街角の精神医療 最終章
統合失調症診療に携わってきた著者のライフワーク
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精神科医として、おそらく世界で一番、統合失調症を診てきた著者が問うライフワーク。病院から出て、外来医療を中心に、様々な患者との問題に立ち向かう著者の姿が浮き彫りにされる。
著 | 浜田 晋 |
---|---|
発行 | 2006年12月判型:A5頁:336 |
ISBN | 978-4-260-00237-0 |
定価 | 3,960円 (本体3,600円+税) |
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- 書評
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開く
I 東京下町のある精神科診療所の出発-生と死の狭間で
II 身体をみることの大切さ-分裂病者は長生きできるか
III 私の基本戦略を象徴する患者との出会い-地域の力を借りる
IV 改善に向かういくつかのパターン
V 患者によって癒されたとき
VI 自営業の人々-下町に住む分裂病者と町の衰退史
VII 結婚と育児からみた分裂病
VIII 職業からみた分裂病
IX 分裂病者の老い
X 単身生活の分裂病者
XI 患者からみた浜田先生
XII 資料とまとめ
文献
おわりに
著者紹介・業績一覧
II 身体をみることの大切さ-分裂病者は長生きできるか
III 私の基本戦略を象徴する患者との出会い-地域の力を借りる
IV 改善に向かういくつかのパターン
V 患者によって癒されたとき
VI 自営業の人々-下町に住む分裂病者と町の衰退史
VII 結婚と育児からみた分裂病
VIII 職業からみた分裂病
IX 分裂病者の老い
X 単身生活の分裂病者
XI 患者からみた浜田先生
XII 資料とまとめ
文献
おわりに
著者紹介・業績一覧
書評
開く
窓の外に広がる辺境の記録と思い
書評者: 兼本 浩祐 (愛知医大教授・精神科学)
終わりを全うするということはどういうことだろうか。勲章をもらうことか,それとも教授や大病院の院長などの役職を歴任することか。最終章と副題を打たれた本書の終わりにはチェーホフの『桜の園』が引用されている。
「上野も半ば崩壊した。私もこの地を去っていく。どこかへ」という最後の言葉は,三十年の苦闘の歴史をこれと言って誇るでもなく,冷徹に現状を眺めながら,しかしそこで本当に根をおろして生きてきた人だけが語ることができる感慨に満ちている。本書には,すべてがもう変わってしまい自らも年老いながら,生きることはそれでも良いことだったと『桜の園』で思うチェーホフの終章が確かによく似合っている。
「おもしろうてやがて悲しき」という言葉があったような気がする。本書はその大部分において,ひたすらに著者が長年付き合い続けた人たちの記録であると言ってもよい。精神医学的に操作的な診断をして統計をとるならば,その多くは平凡でありふれた一症例に過ぎなくなるであろう。しかし,本書では一つ一つの症例の統計上の数字の一に還元できない一期一会性,あるいは非凡さが見事に描出され,一度読み出すとやめられないおもしろさがある。そして,この著者の著作が常にそうであるように,この膨大な量の事実の記録の集積は,読み進むに連れて何よりも私自身の立ち位置を無言のうちに問いただし,私自身のさまざまの悔恨を思い出させ,私をたじろがせる。よく生きたからこそ,『桜の園』の桜はあんなにも美しかったに違いない。本書で登場するすべての人たちは千差万別でありながら,死んだ人も生きている人もよく生きたという一点において共通しているのである。
本書を読んで思うのは,精神科医療というのはやはり基本的には辺境の医療だということである。本書で登場する多くの人たちは,物理的には市民社会の中に住んでいながら,時にその人たちの住んでいる所は奇妙な無医村でさえあって,だから街角に生きる医者は無医村の医者のように何でもしなければならない。精神科の診察室を訪れる人たちは,症状とともにその背景にある人生を引きずってやって来る。精神科医が他の身体科医と際立って違うのは,症状とともにいつでもその背後にある家族や職場や生い立ちといった人生をみる二重の目線を持たねばならないことであって,診察室を治療の主要な舞台と捉えるのか,それともそこをその奥に広がる症状の背景を見渡すための窓と見るのかによって,見えてくる風景は大きく違ってくるに違いない。診察室を訪れる人たちと同じ目線で窓から外を眺めれば,そこは生き抜くことがそもそもとても大変な辺境が広がっている。訪れて来た人たちとともにこの辺境に三十年以上暮らしたからこそ,よくお互い生き抜いたという実感は生まれるのだろう。桜の美しさはよく生きた人たちだけに贈られる餞なのだと思う。
書評者: 兼本 浩祐 (愛知医大教授・精神科学)
終わりを全うするということはどういうことだろうか。勲章をもらうことか,それとも教授や大病院の院長などの役職を歴任することか。最終章と副題を打たれた本書の終わりにはチェーホフの『桜の園』が引用されている。
「上野も半ば崩壊した。私もこの地を去っていく。どこかへ」という最後の言葉は,三十年の苦闘の歴史をこれと言って誇るでもなく,冷徹に現状を眺めながら,しかしそこで本当に根をおろして生きてきた人だけが語ることができる感慨に満ちている。本書には,すべてがもう変わってしまい自らも年老いながら,生きることはそれでも良いことだったと『桜の園』で思うチェーホフの終章が確かによく似合っている。
「おもしろうてやがて悲しき」という言葉があったような気がする。本書はその大部分において,ひたすらに著者が長年付き合い続けた人たちの記録であると言ってもよい。精神医学的に操作的な診断をして統計をとるならば,その多くは平凡でありふれた一症例に過ぎなくなるであろう。しかし,本書では一つ一つの症例の統計上の数字の一に還元できない一期一会性,あるいは非凡さが見事に描出され,一度読み出すとやめられないおもしろさがある。そして,この著者の著作が常にそうであるように,この膨大な量の事実の記録の集積は,読み進むに連れて何よりも私自身の立ち位置を無言のうちに問いただし,私自身のさまざまの悔恨を思い出させ,私をたじろがせる。よく生きたからこそ,『桜の園』の桜はあんなにも美しかったに違いない。本書で登場するすべての人たちは千差万別でありながら,死んだ人も生きている人もよく生きたという一点において共通しているのである。
本書を読んで思うのは,精神科医療というのはやはり基本的には辺境の医療だということである。本書で登場する多くの人たちは,物理的には市民社会の中に住んでいながら,時にその人たちの住んでいる所は奇妙な無医村でさえあって,だから街角に生きる医者は無医村の医者のように何でもしなければならない。精神科の診察室を訪れる人たちは,症状とともにその背景にある人生を引きずってやって来る。精神科医が他の身体科医と際立って違うのは,症状とともにいつでもその背後にある家族や職場や生い立ちといった人生をみる二重の目線を持たねばならないことであって,診察室を治療の主要な舞台と捉えるのか,それともそこをその奥に広がる症状の背景を見渡すための窓と見るのかによって,見えてくる風景は大きく違ってくるに違いない。診察室を訪れる人たちと同じ目線で窓から外を眺めれば,そこは生き抜くことがそもそもとても大変な辺境が広がっている。訪れて来た人たちとともにこの辺境に三十年以上暮らしたからこそ,よくお互い生き抜いたという実感は生まれるのだろう。桜の美しさはよく生きた人たちだけに贈られる餞なのだと思う。
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