精神医学再考
神経心理学の立場から

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これまで長く神経心理学領域の第一線で活躍してきた著者が、精神医学の立場から神経心理学の重要性について説く。DSMやICDなどの操作的診断基準の普及により、患者の病歴や生活史といった診断に重要な要素が軽視されつつある今日の精神医学に対し疑問を投げかけるとともに、精神疾患を本当に理解するとはどういうことか、また精神疾患の理解に神経心理学がどう寄与するのかを考察。
*「神経心理学コレクション」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ 神経心理学コレクション
大東 祥孝
シリーズ編集 山鳥 重 / 河村 満 / 池田 学
発行 2011年09月判型:A5頁:208
ISBN 978-4-260-01404-5
定価 3,740円 (本体3,400円+税)
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はじめに

 この書は,精神医学という臨床領域と神経心理学という学際領域に一定の関心のある方々で,精神疾患には統合失調症,躁うつ病,神経症などがあって,こうした精神疾患は「こころの病気」であると考えている方々,あるいはこれらは「脳の病気」であると考えている方々,さらには精神病のほうは多少とも「脳の病気」であるけれども,神経症は「こころの病気」であると考えている方々,すべてに対して,基本的なところで再考を促すことを主な目的として書かれている。筆者は,いろいろな事情から最近の精神医学そのものに対して「何か,おかしい,このままでは進み行かないのではないか」という懸念をかなり前から抱き続けてきた。何故かというと,まず精神症状の捉え方そのものにおいて,精神科医も一般の人々も,どうも妙なバイアスのかかった見方をしているのではないか,と思うからである。
 そうしたバイアスをもっとも端的に示しているのは,「こころの病気」「脳の病気」といった表現である。これは,「心因」とか「器質因」といったふうに比較的安易に語られることと無関係ではないと考えられるのだが,「こころの病気」といわれる場合には,「こころがそれ自体として病む」というふうに理解されていることが少なからずあるし,「脳の病気」と述べられる時には,「心の病気といわれるものは,すべて脳の病気」なのであるから,脳内の変化を捉えることこそが精神医学の課題であることになる。どちらの見方も,完全に間違っているとは思わないのだが,いずれもそれだけでは精神疾患を本当の意味で理解したことにはならないのだ,ということこそが重要であると思う。
 精神医学の200年を超える歴史のなかで,このことが繰り返し真剣に議論されてきたことを筆者はよく承知しているつもりであるが,ことの性質上,知らぬ間に,しばしばどちらかの立場に依拠して考えていることが,実際には非常に多いように思う。筆者は,精神疾患を「こころの病気か,脳の病気か」と問うことをいったん止めて(この問いは実はほとんど無意味なので),「相応の神経基盤を有する意識の病理」と捉え直すべきではないか,と考えている。もう少し具体的にいうと,精神病も神経症も,いずれも「意識の病的変化」であり,かつ同時に,ここでいう「意識」というのは,すべて相応の神経基盤を有するものであるということ,したがってその病的変化も,すべて何らかの神経基盤を有する,ということである。単なる「意識の病理」ではない。すべて「相応の神経基盤を有する」意識の病理である,ということである。これをつづめて言うと,精神疾患も精神症状も,すべて「すべからく相応の神経基盤を有する意識の病理である」ということになる。
 この構想それ自体は,器質・力動論(ネオ・ジャクソニズム)といわれる学説を提唱したアンリ・エー(1900-1977)という精神医学者の立場に概ね合致するものだが,彼が生きた前世紀には,まだ,ここでいう「意識の神経基盤」を論じるだけの科学的論拠はほとんど確立されていなかったと言ってよいであろう。今日でも,むろん,意識の神経基盤がしっかり解明されたとはとても言えない状況であることは率直にみとめなければならないが,最近の瞠目に値する脳科学の進展に伴って,ある程度,意識の神経心理学について語ることが可能になりつつあることは,否定しえない事実であると筆者は思っている。
 事実,意識についての神経心理学的研究は今や百花繚乱の観があるが,筆者はとりわけ,1973年に免疫学の領域でノーベル賞を受賞し,その後,免疫学と共通する部分の多い神経科学へと研究対象を移して,神経選択淘汰仮説を提起し,そこから独自の意識の発現仮説をうちたてた米国の科学者であるエーデルマン(Edelman)という人の学説の重要性を痛感している。ごく簡略化していうと,彼は次のように考えている。
1)意識はもともとあったものでは決してなく,進化の過程で,ある時期以降,「再入力」という相応の神経基盤をもとに我々にもたらされてきた機能であること
2)系統発生的にみて,最初は「想起された現在(remembered present)」としての「一次意識」が生まれ(これは人間以外の哺乳類においてもみとめられる),ついで言語機能の獲得に伴って,「高次の意識」(象徴的概念化を可能にし,未来という概念をも知ることになる)が人間に生じきたったこと
3)意識というのは,自然現象の枠外において特別に生じたものではなく,まさに自然現象の一つであるという認識を有することが重要であり,その結果として,意識は確実に自然科学の対象となるということ
 が,それである。

 筆者は,どこまで気付きうるかは別として,意識というのは「一次意識」と「高次の意識」とによって二重に構造化されていると考えると,説明が可能になる精神症状が多くみとめられると考えている。この二重の意識の病理に概ね対応する臨床精神医学の学説として,筆者は,さきほど述べたフランスの精神科医であるアンリ・エーの「器質・力動論」(ネオ・ジャクソニズム)を,あらためて見直してみることが重要であると思う。したがって,いわばエーデルマンとアンリ・エーとを架橋する試みがなされてしかるべきではないか,ということであり,これが本書の主なテーマである。
 少し話は変わるが,20世紀の後半になって「認知科学」という学際領域が台頭してきた。最近では,多くの学問領域に浸透してきて,隆盛を極めているといってもよい状況にある。ここでいう「認知」とは,いったい何を指しているのだろうか。少なくとも我々の内的過程に関わる部分(知覚,言語,注意,記憶,遂行機能,他者理解,社会性など)を扱っているところからすると,こうした「認知」は,上述した「意識の病理」における「意識」とどういう関係にあるのか,という大きな問いが浮上してくる。認知科学は,実は精神医学とも決して無縁ではなく,精神症状といわれる現象には,明らかに「認知の病理」として捉えることの可能な側面がある。したがって,認知(cognition)と意識(consciousness)をできるだけ明瞭に把握し,両者の相違を確認しておくことは,現状で精神医学を考え直すためにはおそらく不可欠のことではないかと考えられる。したがってこの問いが本書のもうひとつのテーマになる。
 脳に比較的明確な損傷があって,その時に生じるさまざまな心理学的・行動論的水準の臨床症状を研究する学問として,「神経心理学」とよばれる領域がある。19世紀半ばに科学として誕生した「神経心理学」は,失語症の研究から始まったのだが,20世紀末~今世紀初めあたりから,大きなパラダイム変化を遂げてきて,いまや他者理解や自己理解,あるいは社会性における病理をもあつかうようになってきた。ほとんどこれと並行するように,神経心理学は,いよいよ「意識」についてもかたりはじめている。これに対して「精神医学」のほうは,神経心理学の対象ともなってきた,明確な器質性脳損傷に基づく精神症状を含みつつ,現時点では必ずしもはっきりした器質性病変を確認しがたい精神症状を中心に,これらを系統的に把握することを目指しているといってよい。ともあれ,筆者の立場からすると,あらゆる精神症状というのはすべて,「相応の神経基盤を有する意識の病理」なのだから,神経心理学と精神医学とは,本来確実に共通の基盤を有する領域であるといってよいと思う。これは,神経心理学が「意識」を本格的に自らの研究対象とするようになってきたことと決して無関係ではないと思われる。
 以上のような流れのなかで精神医学を「再考」するにあたって,是非とも考えておかねばならないいくつかの,不可避といってよい問いがある。筆者はこれをとりあえず以下の五つに絞って考えてみたい。
1)第一は,精神科的診断というのを,あえていったん留保して,つまり今日では診断のグローバル・スタンダードのようになっている,いわゆるDSM-IVやICD-10のような操作的診断基準を含め,「診断」という視座からいったん距離をおいて,精神疾患を考え直してみたい,ということである。
2)第二は,これまで「心因性」と称されてきたことについてであるが,筆者は,このことの問題点,あえて言えばその「虚構性」について論じてみたいと思う。
3)第三は,従来から伝統的精神医学における疾患分類のスタンダードとなってきたといってよい,心因,外因,内因という区別の見直し,というかそういった区別の曖昧性を考慮して,いったんこれを取っ払い,精神疾患を連続的なスペクトラムとして捉えることの意義ないし必要性(これは単一精神病論として古くからさまざまに主張されてきたことである)を指摘したいと思う。これはアンリ・エーの精神疾患に対する見解にも通ずるものである。
4)第四は,精神医学の中心概念ないし基礎概念のように述べられることの少なくない,「自己」ないし「主体」についての再考である。筆者は,鈴木國文,内海健らの見解に同意し,その「虚焦点」ともいうべき特性を再確認しておこうと思う。
5)第五は,いわゆる「力動」と称されてきたことについての再考である。こころの動きというのはどのようにして生じてくるのか,本当のところは何が起こっているのか,捉え直してみたい,ということである。
 こうした「再考」をもとに,何例かの印象的な症例を通して,これまで「心因性」とされてきた全生活史健忘や身体表現性障害(従来はヒステリー性といわれてきた症状)の検討,妄想の神経心理学的発現機序仮説,アスペルガー障害など発達障害の神経心理学的理解,病態失認やソマトパラフレニアについての二重意識仮説に基づく説明などをとりあげ,ついで,精神疾患に関わる可逆性要因と不可逆性要因について検討し,その二要因のさまざまな交錯から精神疾患の病態を捉える考え方を呈示して,精神疾患を神経心理学の立場から理解しようとする新たな試みを例示してみたいと思う。
 本当に精神症状を理解するとはどういうことなのか,そのために広義の神経心理学はどのように寄与しうるのかということを中心に,できるだけわかりやすく書いてみたい。このことが,本書のタイトルを神経心理学の立場からの,精神医学の「再考」とする主な理由である。

 2011年8月吉日
 大東祥孝

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 はじめに

第1章 精神医学と神経心理学
 1.神経心理学の臨床的現状
 2.精神医学と神経心理学の交錯
第2章 疾患診断の留保と状態像把握の意義
 1.何故,疾患診断の留保なのか?
 2.主要な状態像
  1)不安(anxiety)状態
  2)強迫症(obsession, compulsion)状態
  3)離人症(depersonalization)状態
  4)解離(dissociation)状態
  5)抑うつ(depression)状態
  6)躁(mania)状態
  7)幻覚(hallucination)状態
  8)妄想(delusion)状態
  9)パラノイア(paranoia)状態
  10)錯乱(delirium, confusion)状態
  11)昏迷(stupor)状態
  12)認知症(dementia)状態
第3章 認知と意識
 1.認知とは何か?
 2.意識とは何か?
第4章 認知と意識の解離
 1.認知と意識の区別
 2.潜在認知
 3.病態失認
 4.脳梁離断
 5.解離の機序
第5章 意識とその病理-エーとエーデルマン
 1.エーの精神医学理論-器質・力動論
 2.エーデルマンの意識論
第6章 意識は二重に構造化されている
 1.意識の二重性
 2.意識の多面性
第7章 意識の神経相関領域
 1.NCC(意識の神経相関領域)
  1)前部帯状回(Anterior Cingulate Cortex;ACC)
  2)前部島皮質(Anterior Insular Cortex;AIC)
  3)後部内側皮質(Posterior Medial Cortex;PMC):
   後部帯状回(Posterior Cingulate Cortex;PCC)ないし
   内側頭頂葉皮質(Medial Parietal Cortex;MPC)=楔前部(Precuneus)
  4)前頭前野腹内側部(Ventro-Medial PreFrontal Cortex;VMPFC)
  5)前頭前野背外側部(DorsoLateral PreFrontal Cortex;DLPFC)
 2.意識の諸様態
第8章 「心因」「外因」「内因」の曖昧性-単一性精神病論の必要性
 1.心因,外因,内因の曖昧性
 2.単一性精神病論
第9章 「心因」という虚構について
 1.心因とは何か?
 2.心因の虚構性
第10章 「自己」という虚焦点について
 1.自己とは何か?
 2.自己という虚焦点
第11章 意識における「力動」について
 1.力動とは何か?
 2.フロイト,ジャネ,レジリアンス
第12章 臨床病態の諸相
 1.全生活史健忘-記憶と意識の病理:想起されない現在
  1)全生活史健忘とは?
  2)全生活史健忘の一例
  3)全生活史健忘の特徴
 2.失声と解離性健忘の事例-転換性障害と解離性健忘
 3.妄想知覚の神経心理学的発現機序仮説
 4.アスペルガー障害の神経心理学
  1)右半球機能障害説
  2)白質の伝達障害説
  3)扁桃体・辺縁系・傍辺縁系障害説
 5.病態失認の神経心理学
  1)アントン型病態失認
  2)ウェルニッケ失語における病態失認
  3)健忘症状群における病態失認
  4)社会行動障害に対する病態失認
  5)バビンスキー型病態失認
第13章 精神疾患における可逆性と不可逆性-二要因と二系列の交錯
 1.可逆性と不可逆性
 2.非定型精神病と統合失調症
 3.エーとエーデルマンの架橋
第14章 神経心理学からみた精神医学
 1.精神医学の基盤としての神経心理学
 2.「再考」のまとめと帰結

 あとがき
 文献
 索引

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現在の精神医学の必要に正当に応えた一冊
書評者: 鈴木 國文 (名大教授・精神神経科学)
 『精神医学再考』という大きなタイトルの下に書かれたこの著書は,手にとって読み始めるのに,ひょっとすると少し抵抗感を覚える一書かもしれない。誰しも,いま自分の立っている足場を見直すよう言われれば,二の足を踏むだろうし,大きなタイトルのもとに書かれた著書にがっかりさせられた経験を,誰もが一度や二度は持っているからである。が,しかし,現在,精神医学が立っている足場は,精神というものをとらえる方法としてはいかにも貧弱で,どうしたって「再考」せねばならぬものであるということは,多くの心ある精神科医の偽らざる思いであろう。この本は,そうした必要に極めてタイムリー,かつ正当に応えている。現在の精神医学に何が欠け,何が見えていないのかを,精緻な臨床経験と堅固な精神医学史的知見に照らして取り出した上で,本当の必要に応じてなされた「再考」であるだけに,この著書は,決して読む者をがっかりさせることがない。いま,精神医学の中でものを考えようとする者すべてにとって,必読の一書と言えよう。最初から最後まで,実にスリリングな知的体験である。

 著者は,二つの基本的姿勢を出発点としている。一つは精神の活動すべてを「脳という器官」の機能としてとらえる姿勢,もう一つは「認知の過程」と「意識の過程」とは異なるという認識である。この二点を前提に,まず,Henri Ey(1900-1977)の器質力動論とEdelman(1929-)の「意識の発現機序図式」が今日の精神医学に何を投げかけているかを示してみせる。そして,Eyの「意識の病」と「人格の病」という対とEdelmanの「一次意識」と「高次の意識」という対,この二つの対を架橋するという明確な構想の下に,今日の精神科臨床全体を捉える新たな枠組みの提示を試みている。「今日の精神臨床の全体」というのは,心因,外因,内因と言われてきた疾患のすべてを覆い,かつ自閉症圏の病態(社会性の病態)をも覆うような枠組みであるからである。挑戦的である。しかし,この本は,そうした挑戦的構想を,臨床的事実を押さえ精神医学史を踏まえ,精神を捉える学問的枠組みの変遷を一つ一つ踏み固めていくならばこのように考えるしかないではないかと,極めて自然な形で示してみせているのである。

 著者が,単に「認知過程」として精神を捉える陥穽に陥ることなく,「意識過程」,さらには「社会性」をも射程に入れるような枠組みとして神経心理学を深化し得た理由の一つには,著者が,神経心理学の二つの大きな方法である「賦活研究」と「損傷研究」のうち,主に損傷研究を自らのグラウンドとし,損傷研究をもってその知を築いてきたという点があるのではないかと私は考えている。賦活研究という実験的方法を専らとする研究者は,どうしても認知過程という枠組みに留まりがちである。臨床における損傷研究こそ,まさに意識の病理,社会性の病理の探求へとわれわれを導いてくれるものなのだろう。そして,精神医学の軸足は,そちらにこそあるべきだと,私は思っている。

 神経心理学をもって意識の病理,社会性の病理の探求の先駆けとするならば,人間における「理想」という問題,さらには「倫理」という問題まで射程に入れるような枠組みへとぜひこれを発展させていってほしいと思う。

 この本が沸き起こす議論が,実に楽しみである。
精神医学への果たし状?
書評者: 笠原 嘉 (名大名誉教授・精神医学/桜クリニック名誉院長)
 久しぶりに読みごたえのある書物に出会った,というのが読後の第一印象である。

 その上,神経心理学コレクションという名の知れたシリーズの一巻として出版された本書は,こともあろうに『精神医学再考』と銘打たれている。いってみれば神経(心理)学サイドから精神医学サイドへ投げられた質問状,いや果たし状かもしれない。事実,著者は後書きの中で「率直にいえばかなり挑発的に書き上げた」と告白している。精神科医としては一読しないわけにはいかない。

 神経心理学という名称は後期高齢者に入った私にはなつかしい。秋元波留夫の『失行症』(金原商店)は1935年と早い。大橋博司の大著『失語・失行・失認』(医学書院,1960),その増補版『臨床脳病理学』(医学書院,1965)は当時の日本の水準を示して燦〈さん〉然としていた。この学問は「脳に局在する精神心理症状」を選択的に扱う。大脳右半球の機能の特徴,左半球のそれとの違い,さらには前頭葉の底面(すなわち眼窩脳)に特徴的な心理症状など,そういう視点の研究だった。

 私事で恥ずかしいが,私も当時の精神科の雰囲気に染まって,故岡田幸男氏(元近畿大学精神科教授)に教えをこいながら,脳幹出血の人の身体図式障害について初歩論文を二つ書いたことを思い出す。他方で,統合失調症の精神療法研究に苦闘しながらだった。当時の精神病理学と神経心理学の距離はその程度のものだった。

 ところが,神経心理学の重心はいつの間にか神経内科学へ移った。多分,1965年前後に日本精神神経学会から日本神経学会が分離独立したことと関係している。そして今や(といってもほんのこの十年くらいだが)他者理解,自己理解,社会脳といった新しいコンセプトとともにパラダイム・シフトが起こり,医学の枠を超えて学際的になった。著者の言葉では社会認知神経心理学になった。

 「社会」という言葉が神経学の中に入るこの変化を私は好ましいものに思った。というのも,1965年以降の精神医学がいつのまにか生物学的精神医学と心理学社会学的精神医学の二大政党(?)に別れて,両者が互いを排除し合うかのような状態にあることを案じ,お互いの共通部分として「社会性」をキーワードにお互いが接近の努力を払えないものか,その仲介は神経心理学の役割ではないか,などと書いたことがあった(精神神経学雑誌96,1994)。「神経心理学者の失笑を買うことを覚悟していえば,失語,失行,失認ならぬ失社会性中枢という機能が脳のどこかに局在しないか。そこが機能回復すれば心的エネルギー水準が回復する。そういう中枢があるなら生物学派と心理学派を繋ぐことができる」。おくればせながら2004年に神庭重信先生の論文で「社会脳」という新語を発見したとき,私が感激したのはそういう経緯があったからである。

 自然科学的手法からともすれば離れがちになるわれわれにとって,神経学の陣中にあるとはいえ神経心理学は最も親しい旧友である。残念ながら今日の神経心理学会の中には精神病にまで臨床経験のある精神科医は少ないらしい。著者は数少ない一人で,しかも浜中淑彦,故田邉敬貴らとともに上記大橋の高弟である。巻末をみると精神科医の目に触れにくい雑誌にも多数の投稿がある。

 前置きが長くなったついでに,もう一言お許しあれ。

 本書をひもとけば,冒頭からアンリ・エー(Henri Ey,1900-1977)が出てくることに気付かれよう。この仏人を私も二十世紀において精神医学の思想を作った唯一の人,と評価する。一例を挙げると,彼の「器質・力動論」(オルガノダイナミズム)はわれわれの薬物療法重視の営為を説明してあまりある。軽いケースにさえ脳に働く抗精神病薬を躊躇なく使い,他方で小精神療法として患者-医師関係にも一定の注意を払いつつ,長い経過を追う。日本の健康保険下でないとできない営為である。

 その上,1974年の「意識野の解体」と「人格の解体」という分類は(本書のp63),DSM的公衆衛生学分類の時代にあっても,平行して考えるに値する臨床的実用性を持つ。私も本書に刺激されてエーの日本における再評価を願わずにはいられない。

 本書はとても読みやすいから,これ以上の解説は不要と思う。

 神経心理学にあまり詳しくない人なら第12章「臨床病態の諸相」から読まれるのをお勧めする。ここには平素あまり出会わない次のような病態が自家例を基にわかりやすく述べられている。1)全生活史健忘,2)失声(転換性障害)と解離性健忘,3)妄想知覚,4)アスペルガー障害,5)病態失認-身体図式と身体意識の区別など。どれも平均的な精神科医の神経学的教養を高めるのに役に立つ。

 エーを知りたい方は第13章がよいだろう。「意識の病理」と「人格の病理」の二系列の要を得た解説に加えて,わが国の非定型精神病(満田)概念,鳩谷竜のてんかんから統合失調症に至る内因性精神病全体の鳥観図(p164)もある。

 その前の第9章『「心因」という虚構について』を読み飛ばすわけにはいかない。ここは結構きつい精神医学批判だから。エーに心酔する私はほとんど同意できるが読者によってはどうだろう。ご自分の使う心因概念の再考を求めれることは確かだろう。

 第10章『「自己」という虚焦点について』はラカンを論じる精神病理学者二人の説を引用しながらの説明で,新味があってわかりやすい。著者の眼はこの辺りにも届いている。

 最後に本書への反論を,と考えていたが残念ながら紙数が尽きた。

 一つだけにしたい。かねてから神経学には長期経過への関心が精神医学に比して薄いと感じていたが,本書にも同様の印象を持った。お人好しにすぎるかと思いつつ,精神科医たちは病人に人格の成長とか成熟を期待する。神経心理学はこれをどう扱うのだろう。レジリアンス(回復力)といった既設の装置の発動だけで説明するしかないのか。脳から心への通路の逆,心から脳へという通路は全く考えられないのか。

 いずれにしろ,近来まれな好著の諸兄姉のご一読をお願いする。

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