ナラティブ・メディスン
物語能力が医療を変える

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ナラティブ・メディスンとは、病いの物語を認識し、吸収し、解釈し、それに心動かされて行動する「物語能力」を用いて実践される医療である。内科医であるとともに、文学博士であり倫理学者でもあるリタ・シャロンが、文学と医学、プライマリ・ケア、物語論、医師患者関係の研究成果をもとに、物語能力の概念、理論背景、その教育法と実践法を豊富な臨床事例を通して解き明かす。ナラティブ・メディスンの原典、待望の完訳。
Rita Charon
斎藤 清二 / 岸本 寛史 / 宮田 靖志 / 山本 和利
発行 2011年08月判型:A5頁:400
ISBN 978-4-260-01333-8
定価 3,850円 (本体3,500円+税)

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日本語版への序

日本語版への序
 『Narrative Medicine: Honoring the Stories of Illnes 』日本語版の出版に,このようにして立ち会うことができることは,私にとってこの上ない喜びです。ナラティブ・メディスン(Narrative Medicine )が,私たちが行う患者へのケアを改善するとともに,病む人へのケアに携わる私たちすべてを深く結びつけてくれることは,長い間の私の夢でした。2000年に,米国ニューヨーク州のコロンビア大学で始まったこの活動は拡大を続け,多くの人々が,安全に分け隔てなく集まることのできる開拓地となりました。森を思い浮かべてみてください―生い茂る高木,セコイア,松,あるいは樫の木―そこには樹木の間に自然の空き地があります。樹木も空き地を形作る一部を担っています。おそらくシダや苔や松葉が地面のクッションとなり,森の小動物や小鳥たちがそこを通り抜け,散歩する人間たちが立ち止まり,集い,休憩し,お互いの,そして森自身とのつながりを,そこで感じることができるような,そんな空間を作っています。ナラティブ・メディスンが提供するのはそのような空間です。
 医師,看護師,ソーシャルワーカー,学生,そして患者たちが,病院に,診療所に,そして医学校に集まり,読み,書き,お互いが書いたものを共有します。そのような空間では,私たちは共にあり,安全に護られています。このような物語能力の教育は,有効な医療者のチームへと私たちを結集させる力となり,私たちが共に働くためのプロフェッショナリズムを増進し,ヘルスケアを成功させる基礎となる相互に尊敬し合い認め合う態度を引き出すのです。私たちが行った効果研究によれば,医療者と患者へのナラティブ・メディスンの教育は,チーム医療の結束力を増強し,チームメンバー間の透明性を高め,個々の患者についての臨床知識を増し,反省的な実践を促進するということがわかっています。物語能力の教育という,ほとんどお金のかからない比較的単純な実践は,私たちが患者を理解する力,私たち医療者がお互いに理解し合う力,そして私たちが自分自身を知る力を同時に高めるのです。このような物語的実践は,その予想外の副産物として,私たちの仕事への歓びを高め,今日の医療現場に頻繁に見られる燃え尽きや疲労を減少させ,癒しの実践のための大きな資源としての自己を利用可能にすると思われます。
 ナラティブ・メディスンにおける私たちの活動は,常に生成し続ける発見への旅です。もし日本の読者の方々と新しい交流を持つことができるならば,それはこの上もなく歓迎すべきことです。なぜならば私たちは,それによって健康と病いについての考え方における新しい観点の恩恵を受けることができるからです。私たちは日本の読者の方々の健康危機の経験,身体が患うことにおける危難についての知識,そして日本文化における癒しに関する歴史から得られた深い知恵を学ぶことになるでしょう。世界大戦の惨害から今年の大地震による自然災害に至るまで,日本の人々は幾多の試練を経験してきました。私たちは,ナラティブ・メディスンの方法論が,この全世界的な開拓地において共に集うことへの能力と決意に力を与え,私たちのプロフェッショナリズムへのコミットメントを深め,そして粘り強い癒しの行為を継続させることを信じています。

 2011年6月5日
 リタ・シャロン



 本書において,私が読者に紹介したいと思っているのは,私たちがナラティブ・メディスン(narrative medicine:物語医療学)と呼んでいる臨床実践の形式である。ナラティブ・メディスンは,ナラティブ・コンピテンス(narrative competence:物語能力)を通じて実践される医療と定義される。そしてこの能力は,病いの物語(stories of illness)を認識し,吸収し,解釈し,それに心動かされて行動するために必要とされる。私たちが人間として,時間とともに展開する特定の状況における個別の人間を理解し表現したいと思うとき,物語(narrative),すなわちストーリーを語ること(storytelling)へと自然に手が伸びる。なぜ物事が生じたのかを理解しようとするとき,出来事を時間的な秩序の中に置いて,始まり,中間,終わり,そして原因と結果を見定めるために,そのままでは混沌としている出来事にプロットを与えようとする。私たちは時を超えて,他の人々との関係を喜んで迎えるために,―神話,伝説,歴史,小説,聖書の中で―他の人々によって語られた物語を受け取り,継承してきた。私たちは,隠喩やその他の形式の修辞的な言語を通じて,出来事のあいだにつながりを探す。夢,日記,友情,結婚,心理療法の面談などにおいて,自分自身や他の人たちにストーリーを語ることで,私たちはゆっくりと,自分が何ものであるかを知るようになるだけでなく,自分自身になっていくのである。自分と他人を理解し,伝統とつながり,出来事の中に意味を見出し,関係性を誉め称え,他の人とのつながりを保持するといった,生きることの基本的側面は,物語のおかげで成就される。物語能力をもって行われる医療は,患者と病気をより深く理解し,知識や敬意を伝え,同僚たちと謙虚に協働し,病いという試練を受ける患者とその家族に寄り添うことができるだろう。このような能力は,もっと人間的で,倫理的で,おそらくもっと効果的なケアを導くものとなるだろう。
 ナラティブ・メディスンという領域は,人文学と医学,プライマリ・ケア医学,現代の物語論,効果的な医師患者関係の研究などの源泉が融合したところから徐々に浮かび上がってきたものである。「文学と医学」の臨床面での従兄弟で,「関係性中心のケア」の文学面での従姉妹でもあるナラティブ・メディスンは,患者が病いの中で耐えていること,病者へのケアの中で医療者自身が体験していることを理解するための実用的な知恵を医療専門家に提供する。少し前,私が「医療の物語的な半球(The narrative Hemisphere of Medicine)」と仮に名づけたタイトルの論文を書いていたとき,突然,物語的な要素を持たない医療の実践などほとんどないのだということに気づいた。なぜなら,臨床実践,教育,研究にはすべて,ストーリーを語ること,受け取ること,創造することが刻み込まれており,それを消すことはできないからである。ストーリーを読み,書き,語り,受け取るという理論と実践で特徴付けられる臨床を意味する,「ナラティブ・メディスン」という統一的な名称が私に浮かび上がってきた。その名前は私には魅力的なものに思えた。というのも,名前を示す語句として,それは観念ではなく「thing(事物,作品,仕事)」を示しており(ウィリアム・カルロス・ウィリアムズWilliam Carlos William[アメリカの詩人,医師]の「事物を離れて観念はない」という格言に適う),その基礎にある一連の概念的連関とともに行われるような実践を意味しているからである。この考えが,どのように実践を行うかについての理論を持たないその場しのぎのものであったり,理論的ではあるが効果のないものであったなら,私は心を動かされなかったであろう。もちろん実際には理論を欠くものでも効果のないものでもなかったので,ナラティブ・メディスンは,個々の臨床実践,臨床教育,医療専門職のスタンダード,国家政策,世界的健康問題などへと,すでに広く浸透している。
 ナラティブとメディスンに共通するものは何だろうか? ナラティブ・メディスンというこの領域は,双方にとって新しい情報となるような何をもたらすのだろうか? 臨床家,学生,研究者,作家,患者たちが,ナラティブ・メディスンの初期の仕事に対して示してくれた,情熱的で温かい反応に促されて,私たちは,医学,文学,そして病むこと(suffering)への有益なアプローチを開発しているのだと考えるようになった。さらに強く思うのは,この領域が臨床実践と物語理論にもたらすものは,それぞれの領域がまさに必要としているものだということである。一方で,医学,看護,ソーシャルワーク,その他の医療専門家は,患者のケアを個別化したり,病人に対する専門家の倫理的・個人的義務を理解したり,患者や臨床家間,社会との治療的な関係を醸成したりするために,実証された手段を必要とする。物語能力の強化は,本書の中で示唆するように,これらすべての努力の助けとなる。本書における私の仮説は,医学が今日失っている重要なもの―個別性,謙虚さ,説明責任,共感など―は,集中的な物語的訓練(narrative training)によって,少なくともある程度,供給し得るということである。一方で,文学研究と物語理論が探究している実践的な方法とは,概念的な知識を世界の中で手ごたえのある影響力へと変換することであり,医療との結びつきによってそれが可能となる。
 近年,患者にとっても医療専門職にとっても,ヘルスケアシステムの内部で多くのことが根本的に変化した。それゆえ,本書に含まれる習慣や概念は特に時宜にかなっている。私たちはみな,臨床実践の中に急激に営利的かつ官僚的な事柄が侵入してきていることを嘆いている。診療時間は急かされている。患者にとっては見ず知らずの人である「ホスピタリスト」[総合病院で入院患者のみを診る医師]が,患者をよく知っているはずの医師に代わって,ほとんどの急性疾患のケアにあたっている。医療専門職は,1980年代の市場原理の医療への侵入とともに始まった医療の商品化に直面して,ただ受け身的な役割しかとらず,現在も麻痺したまま困惑し続けている。私たちの国[米国]にはまだ国民健康保険の計画がなく,無保険者の数は増加している。貧富の差が拡大し,それとともに健康の格差も拡大している。米国のビジネス界と同様,健康関連産業の中には腐敗・欺瞞・営利的貪欲さが蔓延している。医療における決断が患者によってなされず,あるいは患者のためにさえなされず,株式保有者や会社役員によって,あるいは彼らのために,いかになされているかが徐々にはっきりと見えるようになってきた。とにかくこの国では,医療政策の問題は皮肉にも政治化され,イデオロギー的な力の突き上げの餌食となっている。世界的な健康が,良心も正義もない不公平によって傷つけられている。失ったものに気づきながら,より効果的なケアシステムの見通しについては何の考えも持っていないと感じることが多い。
 このような絶望的な展開を目の当たりにしてもなお,医療の中には印象的な活力と創造性が存在している。医療における質的改善の動きが,手ごたえのある形,測定できる形で感じられるようになってきている。コミュニケーションスキル,プロフェッショナリズム,文化に対応する能力,チーム構築,患者中心のケアといったことの理解と教育に関して,私たちは意義ある進歩を成し遂げつつある。患者は,健康を探し求めるなかで,新たな支持者を見出してきた。特にアドボカシー・グループやサポート・グループの中に,あるいは出版されたり電子的に「語られた」病いのストーリーの読者の中に,また影響が増大しつつある司法や政府の役割の中に新しい支持者を見出しつつある。ヘルスケアはより安全で効果的なものになるプロセスの途中にあるのかもしれないし,また平等や尊厳の問題は少なくとも認識され始めるようになってきている。
 病者へのケアの方法については,希望的な展開も生じている。医師,看護師,ソーシャルワーカーは,今日,新しい方法で臨床実践を行うようになってきた。ほんの数年前に日常的だったやり方と比べると大きな変化である。例えば,ナラティブ・ライフヒストリーを聴取することが,徐々に臨床実践の中に取り入れられてきているし,医師と看護師とセラピストが患者の苦難の証人(witness)となるという考えが,耳にされたり考慮されたりし始めている。私たち医療専門職は,信頼性を確立し,専門職の宣誓に忠実であるための方法を探究することが急務であることをいっそう強く感じている。私たちも患者も,臨床実践における時間は,お互いのことを知り合うために用いられる必要があること,8分間診療は言わなければならないことをすべて出し切るには不十分であること,健康を守り病いに対応するためには長期にわたる信頼関係が重要であることを知っている。以前にも増して,誰かの収益のために医療を行うことを拒むようになっており,あっちで数分,こっちで数分という時間を節約しても,十分な時間と尊厳と敬意に欠けた臨床関係への慢性的なダメージを埋め合わせることはできないことがわかってきた。関係性中心のケア,スピリチュアリティと医学,美徳とケアの倫理などのようなムーブメントは,ぼろぼろになった医師患者関係を改善し,医療のアウトカムを改善しようとする深い努力を示している。
 私は近年,国の内外のさまざまな医療者,患者のグループに数多く出合って敬服し,心を動かされてきた。彼らは,意味のある医療,患者とケア提供者の双方を考慮に入れた医療,それに目を留めるすべての人を満たし敬う医療を切望して奮起している。これらの動きに足りないいくつかの点を調整するものとして,これらの勃興しつつある力をサポートするものとして,そしてこうした広範囲の切望に対する応答として,ナラティブ・メディスンを提供することは,病気と医療の多彩な側面を統合し一貫性を持たせるために役立つ。すなわち,もし私たちが患者の望むものを提供することができたら,同時に医療専門家の求めるものも提供することになるだろう。さらに,苦痛を認め,安らぎを与え,病いのストーリーを敬うことになるだろう。
 しかしながら,物語能力を獲得することは簡単な目標ではない。すべての人たちはストーリーを聴き,語りながら成長するのであるが,ストーリーがどのように役立つかについて洗練された知識を得るにはかなりの努力と専心が欠かせない。物語理論を習得するのは容易なことではない。おそらくそれは,私たちが医療専門職としての能力を獲得する途上で吸収する科学以上に習得が難しいものであろう。精密読解(close reading:精読)のためには,多くのテクストを用いた実習,スキル,長期にわたる経験が必要になる。ナラティブ・メディスンの実践家を名乗るためには,時間をかけてなされる厳格な訓練を伴う学習が必要で,長期にわたる集中力を要する教育を通して,新しい概念,言語,実践を習得する必要がある。幸いにも,ナラティブの教育は創造性,自己知識,他者の理解,深い美的な喜びという副産物をももたらしてくれる。
 医療専門職のための物語的訓練を企画するとき,また臨床実践の中で物語的介入を展開するときには,学習者に求められるものがはっきりと認識されている必要がある。「患者のストーリーを聞くこと」は時にキャッチ・フレーズとなって,そうすることが既存のケアシステムに適用されるべき即効性の矯正薬であるかのように言われることがある。ナラティブ・メディスンが実践と教育に示唆することを詳しく述べることで,医療に物語能力を浸透させるという決意によってもたらされる根本的な挑戦がみえてくる。物語技法(narrative skills)を使う能力を身につけることは,実践の扉を開く。それは単に,これまでの習慣や日課を変えることとは違う。それは私たちが患者に,同僚に,学生に,そして自分自身に対して行っていることを変える。それが示唆するところは,患者と医療専門職間の関係,医療者の訓練,医療におけるプロフェッショナリズムと人間性のプログラム,物語的生命倫理(narrative bioethics)の実践に及ぶだけでなく,日常的な医療実践の構造的側面,ケアの経済学,医療の公平性をサポートする方法,米国の医療システムの安全性と有効性を改善するための緊急的課題にまで及ぶ。その影響の輪は医療における公正性と公平性という世界的な問題にまで広がる。私たちは,かつて診察室や病棟で専門職として行ってきたことを,今もそのまま行っているのではないということを徐々に認識してきている。臨床実践を変革する看護師,医師,ソーシャルワーカー,セラピストとして,自分たちの仕事に力を注いできたことに気づくようになったのだ。
 物語的訓練には一群の学習が含まれる。私たちは学生に,精読の基本的なスキルと訓練され熟慮された反省的記述(reflective writing)の基本的スキルを教える。学生に同僚が書いたものを尊重し,敬意を持って受け入れ批評するスキルを授ける。学生に偉大な文学作品を紹介し,小説,詩,ドラマと真正なつながりを持つためのツールを与える。文学研究や物語学派から得られる複雑な理論を提示する。病棟の回診,成人がん病棟のスタッフミーティング,AIDS診療所,訪問診療プログラムのようなさまざまな現場で,私たちは医療専門職と出会い,病気をめぐって繰り広げられるこれらの人生の中で起こるすべてのことを理解し,記述し,参加し,表現する。その結果私たちは,学生たちの,患者が語ることを聴く能力を深めるのである。
 この本の中では,いくつかの別々の仕事をすることを試みた。まず私は,ナラティブ・メディスンという新しい領域の入門書を書こうと努めた。一部の人にしかわからないようなことのないように,あるいは不必要に単純化しないように,文学研究,物語理論,総合内科学,生命倫理学から得られた,実践のための理論的基礎を詳述した。また医療というコンテクストにおいて,読むことと書くことを教える教師のためのマニュアルを書こうと努めた。同僚と私は,医療専門職と学生のための課程で,精読,反省的記述,証人の役割を担うこと(baring witness)などの物語技法を教える方法についての教訓をゆっくりと学び,その知識を蓄積してきている。これらの教訓は,多くの場面と多くの使用経験によって洗練されてきた。私はこのような考えや手順を,数え切れないほどのワークショップやカンファレンスで何年にもわたって紹介してきたが,教育実践を示すガイドラインを,ひとつの多少なりとも一貫した記述にまとめることは,自分にとっても意義あることであった。本書は多くの分野の熟達した経験をもつ読者に読まれると思う。そのような読者からみれば,あまりにも素朴に圧縮された章もあれば,見通しがきかないほど曖昧な章もあると思われるかもしれない。その点についてはご寛恕願いたい。
 この本の中では,いくつかの分類法を提示している―患者と医療専門職間の4つの分断,医療の5つの物語的特徴,私の精密読解練習帳(精読ドリル)の5つの要素などである。これらの分類が互いに会話し合い,支持し合うことが明らかになればと願っている―広く言えば,医療の物語的な特徴は,医療に見出される分断に「答える」こと,精読ドリルを使うことで,医療の5つの物語的な特徴に注意が向くようになることを願っている。これらの分類は,配慮(attention),表現(representation),参入(affiliation)の3つに極まり,これらを私はナラティブ・メディスンの3つのムーブメントと呼ぶようになった。
 本書の章のあちこちで,いくつかの考えとテーマに立ち戻る。私が詩人だったなら,これらの繰り返される概念やイメージが頭に浮かんでくるのと同時に示すことができるのだろうが,そうはいかない。読者に対しては,それらが同時に立ち現われるようにしたい。順次,連続的にではなく,本書の中で表現される思考と行為が,常に相互に関連して同時に読者に知らされることを望んでいる。病者と健康な者とのあいだにある分断に気づくことは,患者と家族の病いの体験について思い巡らせるときに必要である。時間性と倫理性といった医療の物語的特徴は,それぞれが別々に病いやケアに影響するのではなく,実践においては,すべてが同時に理解されなければならない。患者が自分のことや自分の身体のことをどのように語るかについての理解を育むことは,病者をケアする意欲と能力という点において要となる,忍耐を必要とする努力のように思われる。精読のスキルは専門家の日常において,あらゆる領域で同時に適用される―カルテを読むこと,患者の話を聴くこと,学生の指導をすること,ケアについて自分自身の振り返りを記述し理解することなどすべてが精読のスキルを必要とする。病者とその身体に対する私たちの義務は,配慮と表現の能力を開発することによって,明らかにされ満たされる。私たちが次に参入と関係づくりの方向に向かうとき,物語能力がもたらす最も価値ある副産物は,苦痛の証人となることを可能にすることであり,まさにその行為によって,苦痛を和らげることも可能となることを知るのである。
 この本を書く正当な理由とは,と自問したとき,それが私の書類棚にあるすべての物語に由来していることに気づいた。それらは医学生,医師,患者,看護師,ソーシャルワーカーらが何年にもわたって書いたものである。私は桜の木で作られた書き物机に向かって座り,霊媒,書記となって,これらの声が病いと病者のケアの努力を語るのを書き写そうとした。臨床的な出会いにおける高齢者差別に関する言語学的研究プロジェクト,パラレル・チャート(parallel chart)を開発した時の初期の努力,友人や見ず知らずの人が私に送ってくれた臨床実践からのストーリー,医療面接カリキュラムにおける医学生の最終試験,父の個人診療のカルテ―これらすべてのテクストが,長年丹念に保存してきた私の記録の中から,時に不気味に私に語りかけてきた。これらのテクストが,私にインスピレーションを吹き込み,なぜこれが問題なのか,これは何を言っているのか,これが病気であることや病者のケアをどのように変化させるのかについて,何度も何度も考えさせる刺激となった。
 私は,個人が同定できるすべての書き手―学生,医療専門職,遠くの同僚―から,彼らのテクストを再現することの許可を得たが,総じてこれを匿名で出版することを決めた。というのも,印刷に回すために選ぶとしても,それがあまりに多くの人を「表している」というのがひとつの理由である。守秘のために患者の記述が変更されたときには本文中に明記した。出版の承諾を得るために患者について書いたものをみてもらえない場合には,患者がわからないよう,本人にさえわからないようにテクストの細部を変更した。何人かの患者の文章をひとつの記述の中に組み入れたことも何度かある(各章末の注に示した)。これは常に守秘のために行われた。
 本書を書くことは,私自身の一般内科医としての実践にも強い影響を与えた。取り組むべきこと,日課の改善,身体と健康についての患者の体験への新たな好奇心,といったものが与えられたからである。私はこのところ,別のやり方で患者に権限を譲っている。私は自分を,新たな,臨床的に有用な方法で,患者に提供していると思う。以前にも増して患者についてたくさんのことを書くようになった。そして書くことによって,「自分が知っていたことを知らなかった物事」を知ることになる,という真実を繰り返し確認してきた。患者について書いたことを彼らに見てもらうのを日課として,今は日常ケアの中で患者から書いてもらうことを公然と促している。もっと述べることもできるが,これらの教訓の証跡はすべて各章自体の中にあるから,詳しい前置きは必要ないと思う。
 私たちが患者や同僚とともにしていることを考えると,これらの出会いがなんと複雑で不安に満ち,しかしまた希望に満ちているものか,と思う。言わなければならないことはたくさんあるとはいえ,苦痛は他者によってきちんと認知されず,気まぐれに暗示されるにすぎないということが時々ある。まるで医師と患者が別々の惑星にいて,迷光とストレンジ物質[陽子・中性子・ストレンジクォークからなる原子]の痕跡でのみ互いの軌跡に気づくかのようなこともある。「私たちは,時に物事が発するかすかな光をとらえる」とウィリアム・カルロス・ウィリアムズは書いている,「それは私たちに,存在とは私たちをかすめて過ぎ去っていってしまうもの,非常に稀なこと,ちょうど微笑みを浮かべた小柄なイタリア人女性が私たちを置き去りにして過ぎ去ったときのようなものであることを示している。しばし,目がくらむ。それはなんだったのか,と」(1)。私たちは,互いに他人の秘密を貫こうとして,貴重であるが不可解な賞賛の対象のようにお互いを感じるかもしれない。他者から発せられているものすべてを,発している者自身が知らないことさえ,取り入れようとして出会うことは,何と可能性に富む驚きであることか。三葉虫はその石のような背中にどんな真実が置かれているかを知っているだろうか。プレアデス星団(すばる)は自分が地球に何を発信しているか理解しているだろうか。エジプト王とともに埋葬された花瓶にその身体が描かれている踊り手は,そのしぐさが生み出すことを理解しているだろうか。私たちは,他人の神秘,その豊富さ,その他者性に沈黙させられ,宙ぶらりんの状態で,待ちながら,互いの存在の中で位置を占めているのである。
 私たちはこのような意味を満載した積み荷の面前におり,今やそれを見ることができるという感謝の念に満たされるだけでなく,その意味が理解されるように手助けしてきたという満足感で満たされる。私たちは身体について何かを知っているということで,他者に近づく資格が与えられる。そしてそれによって,他者の自己,そして内省を通じて私たち自身の自己に近づくことが許されるのである。本書を駆け巡るイメージ―私のアンフォラ[古代ギリシア・ローマの首が細長く底のとがった両取っ手つきの壺],ジェイムズの偉大なる中空の配慮の盃,ジョイスのアイルランド全体を一様に覆う雪,形式によって築かれる建築物,配慮と表現のらせんが参入に極まること―これらすべてのイメージは,患者であれ,同僚であれ,学生であれ,私たちが他者とともに存在しているということを示している。
 あるがん専門看護師は,日々の生活の儚さについて自分がかつて書いたことを読むかもしれない。38歳の新患は,はにかみながら,週に20マイル[約32km]走っているという誇りについて語るかもしれない。医学生は疾患と治療の不公平性に怒りをあらわにするかもしれない。家族たちは,広範囲に転移した卵巣がんのために死が迫った母のベッドサイドに集まるかもしれない。私たちは孤独であると同時に誰かとともにあり,見知らぬ者同士でありながら似たもの同士でもある。他者の現前は,神秘であると同時に,同じ存在(identity)でもある。私たちは不明瞭さの外にいると同時に,他者という存在の親密さのうちにいる。太陽系の惑星のように,私たちは,全く異なる生命を宿しつつ,共通の太陽の周りを回転し温められる。最後に,私たちは最善を尽くしながら他者とともに生き,医療専門職として,患者が発することを受け取ろうとし,患者として,ほとんど言葉にならない考えや感情,恐れを伝えようと努める。まさに,私たちは循環する物体であり,共通の職務の重力によって,お互いに引きつけられつつ,一定の軌道を保つ。
 私はこの体験を読者と共有し,これらの考えと実践の展開に参加を促したい。このナラティブ・メディスンの枠組みが新たな共同を結集することを願う―人文科学からも,すべての医療専門職からも,非専門家からも,ビジネス界からも,政治の世界からも参加を促したい。そして,新たな関係を結び,新たな目で,病気であるとはどのような意味があるのか,他人を元気になるよう手助けすることにはどのような意味があるのかということを見てほしい。ヘンリー・ジェイムズHenry Jamesはどこかで,共同とは結局のところ尽きることがないと言っており,ロデリック・ハドソンRoderick Hudsonは序文の中で「本当に,どこでも,関係とはとどまることを知らない」(2)と言っている。癒しに最善を尽くすときの,私たちの尽きることのない共同,私たちの関係の普遍性,私たちの参入,私たちが共有する義務と贈り物とに祝杯をあげようではないか。

 注

  1.William Carlos Williams. The Autobiography of William Carlos Williams, 360
  2.Henry James. New York Edition, I: vii.


 Rita Charon

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第I部 ナラティブ・メディスンとはなにか
 第1章 ナラティブ・メディスンはどこから生まれてきたか?
 第2章 医療の分断に橋を架ける
 第3章 医療の物語的特徴

第II部 病いのナラティブ
 第4章 人生を語る
 第5章 患者,身体,自己

第III部 物語能力を開発する
 第6章 精密読解
 第7章 配慮,表現,そして参入
 第8章 パラレル・チャート

第IV部 ナラティブ・メディスンの副産物
 第9章 証人の役割を担う
 第10章 ナラティブ・メディスンの生命倫理
 第11章 医療における物語的展望(ナラティブ・ビジョン)

 文献一覧
 主な邦訳文献
 訳者あとがき
 索引

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新たな医療の可能性を示すナラティブ・メディスンの解説書
書評者: 松村 真司 (松村医院院長)
 中学・高校時代,通学時間が長かったこともあって往復の電車では本をよく読んだ。圧倒的に多かったのは当時人気のSF短編集や映画のノベライズ小説であった。国語教師でもあった高校の担任が,家庭訪問に来たときにそんな本ばかりがずらりと並んでいる私の本棚を一瞥して,そして言った。「こんな本は本ではない」。

 それから数十年もたった今も,私はその言葉に決して同意はしない。なぜならば,彼が本ではない,と告げたさまざまなテクストたちはすべからく私を揺さぶり,その後の私と私の世界を形成したからである。読書という行為は,文字を介して,時間や空間,そして世界のすべての約束事さえも超えて他者の紡いだ物語に触れることであり,自己は形成されていくのである。

 臨床は,病や死といった生活の中で比較的大きな部分を占める事象を主たる対象にしている。もちろん私たち医師の行為は医学という物語の枠の中で規定されている。そして,その制約は自分を苦しめ,時に患者を,そして世界をも苦しめていく。日々私たちが臨床で遭遇する苦しみ,悲しみは,このような医学という固有の物語による身体的・精神的制約から生じているのではないか,と感じることさえある。世界には,医学という物語から離れた無数の物語が存在し,それらは密に交錯している。そして医学もまた,そういった自己から他者へ,他者から自己の果てしない交錯の上に成り立っている。

 本書は,一般内科医師かつ文学・倫理学博士でもある,コロンビア大学リタ・シャロン氏によって書かれたナラティブ・メディスンの解説書である。ナラティブ・メディスンとは,ナラティブ・コンピテンス(物語能力)を通じて実践される医療であると定義され,本書はナラティブ・メディスンとは何か,から始まり,ナラティブ・コンピテンスの涵養のための精密読解(close reading)やパラレル・チャートの用い方などの訓練法が,実践例とともに解説されている。そして,ナラティブ・メディスンがこれからの医療,特に生命倫理の枠組みや社会正義の実現などに向けてどのように活用されていくかの展望が記され,新たな医療の可能性を示している。

 本書の邦訳版の序文にシャロン氏自らが寄せているように,これらの物語たちの中に,先の戦争や震災の試練を経た東洋の小国で暮らす私たちの物語たちが加われば,世界はさらにその深みを増していくに違いない。
「物語能力」の重要さを説く,この領域への最良の導きの書
書評者: 江口 重幸 (東京武蔵野病院副院長・精神医学)
 臨床の前線で日々働く医療者にとって,医療と文学を結びつける発想や,病いや苦悩は語りであるとする言説などは,およそ悠長で傍観者的見解と思われるかもしれない。臨床場面は死や不慮の事故などのハードな現実と皮接しているからだ。実際そのような感想を面と向かって言われたことも何度かある。しかし,例えば狭義の医学的な枠組みから外れた慢性的病いを抱えて毎日やりくりしながら生活する患者や家族,あるいは彼らを支えケアする人たちを考えていただきたい。彼らが科学的な根拠のみを「糧」にしているのではないのは明らかであろう。病いを抱えながら,苦悩や生きにくさを日々の生きる力に変換していく根源の部分で「物語」が大きな役割を果たしているのである。

 患者や家族の経験にさらに近づくために,こうした「語り」に注目したアプローチが医療やケア領域に本格的に現れるようになったのは,1980年代からである。本書はその最前線からもたらされた最良の贈り物である。

 医師でもあり文学者でもある著者のリタ・シャロンは,さまざまな文学作品や人文科学の概念を駆使しながら「物語能力(narrative competence)」の重要さを説く。それは医療者が患者に適切に説明したり,事例検討の場で上手にプレゼンしたりする能力のことではない。病いや苦しみや医療にはそれらがストーリー化されているという本性があり,その部分にどれだけ注意を払い,正確に把握し,具体的に対処できるかという能力のことである。それに向けて著者が長年心を砕き,文学作品や「パラレルチャート」を含む多様な臨床教材を使用しながら医学教育の場でも教えてきた成果のすべてが,惜しげもなくここに示されている。

 物語=語り(narrative)は分断された医療を架橋する(第2章)。そして医療は物語的特徴であふれていて(第3章),医療者-患者関係を良好にするのみならず,苦悩の証人となり(第9章)その根底の倫理的な部分(第10章)にも深くかかわってくるのである。

 今日の医療の現状は,患者を中心とするものからはるかに遠く,徹底した生物医学に貧しい医療制度が絡み付いたものであるという指摘が常套句のごとくなされてきた。「患者や家族の声に耳を傾けなさい」という勧めも後を絶たない。しかし,こうした部分の根幹を変える力は,善意に満ちた心掛けや名人芸的な対話技術というより,それを支える方法論によってもたらされるものなのではないか。それが著者の言う「物語能力」,つまり物語=語りを適切に扱うことができる理論的=実践的能力なのであろう。

 原著は2006年に刊行された。それから5年を数えるが,本書以上の関連書が現れる予兆はいまのところない。本書は医学的物語論のいわばK点を刻むものなのである。原著より小ぶりな体裁ながら,美しい装丁をそのまま生かし,しかも詳細な文献を含む全訳が盛り込まれている。邦訳も日本においてnarrative-based medicineを長らく牽引してきたベストの翻訳陣によって担われている。

 本書は医療やケアの重みや広がり,それにかかわる者の困難のみならず勇気や喜びをしっかりとわれわれに示してくれる,この領域への最良の導きの書である。

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