精神科シンプトマトロジー
症状学入門 心の形をどう捉え,どう理解するか
症状を学ぶことは精神科の基本である。今こそ求められる精神科症状学の活性化のために。
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本書は精神科の症状――シンプトマトロジー――についての本である。日々の診療で出会う症状について、それをどうとらえどう理解すればよいのかについて、それぞれの専門家によって平易に、そして各論としての用語集は説き語り風に、書き下ろされている。臨床家が症状を把握するそのアクティブな現場に立ち返り、その基本的な問題を説き起こし、より豊かで効果的な診療に役立つ視点と知識を提供することを企図してまとめた。
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序文
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はじめに
本書は精神科の症状についての本です.日々の診療で出会う症状について,それをどうとらえるのか,どのように理解すればよいのかということについて,それぞれの専門家によって書き下ろされました.
症状学の本を前にすると,なにか冷めた料理が出てきたように感じる人もいるでしょう.手に取って読んでみると,すぐに退屈して投げ出したくなるかもしれません.でも,だからといって症状学を学ばないわけにはいきません.というのも,今の精神科臨床では,症状が診療の基本となっているからです.
症状は,臨床というアクティヴな場の中で息づいているものです.標本のようなものではありません.こうした問題意識から,私たちはこの本を通して,症状学を活性化しようと試みました.
本書は総論と用語集(各論)の二部構成になっています.あらかじめ簡単に紹介しておきます.
総論では,症状を理解するための,大きな枠組みを設定しました.ここで取り上げるのは,①意識,②治療関係,③了解,④疾病構造の4つです.
すべての症状に先立って意識障害の有無の確認が優先されることにみられるように,意識は精神症状の舞台そのものであり,それに浸透しています.また精神疾患が生活のいとなみの中で現れるように,症状は治療関係の中で生成します.さらには治療関係そのものが病理の場であることもあります.そこで症状は異質なものとして立ち現れ,臨床家はそれを了解しようと試みるでしょう.こうしたいとなみの中で,異質性の質感によって,疾病としての構造的な観点から把握されることになります.こうした症状のバックグラウンドにあるものをあらためて問い直すことにより,臨床はより豊かなものとなると思います.
本書の後半では,各論として,52の項目を選定し,それぞれその領域の専門家が説き語る用語集を作成しました.用語は症状が中心ですが,治療関係や症状学の背景にある思想に関するものも含まれます.また,稀な症状でも,それを理解しておくと,臨床の補助線になるような用語も取り上げました.
執筆にあたっては,できるだけ平易な言葉で,質的な描写を重視しながら,偏りのない記述を心がけました.また,臨床場面を想定しながら,個々の症状をつかむコツや,治療的な視点が含まれるように配慮しました.手の空いた時間に,気になる用語を,気楽に読んでもらえればと思います.
2021年5月
内海 健
目次
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はじめに
総論
1 症状学入門
1.なぜ今,症状学なのか
2.操作的診断について
3.症状記述の教示例
4.症状とは何か
5.質感をとらえる
6.異常と苦痛
7.関係の中でとらえる
8.回復の契機
9.ラポールをつける
10.地から図へ
11.症状における優先度
12.関係性として現れる症状
13.コミュニケーションにおける2つの側面
14.良質な症状学へむけて
2 意識の視点から
1.はじめに
2.昏睡
3.グラスゴー昏睡スケール
4.外延と内包
5.せん妄
6.昏睡の深さの程度とせん妄
7.もうろう状態
8.意識障害の類型論
9.急性認知症,原発性錯乱,通過症候群
10.DSMとリポウスキーの改革
11.DSM-III以降のDSM的「せん妄」
12.「意識(consciousness)」という用語の起源
13.デカルトの意識
14.「意識」とは何かについての脳科学的仮説
15.おわりに
3 間主体的なできごととしての症状
1.はじめに:精神分析家であり精神科医でもあること
2.「症状」は患者と精神科医のあいだで間主体的に生まれる
3.症状は臨床の場で間主体的に反復的に生きられる
4.「症状」は臨床の場で変化の媒介となる
5.おわりに
4 了解と症状把握
1.はじめに
2.了解はなぜ現在の精神科臨床の課題なのか
3.精神病理学における了解概念
4.了解と精神障害の臨床的分類との関係
5.了解はなぜ医学の方法となり得るのか
6.了解精神病理学の領域とその限界
5 臨床精神病理学的視点からみた精神障害の診断学と分類について――症状学,診断学,分類学,治療学の有機的なつながり
1.純粋精神医学
2.精神障害の臨床的診断分類体系について
3.精神医学における診断の意味・重み付けについて
4.診断学・疾病分類学上の具体的な問題点について
各論
1 アクティングアウト
2 アパシー
3 アンビバレンス
4 遠隔記憶
5 解離
6 カタトニア
7 ガンザー症候群
8 感情鈍麻
9 境界例
10 強迫
11 幻覚
12 幻聴
13 高次脳機能障害
14 コタール症候群
15 コルサコフ症候群
16 混合状態
17 昏迷
18 自我障害
19 視空間障害
20 自閉
21 嗜癖
22 焦燥
23 心的水準
24 制止
25 セネストパチー
26 せん妄
27 躁・軽躁
28 対人相互性
29 通過症候群
30 適応障害
31 転移
32 転換
33 同一性保持
34 投影同一化
35 内因性
36 ナルシシズム
37 認知症検査
38 パーソナリティ障害
39 反応性
40 ひきこもり
41 不安
42 フラッシュバック
43 プレコックス感
44 ミュンヒハウゼン症候群
45 メランコリー
46 妄想
47 妄想知覚
48 もうろう状態
49 やせ願望/肥満恐怖
50 抑うつ気分
51 離人
52 連合弛緩
索引
書評
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精神科シンプトマトロジーは滋味あふれる温かいシチューのよう
書評者:渡邉 博幸(木村病院院長)
本書は,病者との丹念で真摯なやり取りによって,その苦悩に輪郭を与え,丁寧な支援の足がかりとすることを長年大切に実践してきた治療者たちが,源流にさかのぼった「精神症状」の解説だけでなく,彼らの臨床の心構えや大切な視点も交えて,わかりやすく説き起こし,多くの医療にかかわる人たちと共有することを願って編まれています。
“症状学(シンプトマトロジー)”と聞いて,皆さんは何を連想しますか? 昔話で恐縮ですが,精神科では,週に1回,Terminologie(テルミノロギー)という研修医向けの講義がありました。用語のみならず,その説明文までドイツ語でしたので,翻訳するのに精一杯,もちろん,入局1か月ほどの青二才で,実際診療として経験していないものですから,訳してもちんぷんかんぷんで,その時の講義内容をよく覚えておりません。しかし,講義が終わると,先輩や同僚合わせて8名ぐらいで一緒に夕飯となるのですが,普段近寄りがたい先輩方がとても冗舌になり,さっきのいかめしくゴツゴツしたドイツ語の塊を砕いて,“十八番”の苦労話や自慢話を交えて話し出し,その楽しさやワクワクした感じだけが今なお心に残っています。
本書の構成は,全体の44%を占める総論と,あいうえお順に見開き1ページにまとめた各論からなります。総論は,精神症状の理解,捉え方,治療関係とのつながりなど,精神症状を扱うための重要な枠組みについて,非常に丁寧に語られています。各論は,人口に膾炙しているものの,ともすると言葉が独り歩きしてあやふやな使い方になりがちなもの,提唱者の意図を解せずに不確かなまま用いると患者や治療者自身に負の影響を与えかねないものも含めて厳選し,簡潔かつ具体的に解説しています。症状を治療的に扱う留意点や工夫にも丁寧に触れています。
本書には,どこを抜粋しても,“冷めた料理”のような記載はありません。反対に,編著者と病者との誠実な交流を通じて,その苦悩を捉えて,言葉として取り扱いうる形にすることにいかに専心しているのか,そして,その努力こそが対象を人として尊び,丁寧な支援をするための大前提であることを思い知ることになります。彼らの紡ぐ言葉の息遣いや心遣いを追体験する貴重な機会になるでしょう。
例えるならば,孤独な診療が終わって帰路に着く途中に,思わず唾をごくりと飲み込むような匂いで湯気立つシチューが用意されていて,「一緒に食べよう」と誘ってもらえたときの気持ちかもしれません。
一つの精神症状について,膝を合わせて口角泡を飛ばし,ああでもないこうでもないと,鍋を突付きながら語り合う光景は,もう何年も精神科の現場から失われてしまったかに見えます。ましてや今は,ノスタルジアなどと淡い言い様ではなく,現実として許されない状況に日本中の医療現場が晒されています。
そのような日常を負っても,1週間に1つずつでも味わい進められるよう,52個のテーマに絞って編んだ本書の構成に,読み手を誘う編者の温かな眼差しを感じるのです。
精神科医としての存在理由を問うた覚悟の書
書評者:熊木 徹夫(あいち熊木クリニック院長)
本書は精神科の「症状学入門」である。「症状の把握は,精神科臨床のアルファでありオメガであるから,今更あらためて学ぶまでもない。常日頃,DSMも使っているし……」という向きがあるかもしれない。ではDSMさえあれば,診療は滞りなく行えるのか。本書は,精神病理学の泰斗たる編著者が,これまたベテランの精神科医たちと手を携え作り上げた,入魂の一作である。なぜあえて今,本書を世に問うたのか。私なりにその意をくんでみようと思う。
本書を通読し終えて,ふと過去に触れたソシュールの言語理論を想起した。その概略(ほんの一部ではあるが)は以下の通りである。ただ振り返るだけでなく,この理論は精神科症状学においてアナロジーが成り立つことを指摘していく。少し長くなるが,おつきあいいただきたい。
まず,個別言語共同体で用いられている多種多様な言語体を〈ラング〉,特定の話し手によって発話される具体的音声の連続を〈パロール〉と呼ぶ。〈ラング〉は潜在的構造であり,〈パロール〉はそれが顕在化し具現化したものである。この理論は,言語のみならず,あらゆる体系的分類においても援用できる。精神科症状学においても,しかりである。精神科臨床共同体ですでに承認されている種々の分類体系(既存の症状学)を〈ラング的分類〉,ある特定の精神科医によってそのうちに構成される独自の症状分類を〈パロール的分類〉と呼んでみたい。前者は「まず体系ありき」で,鳥瞰的・包括的・硬直的な傾向を有する。対して後者は「まず事象(具体的な症例)ありき」で,微視的・要素的・弾力的な傾向を持っている。では具体的に精神科医Aのうちなる〈パロール的分類〉はいかに構成され・改変されてゆくのか。例えば,Aの眼前に”山田太郎”氏が患者として現れたとする。もちろん,Aのうちにあらかじめある症状分類体系を参照枠とするのであるが,山田太郎氏はそれでは到底収まりきらない特異性を備えていたとする。その場合Aは,いったん独特な「山田太郎病」としてうちに取り込む。すると,先にあったAのうちなる症状分類体系が揺さぶりをかけられるがゆえに,カテゴリーの組み換えがドラスティックに行われる。こういった試行錯誤こそが,具体的な〈パロール的分類〉の実践である。乳幼児の言語獲得のプロセスもこれと全く同じで,眼前にある混沌を言語によって分節化することにより,同時に自らのうちに世界を生ぜしめる。世界の言語化(分類化)と意識化は,表裏一体である。
本書は,精神科医個々人がいかに意識的・戦略的に,自らのうちに豊かな〈パロール的分類〉を構成していくのか,またさらに脱構築していくのか指南したものである。その際,〈パロール的分類〉と〈ラング的分類〉とが曖昧なまま混然一体となる危険がある。実際に個々の〈パロール的分類〉が〈ラング的分類〉に変化を遂げるとき,いかなる条件が働くか。パロール当事者の“私という主体”が捨象され(これを〈主体抹消〉と呼びたい),分類の各項目が共同幻想化する。また,動的なものであっても静的にしか捉えられなくなる(これを〈標本化〉と呼びたい。昆虫の標本を思い描いていただくとよい)。DSMなどの操作的診断基準についての一番大きな問題点は,〈主体抹消〉が確実に行われておらず,たださまざまな〈パロール的分類〉を折衷的に合わせたものにすぎないのに,それがまるで〈ラング的分類〉のように取り扱われることである。それゆえに無批判な姿勢で,DSMを金科玉条のごとく,臨床の場においても恭しく扱うことについては,根本的に問題があるのだ。近年,それを意識した議論が,あまりに乏しいように思う。
かつてサリヴァンは「精神科診療において欠かせぬものは参与観察である」と言った。精神科的なかかわりは,間主観的であることが大前提で,涼しい顔で客観に徹することはできない。すなわち,精神科医の生々しい身体感覚(官能)を介して,患者とのあわいにあるものをつかみ出したり,すくい取ったりする必要がある。
本書の総論では,精神科医がどのような立ち位置で,どのような自意識をもって,臨床に向き合うべきか,それをかんで含めるように説いている。また各論では,診療の場において多くの医師が立ち往生する要諦について,単なる諸論文のレビューにとどまらない,現場の精神科医の体験・実感から引き出された生の声が表現されている。すなわちこれは,とても貴重な臨床覚え書きのアーカイブであり,編著者が自ら精神科医としての存在理由を問うた覚悟の書である。本書を通じ,後学が先達の言葉に対峙し,自らの臨床疑問をぶつけていくように読んでいくなら,必ずや多くの貴重な臨床経験が再体験されるであろう。
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