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≪シリーズ ケアをひらく≫

居るのはつらいよ

ケアとセラピーについての覚書

著:東畑 開人

  • 判型 A5
  • 頁 360
  • 発行 2019年02月
  • 定価 2,160円 (本体2,000円+税8%)
  • ISBN978-4-260-03885-0
「ただ居るだけ」vs.「それでいいのか」
京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!
*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。

●雑誌で紹介されました。
《生産する=役に立つという既定を疑う。著者の叫びの熱量に任せ、一気に読んだ。》――武田砂鉄(ライター)
(『サンデー毎日』2019年3月17日号「SUNDAY LIBRALY」より)
序 文
プロローグ それでいいのか?

「おはようございます」
「ん。」
「今日も暑いですね」
「ん。」
「タバコ、おいしいですか?」
「ん。」
「今日はこれで何本目ですか?」
「ん。」

ヌシは多くを語らない。それどころか、極限まで縮小された最小の言葉しか語らない。
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プロローグ それでいいのか?

「おはようございます」
「ん。」
「今日も暑いですね」
「ん。」
「タバコ、おいしいですか?」
「ん。」
「今日はこれで何本目ですか?」
「ん。」

ヌシは多くを語らない。それどころか、極限まで縮小された最小の言葉しか語らない。
口を閉じたままでも発音できる「ん。」。それだけをかすかに漏らす。
それがヌシのほぼ唯一の言葉だ。

そこは喫煙室だった。
便所と隣接しているせいでジメジメと湿気ていて、外の光が差し込まないので薄暗い。
便臭と消臭剤、そして濃厚なタバコの匂いが入り混じっていて息苦しい。
ヌシは朝から晩までそこで座っていて、「うるま」と呼ばれる沖縄ローカルの旧三級品タバコを吸い続ける。
一日に三箱は安タバコを空けてしまう。
だから、喫煙室の主(ヌシ)。

「それでいいのか?」

声がする。いつもの声だ。
僕もタバコに火をつける。「ケント1」という銘柄だ。
タールが一ミリグラムしか入っていないからスカスカした味がする。
ヌシがうるまを吸って、僕がケント1を吸う。
何もすることがないし、何をしていいかわからないし、どこにも行けないから、時間をつぶすためだけにタバコを吸う。
肺が重い。

「それでいいのか? それが仕事なのか?」

膨大な副流煙によっていぶされてしまったからなのか、ヌシの顔は燻製化されている。
皮膚が硬くなり、表情はこわばる。瞳は膜がかかったようで、暗い。統合失調症独特の目だ。
その目が空気清浄機をにらんでいる。いや、空虚に視線を吸い取られている。
街で会ったら怖いだろうな、と僕は思う。

でも本当のところ、ヌシは優しい。
ヌシはタバコを最後まで吸い切らない。ちょっと残して火を消す。
そして、吸い殻を、脇に控えているヤスオさんに渡す。
ヌシは生活保護費でタバコを買えるけど、ヤスオさんは家族がお金を管理しているから、自分でタバコを買うことができない。
だから、ヌシはあえて吸える部分を残して、火を消す。
「ありがとうございます」
ヤスオさんは小さく礼を言う。そして、吸い殻に火をつけて、煙を吸い込む。
「ん。」
ヌシも新しいタバコに火をつける。

「それでいいのか? それは価値を生んでいるのか?」

「いや、優しいじゃないか」と僕は言おうとして、本当にそれでいいのかわからなくなる。
ヌシはタバコを吸い続ける。風呂に入らず、洗濯もせず、ときどき失禁をするヌシからは強烈な匂いがする。
僕はそんなヌシをじっと見つめている。
うるまの煙で薫習(くんじゅう)された僕のポロシャツからも嫌な匂いがする。
することがないから時間が進まない。肺だけではなく、時間まで重たくなる。
不毛な時間が僕らを浸す。
だから、流れを変えるために、提案する。

「タバコ、交換してみません?」
ヌシはふしぎそうに曇った瞳をこちらに向ける。少し考えてから、うなずく。
「ん。」

ヌシはうるまを一本取り出して、僕にくれる。
ヌシとこうして過ごしていることで得た給料で買ったケント1を、僕は一本手渡す。
うるまに火をつけて、煙を吸い込んでみる。
廃屋を燃やしたような辛みと、鉄のように重たいタールが、肺に流れ込んでくる。むせる。
「ゴホッ」
咳が止まらない。
「ん。」

ヌシはケント1をにらみ、火をつける。煙を吸い込む。
そして一瞬ぽかんとする。スカスカの味に失望したようだった。
つまらなそうに、雑に煙を吹かして、さっさと火を消す。そして、ヤスオさんに渡す。
「ありがとうございます」
ヤスオさんはポケットに吸い殻をしまう。ポケットはパンパンになっている。
死神のような煙がつらかったので、僕もさっさとうるまの火を消してしまいたかったのだけど、我慢して吸い続ける。
ヌシはふたたび、うるまに火をつけて、チェーンスモーキングに入る。
僕らはただただタバコを吸って時間を過ごす。
喫煙室に静寂が訪れる。

「ん。」
最小の言葉と最小のライフだけがそこに残る。

「それでいいのか? それ、なんか、意味あるのか?」

答えることができない問いを前に、僕は答えることを諦める。
「わからない、居るのはつらいよ」
だけど、声は問いかけることを止めない。

「それでいいのか? それ、なんか、意味あるのか?」

そう、この本は「居る」を脅かす声と、「居る」を守ろうとする声をめぐる物語だ。
目 次
プロローグ それでいいのか?

第1章 ケアとセラピー ウサギ穴に落っこちる

第2章 「いる」と「する」 とりあえず座っといてくれ

第3章 心と体 「こらだ」に触る

第4章 専門家と素人 博士の異常な送迎

幕間口上 時間についての覚書

第5章 円と線 暇と退屈未満のデイケア

第6章 シロクマとクジラ 恋に弱い男

第7章 治療者と患者 金曜日は内輪ネタで笑う

第8章 人と構造 二人の辞め方

幕間口上、ふたたび ケアとセラピーについての覚書

最終章 アジールとアサイラム 居るのはつらいよ

文献一覧

あとがき