アノミア
失名辞
失語症モデルの現在と治療の新地平

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名指す(=呼称)という行為は、言語の最も基本的な機能である。言いたい言葉を見つける時や言葉が出ない時、脳内で何が起こっているのだろうか。本書は、脳損傷により名指す行為が障害された“失名辞 anomia”という症状を考察し、失語症モデルの変遷と現在の認知モデルによる失名辞の理論的解釈から、失名辞の臨床的評価法の提案と治療(呼称セラピー)研究を論評している。
Matti Laine/Nadine Martin
佐藤 ひとみ
発行 2010年05月判型:A5頁:224
ISBN 978-4-260-00992-8
定価 4,400円 (本体4,000円+税)

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日本語版への序


「私たちは地中海で出会った……….あの島は何といったかしら?
    ………コルフ島,いや違うわ………ギリシャのクレタ島!」

 時々「言いたい単語が出てこない」という経験は,誰にでもある.その際の言葉が頭の中で群れをなすような感覚と,それに伴う苛立ちは,より重度で持続的な名前が出てこない状態,つまり脳損傷による単語検索の障害がどんなものかを,私たちに垣間見させてくれる.また,こうした経験は,単語を思い出すことが他の認知能力と同様,その性質から間違いを免れないだけでなく,さまざまな心理的動揺に影響されやすいことを教えてくれる.脳内の心的辞書の大きさと,単語を探し出す速さを考えれば,もっと頻繁に誤らないのは驚くべきことである.そして,健常者に起こる「言い間違い」や「言葉が喉まで出かかっている状態」から,失語症にみられる深刻な喚語困難word-finding difficultyまで,単語検索における問題は,正常か異常かに二分されるのではなく,連続的なものかもしれない.つまり,このような一見なんのつながりもない現象が,系統的にまとまった理論的用語によって理解することが可能かもしれないのである.これが,本書全体を通じて考えていくことの一つである.
 「言葉を見つけるword-finding」はやや一般的な言い方であるが,同じ表現がその病理学的ラベルである失名辞anomia(あるいはdysnomia)にも同様に当てはまる.私たちは,大きく異なる文脈において,脳内の心的辞書から言葉を拾い出す.これはたいてい,語彙,統語,言語の運用が複雑に絡み合う会話のなかで行われる.しかし,なかでも重要なのは,ものを名指す=呼称namingという行為,すなわち特定の語彙項目の検索である.この基本的言語行為は,単語検索とその障害についての研究の中で最も関心がもたれ,絵に描かれた物を呼称する実験などによって検討されてきた.したがって,本書の大部分は,こうした研究のレビューと,それに基づいて発展したさまざまな単語産生の心理言語学的モデルを論じることに充てられている.
 失名辞は,臨床で最もよくみられる言語症状である.事実上どの失語症患者にもみられ,認知症のような他のいくつかの神経学的疾患での重要な症状である.つまり,失名辞の詳細な分析により,根本的で臨床的にも実用的価値がある言語産生システムについて理解を深めることができる.ここ数十年,失名辞と,その神経学的対応関係についての研究は,生理学的診断方法と機能的評価方法の向上において意義ある発展をしてきた.前者は神経画像技術の向上に,後者は心理言語学的モデルの精緻化に基づいている.本書は,こうした刺激的な発展についても取り上げる.
 失名辞の基礎研究の成果が実践的に利用できるか否かは,セラピーに応用して最終的に検証される.近年,失名辞セラピー研究への関心が高まっている.多くの研究がさまざまなセラピー・アプローチを検討しており,理論的に動機づけられた失名辞セラピーに向けた第一歩を踏むことを可能にしている.同時に,この分野は急速に発展しているため,ここで取り上げた最新の論説は,すぐに時代遅れになる可能性もあることに留意されたい.
 本書の構成は,以下のとおりである.まず,健常者の単語検索についての心理言語学的研究と,現在有力な呼称に関する認知モデルを論説する(第1章).次に,失名辞の主要な種類と,それらが認知モデルを用いてどのように説明されるかを検討する(第2章).さらに,脳損傷部位のデータと,健常者と失名辞を呈する患者の機能的神経画像に基づき,呼称とその障害の神経学的関係について現在の知見を概観する(第3章).また,呼称の臨床的評価と,いくつかの一般的神経疾患における失名辞の役割について検討し(第4章),失名辞に対するセラピー・アプローチの概説と論評を行う(第5章).最後に本書を総括し,今後の研究について提言する(第6章).


日本語版への序

 単語を見つける能力が障害される「失名辞」は,言語機能障害の基本症状であり,人のコミュニケーション能力にかなりの衝撃を与えかねないため,臨床においてとりわけ重要性をもつ.失名辞という障害は,脳血管障害による失語症だけに限定されるものではなく,大脳の左半球機能の統合に影響する他の神経疾患(たとえば,頭部外傷や認知症)の多くで,ごく普通にみられる.失名辞の性質は患者により異なり,入念な診断法を必要とする.
 ここ数十年,単語産出の心的構造と,その障害に関する私たちの理解は急速に増大した.同時に,病巣によるアプローチと神経画像法を用いた研究努力は,心的辞書の認知的基盤と神経系の基盤に関する,より詳細な情報を提供してきた.こうした研究による知見は,単語を蓄えておくことと,それにアクセスすることが,従来想定されてきたよりも複雑であることを示唆している.なぜなら,それは単語の頻度,意味─統語的特徴,課題の要求水準などの要因によって変動するからである.この重要な知見が,実際の臨床に移され,単語検索障害の診断と治療へのより良いアプローチの発展を導くことが望まれている.これが,私たちが本書を著した理由である.
 最後に,私たちの本を翻訳することを企画し,実現に向けて力を尽くしてくださった佐藤ひとみ博士と医学書院に感謝したい.そして,日本の言語聴覚士,神経心理学者,神経学者,そして言語機能障害をもつ人々にかかわる他の臨床家や学生にとって,本書が価値あるものとなることを願っている.失名辞に対する理解を深め,この障害の診断と治療における進歩に寄与するために払われた私たちの努力の成果が,日本で出版されることを光栄に思う.

 Turku and Philadelphia, January 20, 2010
 Matti Laine and Nadine Martin

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日本語版への序

第1章 単語検索の認知モデル
第2章 失名辞の主な種類
第3章 呼称の神経基盤
第4章 失名辞の臨床的評価
第5章 単語検索障害に対するセラピー・アプローチ
第6章 結論と将来の方向

訳者あとがき
文献
文献著者索引
事項索引

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認知神経心理学的視座から「失名辞」を捉える
書評者: 大東 祥孝 (京大名誉教授/周行会湖南病院顧問)
 興味深い訳書が出版された。何が興味深いかというと,失語症の最も重要な中核症状である「失名辞」を真っ向から捉えて,それがどのようにして生じると考えられるのかを,古典論的視点から出発してごく最近の知見までを極めて包括的に,かつ一貫して「認知神経心理学的」視座から精緻な解説を試みている点,今ひとつは,認知モデルを利用した立場から導出されうる多様な「失名辞」のセラピーについて,ごく最近に至るまでの状況を指し示している点,にあるといってよい。

 精神医学とともに臨床神経心理学を自身の専門としてきた私にとっては,1970年代後半以降,失語症は,最も主要なテーマの一つであり続けてきた。したがって「失名辞」がどのような機序で生じるのか,どのような脳損傷と関連しているのかという問いは,いつもとても重要な課題であった。私が失語症の方を診るようになったころは,まだ認知神経心理学といった学問領域は明示的には確立されておらず,失名辞が生じうる脳損傷部位は少なくとも左半球のかなり広汎な領域に及ぶといった臨床的な認識が共有されていた時期であり,失名辞そのものの発現機序を解明しようとすれば,失名辞に伴っていわばジャクソニズム的な意味での陽性症状として生じてくるとみなしうる「錯語」(言い間違い)を分析解明することが,臨床的に実行可能な研究方法であると思われたので,私は「錯語の臨床・解剖学」を研究テーマの一つとすることにした。

 ここでいう陽性症状というのは,損傷を被って適切な言葉が出てこなくなるという意味での陰性症状に随伴して,損傷を免れた脳部位が総体として活動する結果,出現することが予測される症状のことである。今回,あらためて最近の研究状況を読ませていただき,私たちの世代の考えていたことが失名辞の認知神経心理学という方向から十分にアプローチが可能となっているという事情を確認することができ,失語症学における最近の動向の意義を再認識させていただくことになった。

 ところで私はこの本を通して,ずっと以前から抱いていた疑問を今一度,考え直してみることにした。それは,「認知神経心理学と臨床神経心理学は結局のところどのような関係にあるのだろうか」という問いである。認知科学でいうところの「認知」が何を意味するのかについては,別の理由があってここ数年ずっと考える機会があり,要するに「内的過程,心理過程をいったん外在化して,それを情報処理過程としてモデル化する」ことなのであろうと私は解釈している。

 一方,臨床の場では,脳損傷を被った患者さんを前にして,認知モデルのみを念頭に置いて診療に当たるわけにはいかないところがある。今現在,どんな精神状態にあるのか,いかなる意識状態にあるのかを常に推し量りながら対応していかなければならないし,病変の影響がどのように現れているのかを包括的に捉えておくことが必要となる。私は,「すべからく相応の神経基盤を有する意識の病理」を考究することが精神医学の基本課題であると考えているので,たとえ「失名辞」という症状を診る場合であっても,患者さんの「意識表現」のあり方に常に配慮することを欠かすわけにはいかないと考えている。要するに臨床神経心理学というのは,「認知」表現と同時に常に「意識」表現をも同時に射程において「診る」構えではないか,という気がする。

 神経心理学はとりわけ今世紀に入って,いよいよ意識表現をも自らの研究対象としはじめた。そうした状況を考慮するならば,とりわけ失語症のセラピーを行う場合には,脳損傷を基盤として現前している「認知」表現と「意識」表現とを包括的に捉えることがいっそう不可欠になってきているのではないかと思う。その際に,本書で示されているような精緻な「認知モデル」を念頭に置いて診療に当たることによって,いずれかに押し流されてしまうようなことが可及的に避けられるのではないかと思う。

 そういう意味で,「失名辞」の認知神経心理学の現状が紹介されている本書の存在意義はとても大きいと思う。よくお読みになれば気づくことだが,この書の対象は,実は決して「失名辞」にのみにとどまるものではなく,著者の「失語」全般に対する認知神経心理学的立脚点が指し示される結果となっている。「失名辞」というものが,いかに重要な症状であるかが,図らずも顕わになっていると言ってよいであろう。

 最後になったが,本書が,認知神経心理学の気鋭の研究者であった故伏見貴夫先生に捧げられていることを知って,私の胸は熱くなった。翻訳者である佐藤ひとみ氏の堅実で貴重なお仕事に心から感謝の意を表したい。
失語症の理論や,診療に必要な知識を整理できる良書
書評者: 長谷川 恒雄 (日本高次脳機能障害学会名誉会員)
 本書は有名な“Anomia: Theoretical and Clinical Aspects/Matti Laine and Nadine Martin, Psychology press. 2006.”の日本語版である。訳者はロンドン大学で言語障害関係の博士課程を修了された佐藤ひとみ博士である。本書の内容は,(1)単語検索の認知モデル,(2)失名辞の主な種類,(3)呼称の神経基盤,(4)失名辞の臨床的評価,(5)単語検索障害に対するセラピー・アプローチ,(6)結論と将来の方向,(7)訳者のあとがき,(8)文献から構成されている。

 多数の文献を詳細に検討した上で,失語症のモデルの変遷と現在の認知モデルによる失名辞分類,失名辞の理論的解釈,単語処理の検索過程による失名辞分類,失名辞の理論に基づく知見の失語症への応用,脳画像による言語領域の検討,失名辞の臨床的評価法と治療など多方面にわたって知識が整理され,詳細に述べられている。

 わが国ではこの領域の欧米の文献や著書に接する機会は,一部の学者や臨床家だけにしかない。本書は学者や研究者にとって失語症の理論や診療に必要な知識を整理する上で,また最近の脳科学の知識を加えて将来の研究開発を考える上で有用である。言語障害の診療に従事する医師や言語聴覚士にとっては近年の欧米の失名辞に対する研究状況や,評価,診断,治療に関する情報を知ることができ,日常の診療に役立つとともにわが国の失語症の研究や臨床の進歩・発展の上でも影響を及ぼすものと思われる。聴覚・言語関係や高次脳機能障害関係の養成校や大学,大学院の学生に対しては,優れた著書であるので参考書として推薦したい。

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