ケア学
越境するケアへ

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どの学問分野の小さな窓から見ても、その姿はいつもフレームをはみ出している……医学・看護学・社会福祉学・哲学・宗教学・経済・制度等々のタテワリ性をとことん排し、積極的に“越境”することなしにケアの豊かさをとらえられないと考える著者の刺激に満ちた論考。時代は、境界線引きからクロスオーバーへ!

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
広井 良典
発行 2000年09月判型:A5頁:280
ISBN 978-4-260-33087-9
定価 2,530円 (本体2,300円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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はじめに
I ケア学の必要性
 1 ケアすることの意味
 2 ケアのモデル/越境するケア
II サイエンスとしての医療とケアとしての医療
   医療モデルの意義と限界
 1 複雑系・EBM・標準化
 2 病いのエコロジー
III 老人・子ども・ケア
   生活モデルの新たな展開
 1 人間の三世代モデル
 2 老人の時間と子どもの時間
 3 コミュニティそして自然
IV 超高齢化時代の死生観とターミナルケア
   スピリチュアリティの次元
 1 これからのターミナルケアへの視点
 2 超高齢化時代におけるターミナルケア
 3 ターミナルケアと死生観
 4 深層の時間とターミナルケア
V ケアにおける医療と福祉
 1 医療・福祉職種の役割分担
 2 医療保険と介護保険の関係
VI ケアと経済社会
 1 看護の経済的評価
 2 ケアの市場化と社会保障
参考文献●「ケア」について考えるためのブックガイド

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モダンを超える医療の姿とは(2000年10月15日付 毎日新聞より)
書評者:村上 陽一郎(国際基督教大学教授/科学史・科学哲学)

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 「ケア学」の提唱ということになっているが,現代医療の得失を意識し理解するための貴重な書物が出た,という読後感である。かつてのように,医師が「病気を治してやる」という姿勢で患者に臨み,患者も「病気を治して戴く」という意識で医師の前に座る,というような状況が医療のすべてではなくなっているのが現在の医療である。本書は,その事情を多角的に丁寧に解説してくれるからだ。

「エコロジカル・モデル」に見る現代医療
 医療の中に科学が浸透し,1つの病気には1つの病因が特定でき,病気の治療はその原因を取り除くという「因果的」治療を使えばよい。これが,19世紀以降の「近代」医療の本質だった。本書では「バイオ・メディカル・モデル」という言葉で描写される。

 筆者も言うように,このモデルは感染症には見事な成功を収めた。しかし,社会の高齢化による疾病構造の変化に伴って,このモデルだけでは医療は成り立たなくなってきている。著者は新しく求められるものを「エコロジカル・モデル」と呼ぶ。その意味では,現代医療は時代の最先端にある。

 しかし,と著者は言う。むしろ医療はようやく「モダン」に辿り着いたところもある。例えば,アメリカから輸入されたEBM(Evidence-Based Medicine)という概念が今日本の医療界を席巻しつつある。EBMというのは,しかじかの症状には対してはしかじかの範囲の治療法が合理的である,ということを疫学的な証拠に基づいて定めることを言う。

 そうではなかったのか,という疑問が浮かぶかもしれない。しかし,日本では,地域によって,また医療機関によって,あるいは医師によって,治療法にかなりのばらつきがあることは統計でも明らかになっている。したがってEBMには,治療法の「標準化」という意味がある。

 この背後には,アメリカにおける医療訴訟の激化への対応(EBMで定められた治療法を採っている限り,訴訟に際しては有利になる),保険治療費の高騰の防止など,副次的な要因も多々あるが,一面から見れば,医療の「規格化」であり,「品質管理」にも重なる。つまり,それは大量製造,大量消費型の「モダン」の要素がようやく医療の世界にも入り込んできた,と理解することができる。

 同時にまた医療はこうした「モダン」の要素からかけ離れた個別性,一回性,多様性を宿命とする。その意味で著者は,現代医療こそ,モダンとポスト・モダンとが複雑に入り混じった現場である,と捉える。

 そうした中で,筆者は,医療が1対1という医師・患者関係を超えたところで成立すべきであるという考え方を提案する。それがエコロジカル・モデルの中心でもある。

患者と,それを取り囲む「環境」との相互の共存
 もちろん,すでに現代医療はティーム医療であるという発想はあちこちで語られる。患者に接する医療関係者の職種は増えるばかりで,彼らの「分業」と「協力」が医療を支える,ということは常識になりつつある。

 著者の提案はそのことももちろん前提にした上で,しかしもう少し哲学的,人間論的な領域に踏み込んだ立論において,患者と,それを取り囲む「環境」との相互の共存こそ,これからの医療のモデルだと主張する。そしてそれが結局は「ケア」の本質でもあることになる。

 著者は厚生省にも経歴を持つ学究だけに,本書では医療経済を含む社会制度の側面にも,しっかりした目配りが効いており,包括的な医療書である。

(2000年10月15日付 毎日新聞 書評欄掲載)

柔軟な発想に感動,読後の感想を語り合いたい
書評者:川島 みどり(健和会臨床看護学研究所長/看護師)

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 乗り物の中でしか読書時間のない私をとりこにした本書は,個人のライフサイクルを座標軸とする社会保障を基盤にして,ケアという切り口で,思想,老い,死,医学・医療そして制度について,広範囲にしかも丁寧に述べている。著者によれば,「ケア」というテーマ自体の持つ必然的な広がりゆえというが,それにしても時宜を得た問題提起が随所にあって,読み始めたら終わりまで読まずにいられない。

医療モデルから生活モデルへの転換を強調
 先著『ケアを問いなおす』(ちくま新書)の,「高齢社会は障害が普遍化する社会である」との言に,看護婦として具体的な実践課題を突きつけられた思いがしたが,本書はさらにこれを深め,医療モデルから生活モデルへの転換の視点がより強調されている。人間全体を見ると自負していたはずの看護が,高度医療の進む環境のもとで,いつしか病気の看護の達人となっていて,障害の看護は全くの盲点であったことに気づかされた。

 このことは,「看護は病気を」「介護は障害を」という介護保険下での機械的な棲み分けに反論できないまま,うやむやの分業と協業がスタートしてしまったことにも通じるような気がしている。受け手の立場から考えれば,看護と介護の専門性の区別などどうでもよいし,縄張りを争うつもりもないが,当の専門職者らが明解にこれを説明し得ないため,便宜的に両者を「ケア」という用語でくくって用いられている面もないわけではない。

人間的な深い意味を持つケアを語る
 本来ケア自体は,特別な人の行なうことではなく,誰もが日常的に自分自身や自分以外の人々に行なっている行為である。だが,これを職業として行なう職種は,今のところ看護職と介護職である。そこで,ケアを必要とする人へのケアの質の保証が求められるのだが,質まで目が届かない実状がある。これは,介護保険という事実の先行により,速成養成をせざるを得ない介護職のヒューマンパワー事情と,長年医療モデルのもとで仕事を続けてきた看護職の,生活モデル下での方法論を持ち合わせないことが影響している。

 本書で論じられるケアは,より人間的な深い意味を持つものであるが,職業としてのそれに限って見ても,著者の言うケアという行為の論理に添った実践への期待に応えるには,クリアしなければならない問題が山積していることは確かであろう。

看護の方向に曙光を当てる
 本書の原型となった論文は,著者の人生の中での大きな節目の時期に書かれたと言うが,とりわけ「死生観とターミナルケア」は,著者の死生観の深化の実証ともいえ,読み応えがあった。「死後」と「生前」の世界の同質性から,死とは生まれた場所への回帰であるとの哲学は,直接的な時間観にとらわれつつ,限りある生を実感している私自身にとっても,かなり現実味を帯びた人生の終末準備への示唆となった。自然の中に生まれ自然の中に帰っていく「からだ」としての人間,人間特有のコミュニティの通路を通って「帰っていく場所」に行くのが「死」であると理解した。

 「サイエンスとしての医療とケアとしての医療」の章では,現時点で共通の理解がされているとは言えない。だが,緊急に論議しなければならない問題が多く述べられている。中でも,「標準化とEBM」については技術論的に討論する余地があると思えた。

 本書を通読して,著者のグローバルな視点からの,実に柔軟な発想にまたしても感動し,知的な思考の底に流れる人間としての深層の時間に触れてみたい思いに駆られた。読後の印象を語り合うことが,混沌として見えにくいこれからの看護の方向に曙光を当てると思われる。ぜひ一読を勧めたい。

「科(ごとの)学」を越えて“老い”と“介護”を探る
書評者:三好 春樹(生活とリハビリ研究所長/理学療法士)

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「老人問題」にではなく,「老い」や「介護」そのものの意味を探る
 私は学者に対して予断と偏見を持っている。難しい話や外国での見聞を語るだけで,介護現場で役に立ったためしがないからである。それに威圧的な人が多い。

 学会などで,現場からの素朴な疑問や質問に対して「『月刊○○』の○月号に書いた私の論文を君は読んでないのか!」などと言う学者がよくいる。“そんなもの誰も読んじゃいないよ。そんな暇が現場にあるもんか”と誰もが思っているが,もちろん口には出さない。

 いくら学者とはいえ,老いを研究対象とするなら,老化過程が,論理やコトバ,自己といった世界から抜け出していくものであることに気づくはずである。論理やデータが及ばぬ世界が粛然としてそこにあるとき,自然に身につく自己限定性,つまり謙虚さのようなものがないことこそ,私の彼らに対する最大の不満なのである。

 でも無理もない。多くの学者は,「老人問題」には興味はあっても,「老い」や「介護」に興味は絶対なさそうなのだ。それはあたかも意味のないことのように扱われ,制度を整えて,マンパワーを充足すれば解決するかのように思われている。

 しかし,その「老い」や「介護」そのものの意味を探ろうとする学者も現れてきた。前著『ケアを問いなおす』(ちくま新書)と,本書の著者である広井良典氏である。

権力を無化していく力を持つ
 「三好さんの本が紹介されてますよ」と知人に言われて手にした前著もそうだったが,本書でますます著者は“老い”と“ケア”の深みにはまってしまっているように思える。学者らしくもなく,というのはもちろん誉めコトバである。

 身体機能にかかわるPTである私が,『関係障害論』(雲母書房)なんてものを書かざるを得なくなったように,医療政策を専攻する広井氏が,宗教や時間論へと踏み込んでいく。私たちが「自己決定の原理」なんていう近代的主体を前提としたやり方に対して「共同決定の原理」なんてコトバを作り出してきたように,氏もまた,1対1モデルのカウンセリングの原理に疑問を感じ,1対1の背後に存在する「コミュニティ」と「深層の時間」を提起する。

 「福祉社会」なるものが理想の社会などではなくて,ミシェル・フーコーのいう「牧人権力」が支配する権力の最後の形態ではないか,というのは,福祉現場の息苦しさの中にいる私の実感である。

 科学の強調による専門家支配や倫理主義がその息苦しさを増大させている中で,「越境するケア」というサブタイトルにもあるように「科(ごとの)学」を越えて展開された本書は,権力を無化していく力を持っていると確信する。

 もちろん学者たちの自己中心性をも。

看護関係者にとって必読の書
書評者:樋口 康子(日本赤十字看護大学長/基礎看護学)

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 本書の第一印象は,「広がり」と「深さ」という2つの言葉で表現されよう。

ケア学の「広がり」
 「ケア学」を構築しようとする著者は,本書において「ケア学」がカバーする学問領域とケアする射程距離を明らかにしようとする。ケアの「広がり」は,A5判で270頁を超える本書のボリュームそのものであり,次のような本書の章立てにも表われている。

 I:ケア学の必要性。II:サイエンスとしての医療とケアとしての医療(医療モデルの意義と限界)。III:老人・子供・ケア(生活モデルの新たな展開)。IV:超高齢化時代の死生観とターミナルケア(スピリチュアリティの次元)。V:ケアにおける医療と福祉。VI:ケアと経済社会。

 このような「ケア学」が持つ「広がり」は,ケアする意味や「深さ」から必然的に起こってくる,というのが著者の主張である。

ケア学の「深さ」
 ケアという仕事は,バラバラになった個人を再び結び付けるものである。経済の進展や社会的構造・家族機能の変化にともなって「個人」が単位となったことと並行して,家族内部で行なわれていた「ケア」が外部化され,「職業としてのケア」が成立せざるを得なくなった。「ただ聴いてもらえる」だけで癒されるのは,「自分という存在が相手に受容された」というポジティブな感覚をもたらすからである。「ケアの意味」は,「外部化」してしまった個人としての人間を,もう一度「内部化」「一体化」するところにある。

 外部化していく「個」としての人間をもう一度共同体への内部化に向かわせる,その反転の間際にあるのが「ケア」という営みであると本書は言う。それゆえ,「ケア」は自己の壁を破って外部の世界へと反転させる内発的なエネルギーとなる。つまり,「ケア学」は,境界を突破してゆく「越境的な性格」を持つのである。

本書と看護
 著者は難しい内容をわかりやすい語り口で書いているので,大部の本書を一気に読み終えた。読みながら,本書の内容である「ケア」の本質そのものを「もっと知りたい」という知的エネルギーがわき上がってくるのを感じた。

 確かに,著者は「ケア」について全体的な見取り図を提示した。たぶん著者の今後の課題は,総論的な本書を各論へと発展させていくことにあろう。看護学を本拠とする私個人としては,著者が提示した見取り図の各論を実際に描いていくのは,「看護の実践が展開されている医療の現場からである」という自覚がさらに強化された。

 ケア学の「広がり」と「深さ」を現実のものにするために,「看護が果たすべき役割」について考えさせられた次第である。

 その意味で,本書は看護関係者にとって必読の書となるであろう。

暗い森から脱出するために
書評者:黒岩 卓夫(南魚沼郡医師会長・在宅ケアを支える診療所全国ネットワーク代表/医師)

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創造や文化の背景に「遊び(遊)」を置く
 本書の中で,人間の三世代モデルを提起しつつ,老人と子どもを同時に登場させるところがたいへん面白かったし,納得するものであった。

 ちょうど私も,老人ケアの日々の中で「早く死んでほしい」ではなく,「なるべく生きてほしい」という気持ちでケアができるとすれば,老人の存在する“意味”や“価値”をどう捉えたらよいか悩んでいるところでもあった。このへんのところを,思想的にも科学的にもしっかり押さえておかないと先が見えてこないと思う。

 著者は,《「生産」や「性(生殖)」から解放された,一見(生物学的にみると)“余分”とも見える時期が「大人」の時期をはさんでその前後に広がっていること,つまり長い「老人」と「子ども」の時期を持つことが,人間の創造や文化の源泉と考えられるのではないだろうか》と述べている。

 そして,その創造や文化の背景に「遊び(遊)」を置いている。まさにその通りだと思う。

 私が今おつきあいをしている80歳前後の老人たちは,“遊”を理解しない。働くことしか知らないのだ。とすれば働かなければ自分の価値はないということになるのである。

複数世代が交流する「コミュニティ/環境に開かれたケア」
 自分の生きている価値を認められない巨大な老人群をイメージできるとすれば,それは深くて暗い森でしかない。私はその森の中に自分がさまよっていると思うことがある。ケアする人される人の無限の連鎖がその森の奥へ引き込まれていく。

 ではどうしたらよいのか。

 著者は,まず高齢者同士の相互作用に着目することにより,受動性から主体性へと,暗い森から脱する方向を示している(生活モデルの第2段階)。それに続く第3段階で,複数世代を含む交流を提案する。それが先に触れた,老人と子どもが登場する「コミュニティ/環境に開かれたケア」なのである。

「大和方式」にもつながる
 わが国の伝統とも言える「タテワリ体質」の打破をケアの中に持ち込もうとしている著者の姿勢は,ケアの本質をついているものと思う。「ケアは越境する」と表現されているが,私の経験からも大きくうなずけるところである。

 私は今から30年前にこの雪国・越後にやってきて,地域医療なるものに取り組み,そこでぶつかったのは,一時代前の文字どおりの「タテワリ行政」であった。つまり医療・保健・福祉は別々の屋根の下にすみ,「隣は何をする人ぞ」だった。人間(患者)は1つの生き物にすぎないのに,なぜ別々の家を訪れなければ1つの答えがでないのか。私たちはケアの現場(その頃はケアという言葉はほとんど使われていない)から,タテワリをぶちこわすことが大きなテーマとなり,それが後に地域ケアの「大和方式」と呼ばれることになった。

 広井氏の著書の評に名をかりて自分のことばかり書いて申しわけないが,それは,こうした歩みが著者の試みとどこかつながっているとの思いからである。

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