気持ちのいい看護

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患者さんが気持ちいいと、看護婦も気持ちいい…か?「これまであえて避けてきた部分に踏み込んで、看護について言語化したい」という著者の意欲作。<看護を語る>ブームへの違和感を語り、看護婦はなぜ尊大に見えるのかを考察し、専門性志向の底の浅さを喝破する。「自分のためにも<看護することの意味>を探りたかった」―今度の宮子はちょっと違うぞ。夜勤明けの頭で考えた「アケのケア論」だー!

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
宮子 あずさ
発行 2000年09月判型:A5頁:220
ISBN 978-4-260-33088-6
定価 2,310円 (本体2,100円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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ちょっと長いまえがき
I ケアの語りにくさを語る意味
 1 『ライフサポート』への違和感から
 2 働くほどわからなくなる看護の価値
 3 看護を語らせない圧力
 4 趣味としてのケア、義務としてのケア
 5 私流「ケア論」の読み方
 6 「ケアする自分」にとっての書くこと
II ケアを仕事とすることの困難
 1 看護/それは自責との闘い
 2 なぜ話を聞くのがつらいか
 3 ケアされながらケアする
 4 デフォルメ化された専門性
 5 専門職と制服
 6 専門教育はコンパクトに
III ケアするものの発達過程
 1 五年前の宿題
 2 同情と共感は紙一重
 3 亀の甲より年の功
 4 それは鼻毛から始まった
 5 瞬間芸と熟練の技
IV 「世の中」の中のケア
 1 「障害者」という言葉のトラウマを越えて
 2 たまたまの不運としての障害と病気
 3 普通の人がケアする時代
 4 コンビニ・ケイタイ時代のケア
 5 医療ミスはなくせるか
ちょっと長いあとがき

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強い意志と覚悟のもとに語られた「本音中の本音」
書評者:小林 光恵(作家/看護師)

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 書店の看護書コーナーにときどき足を運ぶ。ナースにまつわる話を書いている者としては,看護界全体の様子を少しは感触として知っておきたい,という欲が顔を出すのだ。しかし,そこへ向かいながら私はいつもどぎまぎしはじめる。看護にまつわる情報量の多さに圧倒され,しまいには動悸を覚えるのをわかっているからだ。定番本に加えて,新しい看護論,それからいろいろ……ずらっと並んでいる。看護書コーナーはあくまでもメディアであり,イコール看護界ではないとわかってはいるのだが,それでも私は「あれも読んでない,これも知らない」とあせり,山のように本や雑誌を抱えこむうち,冷静ではなくなり,結局は買わずに置いてきてしまう。そして,いらない心配までする。現職のナースたちは,このコーナーにきて,どんな思いをめぐらすのだろう。もしかしてどっと疲れる人もいらっしゃるのではなかろうか,と。

一言一言に胸を打たれた
 白状してしまう。私は本書を泣きながら読んだ。悲しいからでも,くやしく思ったからでも,たまたま泣きたいタイミングにあったからでもない。宮子さんの一言一言が,びんびん響いてきて,胸を打たれたのである。彼女は,自分の心を繰り返し点検し,投げ出さずに考え続け,語りにくいこと,言いにくいこともはしょらずに,しかも,あらゆる立場を慎重に配慮し,「本音中の本音」を語っていた。

 本音を語るのは難しい。本音を語ることとは,思ったことを素直に表現することのようであるが実は違う。自分の考えや気持ちを客観的に吟味し,それを確かに語るための表現を考え,意志と覚悟を固めた後に語られるのが本当の本音。だから本音を語るには相当なエネルギーが必要なのだ。宮子さんはそれを知っている。それをやっている。

読後の興奮状態の中で一文抜粋を紹介する
 ここで,私の胸にびんびん響いたくだりを一部紹介したい。文章は流れの中で意味を持つので,一文抜粋は乱暴ではあるが,読後の興奮状態でのこと,とご容赦願いたい。

――看護の語りにくさのなかにこそ,看護の本質があるのではないでしょうか。(「ケアの語りにくさを語る意味」より)
――世の中には,「当事者にならないとわからないこと」と「当事者になったらわからなくなってしまうこと」があるんだと思います。(「ケアの語りにくさを語る意味」より)
――「もうだめだよ。もう明日までもたねえよ。おさらばだ」と力なく言っている患者さんが,来週の食事のメニューが食堂に貼られていないと激怒する。そんな姿に感動できるようになってこそ,看護婦として人を見る深さが醸し出されてくるのではないでしょうか。(「ケアするものの発達過程」より)
――病気と見るその見方を単なる「画一化」にしてしまうか,「普遍化」にまでもっていけるかが,その看護婦の力量とも言えるそうです。そして,患者さん個人の個別性と,病気からくる普遍性の間を行きつ戻りつすることが「患者さんを見る」ということなのではないでしょうか。(「『世の中』の中のケア」より)
――正解はひとつではありません。それぞれの人が一生懸命その人のために気持ちをつくすこと。それが人を力づけるのだということが、よくわかりました。(「ちょっと長いあとがき」より)

 現職のナースのみなさんには,私より何倍も本書の宮子さんの言葉がびんびん響いてくることだろう。看護界も21世紀を迎えようとしているいま,宮子さんの本格的看護論集が出たことにとても大きな意味があると思う。

 書店の看護書コーナーに行っても私は,もういたずらにどぎまぎせず,落ち着いて各書を手に取ることができるような気がする。

黒衣を着てもなお,ケアを続けていく元気をいただいた
書評者:飯島 恵道(東昌寺副住職/看護師)

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 実は書評のお話をいただくまで,私は宮子さんの本を手に取ることができなかったんです。「元気すぎて私には刺激が強すぎる」というのが正直な気持ち。でもなんだかこの本は「うんうん」とうなずきながら読むことができました。宮子さんの中に変化が起きたのか,私の中に変化が起きたのかはわかりません。心に響いたことばをポストイットに書いてペタペタ貼りつけたらものすごい量になってしまい,母に「そりゃなんだい,いったい??」とびっくりされてしまいました。

自責の念の呪縛から逃れられない私
 1年前まで看護婦をしていました。私が実践していた看護は果たして「気持ちのいい看護」であっただろうか? それを調べるためには「ケアの受け手である患者の満足度を見ればよい」というのが一般的な考え方でしょう。しかし著者は「患者の気持ちよさは,看護婦の気持ちよさ」という思い込みに対して疑問を投げかけ,看護婦をとりまく状況の複雑さをみたら,そんな単純な図式では説明しきれるものではないし,直球勝負で切り抜けられるものではないのだ,と言います。

 看護婦をとりまく状況もそうですが,患者をとりまく状況も科学では説明しきれないものを多分に含んでいます。そのせいか,医療現場で働く私の口から出る言葉の語尾はいつも「…………。」って感じでした。たしか看護記録にも「…………。」という形の記載をしてしまい,チェックが入ったこともあったなあ…………。

 「文章を書くのは得意」としていた私ではありましたが,現場で起こる事象のすべてを言語化することなど到底できません。言語化できた部分のことについては,私なりにすっきりと解決したように思えたのですが,言葉にできずモゴモゴしていた部分を自分の中に抱えたまま,あるいは現場にそのままそっと置き去りにする形で,私は病院を辞したのです。「お持ち帰り」の言葉たちと、私はこの先いっしょに生き続けなければならないのだろうか。ちょっと気が重い。

 私はテキパキと,スッキリスカーっと看護を語る人に憧れていました。いや,そういう姿こそが「看護婦のあるべき姿」だと思っていた。なので,経験を積んでもまったくそのようになれない自分がとても嫌でした。病院を辞してもなお「自責の念の呪縛」から逃れられずモゴモゴいってる私に,「そんなに自分を責めないで。自責もほどほどにしないと,白衣を着る元気さえなくなってしまうから」と著者は本の中から言葉をかけてくれたように思います。

 《「できないけど,わかる」,「わかるけど,できない」,そんな口ごもってしまう思いを大事にしたい。看護の語りにくさの中にこそ,看護の本質があるのではないでしょうか》と語る著者のことばの裏側に,「父親の死という悲しい出来事を通していっそう円熟味を増した心」を感じ,バリバリと清拭をこなす若手のナースを,一歩ひいたところから見守る先輩ナースの姿を見た思いがしました。

できることなら病院を辞める前に出逢いたかった
 今,私は尼僧1年生。5日に1度髪を剃るので,5日に一度はピカピカの1年生になれるのです。そんなことはどうでもいいけど,できることならば病院を辞める前にこの本と出逢いたかったなあ。

 しかし今は,著者の「円熟味を増した心の力」に押され,「黒衣を着る元気」を与えていただいたような気がしています。それは「黒衣を着てもなお,ケアを続けていく元気」。自分を責める前に,まずこの本を読んでほしい。看護婦を辞める前にぜひ読んでほしい1冊です。

「看護でなければできないこと」ではなく
書評者:國本 啓子(看護学校1年)

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 私は今年の春4年制大学を卒業し,看護学校に入学した。いまは悲鳴をあげつつ毎日の学校生活を過ごしている現役の看護学生だ。1年生という未熟すぎる立場だが,この本を読んで感じたことを書いてみようと思う。

「看護婦がすることはみんな看護」という言葉に爽快感を覚える
 看護学校に入学する以前から,私は看護というのは曖昧で,その独自性を的確に表現するのはむずかしく,だからこそ力を発揮できる場面が多くあるのではないかと思っていた。だから,看護の専門性を無理に追求する必要もないし,明確化できないことをネガティブに捉える必要もないとも考えている。

 以前,看護学校の講義の中で,先生がある患者の事例をあげて,その場合の援助を看護婦と介護福祉士のどちらが行なうべきかを私たちに質問したことがあった。私はこの時,不安を感じた。それは,もし看護婦側は介護福祉士がやるべきだと言い,介護福祉士側は逆に看護婦がやるべきだと言ったら,いったいその患者はどうなるのだろうか,ということだ。

 もちろんこれは極端な例にすぎないが,「どちらがやるべきか」といった類の問いに正解を求めることには,常にこのような危険も含まれている。そこに目を向けることなく,看護の専門性を語るべきではないと思う。看護の専門性を明確化しようとするあまり,本来看護を必要としているのにその対象からはずれてしまう患者が出てくる可能性もあるということを,きちんと押さえておくべきではないだろうか。

 このことを思うと,「看護婦がすることはみんな看護」という宮子さんの言葉に,ある種の爽快感を覚える。今の私も,看護の専門性云々よりも,看護婦免許取得後どのような仕事をしていくのか,そのために何をしたらよいのかを考えることのほうが重要だと思っている。だからいま私が努力しているのは,医療の知識とケアの技術をもった専門職である看護婦としてできなければいけないことを身につけるためであって,「看護婦にしかできないこと」を身につけるためではないと自覚している。

同情と共感の違いにこだわりたくない
 1つのことを主張しすぎると,本当に大切なことが見えなくなってしまう危険性がある。専門性の議論以外に,同情と共感の違いについて考える時も,私にはその危険が感じられて仕方がない。

 これも学校での話になるが,ある講義で,共感的に話を聞く方法や,共感はよいが同情は好ましくない,ということについて教わった。もちろん共感的聞き方をテクニックとして持っておくことはよいと思う。ただ,そこに本物の感情が見えるのかというと,どうだろうか。なにより,「同情は人を見下す感情だ」という認識が存在するからこそ,同情によって無駄に傷つく人がいるのだと思う。同情されること自体が嫌な人と,同情されることで「自分がかわいそうな存在だと思われている」と感じることが嫌な人とがいるはずだ。

 宮子さんの「同情と共感は紙一重」という言葉の意味するところを,私はまだはっきりとは理解できない。だが,共感と同情の善し悪しにこだわることで,本当の感情が見えにくくなっている面がある,ということは言える。そしてこのことは,看護の場面においてあまり好ましくないことだと思う。

もう一度この本を開いてみよう
 以上のようなことをこの本を読んで考えたが,主観的で抽象的なことばかり書き連ねてきたような気がする。

 看護についてもっと具体的に考えられるようになった頃,もう一度この本を開いてみようと思う。

「王様は裸」と,自身をも語ってしまう勇気
書評者:香山 リカ(神戸芸術工科大学助教授/精神科医)

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率直な疑問を持って医療現場を見ると……
 癒しや福祉の〈ブーム〉にも関係してのことか,それとも高齢化社会を反映してか,最近,医療や看護についての一般向け出版物が世に氾濫している。その中には医療にかかわる側が書いたものもあれば,医療を受ける側が書いたものも。しかし,それらに目を通しながら私自身は常にこう感じてきた。「確かにあんたの言うことは正しい……でも、何か違うんじゃないか?」

 そしてこのたび,本書を読んで自分の違和感の根っこがどこにあるのかがようやくわかった。これまでの本や発言には,その裏に強烈な「自己正当化の願望」があったのだ。

 現役看護主任として活躍中の著者は,自分の領域で目撃するさまざまな人たちの言動に率直な疑問を持つ。例えば,自説の正しさを証明することにばかり熱中して現実離れしたケア論を語る学者,自己の価値に悩むあまり看護研究発表会で他人を責める看護婦,自らを特権的だと考える医師,そしてケアを受ける患者にさえ,「なぜ彼らは,他人である看護婦に対して,ああも不作法になれるんでしょう」と疑問を投げかける。「王様は裸だ!」と叫ぶあのおとぎ話の子どもを連想する読者もいるだろう。

 著者から見れば,医療現場は美しい感動ドラマの世界どころか,それぞれは理想や熱意を持った人たちなのに,気づいてみたらお互い奇態な振る舞いをしながら足を引っ張り合っているという世にもフシギな妖怪世界なのかもしれない。そうやって読者はまず,「看護婦の仕事や医療現場って,これまでイメージしていたものと違うぞ」ということに気づかされていくのである。

自分自身の分析を通して,他人の問題に光を当てる
 しかし,この本が本当にすごいのは,その著者の純粋にしておそらくは真っ当な批判の眼は,他者にだけ向けられているのではない,というところである。著者は何度となく、自分は自己評価の低い人間であり,コンプレックスのかたまりであると語る。多くの人は,看護主任の激務をこなしながら文筆家としても活躍する著者に憧れのまなざしでこう言うであろう。

 「普通はひとつの仕事でもたいへんなのに,宮子さんはスーパーウーマンですね」

 ところが,著者の言葉を借りれば事実はその逆,「書かない人間だったら,とうにつぶれていた」ということ。自分は書くという作業によって,看護の仕事では失われがちな自己尊重の意識の低下をかろうじて食い止めている,と分析しているのだ。

 このようにして,著者は自分自身の抱える葛藤や劣等感なども小気味いいほどさらけ出し,その分析を通して先ほどあげたような他の人たちの問題にも光を当てようとしていく。そのため手厳しい批判にも嫌味が感じられず,「ケアする人間は,ケアされたい」などの本質的な発言にもぐっと説得力が加わる。

 自己の正当化に走ることなく,時にはユーモアも交えながら“あたりまえの人間”である医療者や患者を,そして自分自身を語った著者の勇気に拍手を送りたい。

看護が陥った呪縛から解放される「気持ちよさ」
書評者:川名 典子(聖路加国際病院/リエゾン精神看護師)

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「看護」の言語化に挑戦
 宮子あずさ氏は今までご自身の看護婦としての経験を自分の言葉で表現してこられた。氏と患者さんとのやりとりを通じて描かれる病床風景は,入院生活あるいは看護婦生活の経験がない人々にとっては多少暴露的な要素がないわけではなかったが,時には患者のふん尿まみれになりながら,また患者の悪態に傷つきながらも業務につく著者の姿に自分自身を重ねた看護婦は多かったのではないかと思う。そんな風景かから見えてくる,自分も患者も含めた人へのいとおしさの中に,言葉にならない「看護」の何かを語っていた。

 本書は,そんな氏があえて看護を言語化しようと挑戦した,“ですます調”で書かれた看護論であるという。表題は『気持ちのいい看護』であるが、気持ちのいい患者の話がほとんど出てこないところがまずおもしろい。看護論といっても,氏のことであるから「あるべき」論も理論も当然出てこない。理論とのつきあい方,本書では「ケアの語りにくさ」について,あえて言語化することからはじめている。

 「理想」―「追いつかない自分」=「自責感」というシンプルな定式で看護婦が看護を語れない事情を分析し,また本来個別的個性的な人間を相手にする「文系」の看護が,医学に目がくらんで医師と同じ「理系」の土俵に乗ろうとしてしまうことからくる科学コンプレックスなど,看護が陥っている落とし穴を丹念に述べている。科学との距離については,佐々木力氏が『科学論入門』で言及している内容に近いが,それを看護婦の目線で率直に述べているところに感動を覚える。

 臨床看護に従事する読者は,きっと著者の知的な作業を追いながら,呪縛から1つひとつ解放されていく体験をするのではないだろうか。

ベナーが語る世界に限りなく近く
 看護での対患者関係では「患者の話を聞くこと」が基本と言いながら,著者は同時に「話を聞くことがいかにつらいか」とも告白している。職業として人の話を聞くことは実際にたいへんな技術を要することで,そのたいへんさは本書に紹介されている事例を読めばすぐわかるし,事例を読まなくても臨床家であればすぐに納得するであろう。さらに精神看護の専門家から見れば自明のことである。看護を語る難しさの1つは,人を理解すること,共感することの難しさとも関係があろう。

 著者はその解決方法を,体当たりの経験の中から自分流のやり方で見い出していくプロセスを,自身の体験を通して語っている。著者が対応に窮したと思われる患者の理解の方法についてはちょっと討論したくなってしまうのであるが,一人前からベテラン,そしてエキスパートへと変化する著者自身の姿は,著者自身が親近感をもっとも覚えるというパトリシア・ベナーによって語られた世界に限りなく近く,大変印象深いものである。

興味深い文化論にもなっている
 本書を貫いているのはフェミニズムである。著者自身が「私はばりばりのフェミニスト」とまえがきで白状しているのだから当然だろうが,フェミニズムの視点は介護の担い手をめぐる性差別などの社会的政治的問題の指摘にとどまらない。人や社会の多様性を受け入れ,存在することを受け入れる,それは正義や論理性を重視する従来の価値観とはまったく異なったフェミニズムの思想を抜きには看護は語れない。このあたりはもっと過激に言語化してほしいと勝手な期待を思わずふくらませてしまう。

 終章では,「患者がナースコールではなく,携帯電話をにぎりしめるようになるのだろうか」,など,興味深い文化論になっている。

 全編を通じて,小見出しのテーマごとに著者が論をめぐらせる構成で読みやすい。著者に同意したり,いやちょっと,と反論を考えたりしながら読み進んでいくと楽しい。

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