また、著者はケアの非対称性を前提としつつも、「ケアされる側」のみならず「ケアする側」の物語をも重視する。医療者は自らの立場の正当性を先述した実在論のもとで「正しさのリスト」にまとめようとする。しかし「ケアの倫理」を構築論的に考えるなら、ケアする側の正当性以上に、する側とされる側の相互作用をいかにもたらすか、という点を考慮しなければならない。この時ケアする側は、自身の脆弱性や限界を踏まえたうえで、ケアされる側の声を傾聴し、その主観世界を共感的に受け入れる必要がある。患者の人生史に敬意を払い、関心を向けること。そのための技法としてディグニティ・セラピーや人生紙芝居などが紹介される。なかでも著者が実践しているという、診療記録などから患者の一人称に立って文章を書いてもらうという課題は興味深い。
◆ケアを真に成り立たせる要件とは
それでは、なぜナラティヴがケアになるのか。著者はまず「複数のナラティヴを調停すること」がケア効果を持つ点に注目し、アルコール依存症者の自助グループ、内在化された他者への質問、リフレクティング・チーム、そして評者らもかかわってきたオープンダイアローグなどの手法が紹介される。さらに中核的な手法としてのナラティヴ・セラピーにおいて、「外在化」、物語の語り直し、人生における登場人物の再構成(リ・メンバリング)、「定義的儀式」などがどのような意義を持つかの説明がなされる。
ならば、こうしたことのケア効果は何によってもたらされるのか。本書の最終章で著者は次のようにまとめる。「ケアする側とされる側が、これから行おうとする対話実践を信頼して、それに取り組むという協働の姿勢」なのだ、と。ナラティヴ・アプローチは、双方の物語を交換するという形式で、この協働がなされやすい。しかしそれ以上に重要なのは、著者が唐突に記す以下のくだりだ。「ケア者の側の死の可能性が、病を抱える人へのケアを真に成り立たせる要件である」。評者はこの言葉にこそ、物語と脆弱性の共有がケアにつながる大きなヒントがあると考えている。
(『精神看護』2020年7月号掲載)
死なないロボットに自分の話を本気で語れるか ケアする側にナラティヴがあるとき,対話と承認のケアが動き出す(雑誌『看護研究』より)
書評者: 池田 喬 (明治大学文学部准教授)
対話や承認がケアになる。そういう言葉の不思議な力がある。ケア者が,被ケア者の人生に意味を与えているナラティヴに耳を傾けるとき,ただ聞いてくれる人がいるというだけで,医療的な治療・処置とは別の仕方で,ケアが起こっている。
ここまでは何度も語られてきたことだ。本誌の読者で「ナラティヴ・アプローチ」なんて聞いたことがないという人は稀だろう。しかし,こういうよくある語り方では対話的ケアが,当然のごとく,医療従事者の〈本業〉の外部に位置づけられている。現に,検査,診断,治療などの定式化された医療実践とは対照的に,言葉による対話的実践にはほとんど名前もなく,診療報酬の対象にもならない。ナラティヴによるケア力の背後には相当な経験やスキルがあるはずなのに,それらが特別なものと見なされていない。結果,よき聞き手たれといったスローガンでナラティヴ・アプローチは終わらせられがちだ。
第1章で著者はこうした状況認識に立ち,ナラティヴを聞くときに何が生じているのか,何が行なわれているのかへと視線を丁寧に向け直す。人の生活や人生史までを聞くという行為は,録音装置のように相手の声を漏らさず拾うことではないはずだ。ケア者は聞くと同時にすでに語り,聞き手としての態度を示し,相手のナラティヴに複雑な仕方で参与している。相手のナラティヴを読み解き理解しようとする「解釈」,対話自体が対立に陥ることなく成立するように工夫する「調停」,他者のナラティヴにあえて立ち入り,評価したり,修正や再考を促したりする「介入」。4〜6章では医療現場におけるナラティヴ・アプローチのこの三側面が分析される。
終章で,対話実践の前提としての「弱さの共有」という仮説が提示されるところが刺激的だ。非常に高度な医療用ロボットができ,態度もとても良い。このロボットが永久不滅の頑丈なロボットである場合と,故障してそのうち廃棄されるロボットであれば,どちらに話をしたくなるだろう。相手もいずれ死んでしまう存在だと思えないなら,話を聞いてもらっても空々しいと感じるのではないか。ケア者の側の死の可能性が,病を抱える人へのケアを真に成り立たせる要件であるように思われる,と著者は最後に言う。
この最終地点から,本書全体を見直したとき,一貫したメッセージが流れていることがわかる。ケア者が,ナラティヴ・アプローチを実践しようとするなら,(エビデンスに基づいた)正解を間違えずに教えようとするときとは違う倫理的誠実さが必要になる。この倫理的態度には,ケア者と被ケア者が同じ地平に立つ「協働の姿勢」が含まれる。「よく聞こう」では同じ地平に立っていない。ケア者はナラティヴを聞くだけで,自分の側にも生活と人生と固有なナラティヴがある,という発想がないからだ。本書は,この落とし穴から出て,弱さの共有へと進むことで,ナラティヴ・アプローチのさらなる可能性を開く1冊なのだ。
ナラティヴの世界は複雑で奥行きがある。その世界に対応できる豊かな言語は医療の言語からだけでは得られないだろう。2章,3章で,著者は,文学,言語学,哲学,倫理学,社会学などを縦横に行き来しながら,ナラティヴとは何かを何重にも解き明かす。ナラティヴ・アプローチを,医療従事者だけでなく,教師,親,バーテンダー,美容師なども含めて,心のケアにかかわる人々による対話的実践と位置づけようとする著者の目論見どおりに,ぜひ広く読まれてほしい。
(『看護研究』2020年7月号掲載)
更新情報
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本書が日本医学哲学・倫理学会 学会賞を受賞しました(学会ウェブサイトへ)
2022.01.18