私の精神分裂病論

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「街角の精神科医」として、医療の第一線で常に活動してきた著者のライフワーク。60年代以降のわが国精神医療の激動期を生き、巨大病院から診療所に降りて分裂病者を様々な面から見てきた著者の20冊の日記から、患者と家族、社会をめぐる日常診療を探る。ヒューマンドキュメントとしても稀有な書であり、今日の精神医療への警鐘の本といえる。
浜田 晋
発行 2001年01月判型:A5頁:256
ISBN 978-4-260-11852-1
定価 3,300円 (本体3,000円+税)
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はじめに
 
I. 精神病院の中で
 Mさんのこと/受け持ち看護制と小グループ活動/分裂病者と遊び
 
II. 東大闘争前後のこと
 医師という存在とは何か/東京下町との出会い
 
III. 地域精神医療というもの-私の日記抄
 昭和45年/昭和46年/昭和47年
 
おわりに

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患者の多様な背景に分け入って生まれた待望の分裂病論
書評者: 松本 雅彦 (京都府立洛南病院長)
 東京・上野に精神科診療所を開き,「町医者」を自称しながら,『病める心の臨床』(医学書院刊)『老いを生きる意味』(岩波書店刊)を著し,精神医療関係雑誌の連載コラムに「老いのたわごと」を綴っている人がいる。その人が「いつか死ぬまでには,私なりの精神分裂病論を書いてみたい」とつぶやいている,そんな噂が聞こえてきていた。
 昭和30年(1955年)前後に精神科医を選んだこの世代の先生たちにとって,精神分裂病はもっとも魅力的な,どうしても取り組まねばならない病いであった。巨大収容所都立松沢病院で作業療法に携わり,精神衛生センター・保健所で地域医療に入り込み,25年前に率先して東京の下町に精神科無床診療所を開いて,精神病者たちと歩みをともにしてきた先生のことだ,どんな分裂病論が展開されるのだろう。
 待望久しいこの先生の著書『私の精神分裂病論』を手にして,いっきに読みすすむうちに,当初の期待はみごとに裏切られる。どこかはぐらかされたような気にさせられる。「エエーッ,どこに分裂病論があるのか」と。読むことができるのは,昭和45年5月から同47年5月まで2年間の日記にすぎないからだ。

◆「生活」と「暮らし」の中に

 しかしなぜか,再度読み返すよう促さずにはおかない深い力が,この本にはある。それは,「生活」と「暮らし」の中に分け入ってはじめてうかがい知ることのできる分裂病者たちの多様性と,分裂病そのものが内包している奥深さ,さらにはそれらをありのままに描き出している「日記」の持つ力とでも言うべきか。
 その2年間の日記は,著者が精神衛生センターの職員として,あるいは保健所の嘱託医として,訪れる患者や家族の相談にのり,時には彼らの家庭を訪問する,文字どおり地域に密着しながらの医療活動が描かれる。そして,患者との,患者家族との,ともに活動する保健婦との,あるいはともに語り合う同僚精神科医との間に織りなされる多様な「綾」が語られる。そうか……,そうなのだ,この多様な綾と襞を多様なままに語ることこそが,著者にとっては本来の精神分裂病「論」なのだ。科学の名の下で体系化された精神医学という学問や理論が,地域医療という現場にどれだけ役立つというのか。分裂病者と彼らにかかわる人たちとが生きている,その多様で複雑な背景にまで分け入り,それらを生身で体験することこそが,分裂病の治療を成立させる「論理」となるのだ。下町からアカデミズムに向けて叩かれる,強烈なパンチ!,あるいはジワリと響くボディ・ブロー!
 しかし,ときにはその綾も縺れ襞も深まる。患者との,保健婦との,さらには同僚との行き違いに,この人は孤独を味わねばならない。その孤独の中にも医療活動が続けられるのは,地域活動が「自分の中に他者を取り込むゆったりとした作業」(「著者あとがき」より)だという自覚が生まれてきたからであろう。ひょっとすれば,私たち人間は(病者とも),「孤独」という共通項でつながっているのかもしれない。この臨床日記はそんな感慨に読む者を誘う。

著者の臨床に対する鮮烈な姿勢の発露
書評者: 兼本 浩祐 (愛知医大助教授・精神神経科学)
 精神科医は他科の医師と比べ,「なぜ,私は医師をしているのか,私は何のために患者さんを診ているのか」という問いと直面させられる機会が多い。それは,1つには精神科医が関わる患者が稀ならず自らは治療されることを望んでいないことにも由来するのであろう。また他方では,病棟という組織あるいは外来ですら,組織として機能させるためには,医師-患者関係あるいはスタッフ-患者関係の統制を行なわざるを得ない側面があり,個々の主治医が,管理ということを日々強く意識せざるを得ないことにも関連すると思われる。
 ある人が身体的に苦しんでいる場合,その苦しみを少しでも癒そうと努力することの意味に関して疑いが生ずる余地はあまりない。しかし,そもそも精神科医療は歴史的には患者自身のためにではなく,社会の治安維持のために組織されてきたという側面があり,実際の現在の日常臨床においても,患者自身の治療という目的と,家族,地域社会,ひいては社会全体の安寧という観点が,常に矛盾なく1つの方向を向いているという保証はない。

◆一貫した姿勢「患者の中へ」

 本書の冒頭近くに叙述されている著者の「球遊び」は,レヴィ=ストロースの人類学の研究を彷彿させる。こちら側の論理を押しつけるでもなく,逆に向こう側の力動に圧倒されて接触を断念するでもない第3の方法としての著者の方法論は今なお,きわめて示唆に富み,また魅力的である。感情移入に基づいて自分自身の感情を投影するでもなく,かといってコミュニケーションの試みを放棄して相手を単なる対象として扱うでもない,この「球遊び」の内にみられる臨床への姿勢は,地域に根づく診療所の開設へとそのまま連続しており,「患者の中へ」とでも言うべき著者のきわめて一貫した姿勢から,必然的に出てきたものだという印象を読者は抱くのである。
 本書における著者の臨床に対する鮮烈な姿勢は,「私はなぜ精神科医をしているのか」という問いを改めて厳しくわれわれに問うものであり,われわれの精神科医としてのアイデンティティを揺るがす問いの前にわれわれを否応なく導いていく。読み終えて平穏ではいられない1冊である。

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