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≪シリーズ ケアをひらく≫

誤作動する脳


著:樋口 直美

  • 判型 A5
  • 頁 260
  • 発行 2020年03月
  • 定価 2,200円 (本体2,000円+税10%)
  • ISBN978-4-260-04206-2
幻は、幻が消えたときに、幻とわかる。――脳の中からの鮮やかな現場報告!
「時間という一本のロープにたくさんの写真がぶら下がっている。それをたぐり寄せて思い出をつかもうとしても、私にはそのロープがない」――たとえば〈記憶障害〉という医学用語にこのリアリティはありません。ケアの拠り所となるのは、体験した世界を正確に表現したこうした言葉ではないでしょうか。本書は、「レビー小体型認知症」と診断された女性が、幻視、幻臭、幻聴など五感の変調を抱えながら達成した圧倒的な当事者研究です。
*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。

序 文
はじめに

 道に倒れていた白髪の女性と数時間お話ししたことがあります。
「大丈夫よ。転んだだけだから」と救急車を呼ぶことを断るので、行き先や自宅を尋ねると、
「すぐ近くのはずよ。……どこだったかしら……すぐ近くのはずなんだけど」

 一緒に助け起こした通りがかりの若い女性...
はじめに

 道に倒れていた白髪の女性と数時間お話ししたことがあります。
「大丈夫よ。転んだだけだから」と救急車を呼ぶことを断るので、行き先や自宅を尋ねると、
「すぐ近くのはずよ。……どこだったかしら……すぐ近くのはずなんだけど」

 一緒に助け起こした通りがかりの若い女性が、すぐ警察に電話をしました。
 一人の警官が戸惑った顔で来て、しばらくあちこちと通信した結果、女性の家族と連絡がつきました。女性は以前にも警察に保護されているようでした。
 家族が迎えに来るまでの長いあいだ、道の脇に横並びに座り込んで二人でゆっくりとおしゃべりをしていました。

 知的な女性なので、若いころは何をされていたのかと尋ねると、
「私ね、東京オリンピックで通訳をしていたのよ」
 女性は誇らしそうに、当時(一九六四年)の様子を語ってくれました。

 最近になって、道がわからなくなったり、不思議なことが続いたそうです。
「なんだか私……、バカになってしまったみたい……」
 娘さんに言われて、一緒に病院に行ったことを淡々と語りました。
「……ご病気だと……わかったんですか?」
 女性は、口元だけで微笑みました。その横顔が、心に刺さりました。
「どんな……お気持ちだったんでしょう?」
 聞くべきではないと思いながら、聞かずにいられなくなったのは、その横顔に以前の自分を見たからです。
 女性は、私の目を見ました。
「あなたも、いつか私と同じ病気になったときに、わかるわ」

 彼女にはついに伝えませんでしたが、私も同じ世界の住民で、かつて暗闇の底にいた仲間でした。私は、レビー小体型認知症(レビー小体病の一つ)の診断を五〇歳で受けていました。
 ところが、当事者として内側から観察してみると、この病気や「認知症」の症状は、本やサイトに書かれている説明とはずいぶん違っていたのです(それは脳の病気や障害全般で、長く続いてきたことだろうと今は思います)。そんな自分を観察した日記『私の脳で起こったこと』(ブックマン社、二〇一五年)を上梓したことをきっかけに、思いがけない世界が開けました。
 五〇歳の終わりにレビー小体型認知症と診断されたときには、五年後の自分がどうなっているのか、まったく想像できませんでした。『私の脳で起こったこと』は、私が書く能力を失う前に社会に遺そうとした置き手紙でもありました。ところがどっこい、予想を裏切り、今日も私は書いています(病気の脳には、大変な作業ではあっても)。
 そう。今の私は、たびたび誤作動する自分の脳とのつきあい方に精通し、ポンコツの身体を熟知して巧みに操り、困りごとには工夫を積み重ね、病前とは違う「新型の私」として善戦しているのです。
***
 本書『誤作動する脳』は、医学書院のウェブマガジン「かんかん!」で二年半にわたって書いた同名の連載に大きく加筆したものです。
 そのあいだにも症状は変化しています。考えることも感じることも、時間とともに変わっていきますから、「今の私とは違うな」と感じる部分もあちこちにあります。でもそのときの私から、今、教えられることもあります。
 連載中、私の症状は、高次脳機能障害や発達障害の当事者の方々から「自分とよく似ている」とたびたび言われました。統合失調症などの脳の病気とも共通点があります。今まで別物として切り分けられ、一緒に語られることはなかったこれらの病気と障害ですが、同じ「脳機能障害」なのですから、原因が病気や事故であれ加齢であれ、似ていないほうが不自然かもしれません。

 私たちの脳の機能の障害は「見えない障害」なので、多種多様な困りごとも周囲から気づかれにくく、理解もされにくいものです。少々説明したくらいでは、私が困っていることは伝わりません。「そんな症状は初めて聞いた」と認知症専門医から言われて驚いたことも何度かあります。
 私自身、自分にどういう障害があるかは、“何かができなかったとき”に初めて気づくことです。そのたびに驚き、「これは一体どういう仕組み!?」と考え、文献など調べ……まぁ、おもしろがってもいます。できなくなって初めて、脳が年中無休かつ無意識にしてきた仕事に気づき、感心したり、感動したりするのです。
 みなさまにも、目の前の世界を違う形で認識する体験と不思議を一緒に楽しんでいただければ、とてもうれしく思います。

 では、いざ、私の脳の中へ!
目 次
はじめに

I ある日突然、世界は変わった
 今はないあの甘美な匂い
 夜目遠目も脳の内
 乗っ取られる耳
 五感という名のメッセージ
 見えない毒が忍び寄る
 私の家の座敷童子

II 幻視は幻視と気づけない
 幻視をVRで再現するまで
 消えた女性と巨大グモ
 幻視という孤独
 呪いが解かれ怪物が消えた!
 牢獄に差し込んだ光
 「言葉」という人災
 手放せない手綱

III 時間と空間にさまよう
 私が時間を見失っても
 指輪の埋まった砂漠を進め!
 美しい糸で編まれてゆく時間
 異界に迷い込むとき
 お出掛けは戦闘服で

IV 記憶という名のブラックボックス
 扉を閉めると存在が消える
 なぜできないのかわからない
 「できる」と「できない」を両手に抱えて

V あの手この手でどうにかなる
 「見えない障害」の困りごと
 目は脳の窓
 眠るという苦行
 自分の首を絞める手を放せ
 「いただきます」までの果てしない道のり
 料理が苦手な私たちへ

VI 「うつ病」治療を生き延びる
 地獄の扉は開かれた
 乗っ取られた体
 六年間の泥沼から抜け出す
 治療というジャングルの進み方

エピローグ

おわりに