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対話と承認のケア

ナラティヴが生み出す世界

著:宮坂 道夫

  • 判型 A5
  • 頁 282
  • 発行 2020年02月
  • 定価 2,640円 (本体2,400円+税10%)
  • ISBN978-4-260-04161-4
人の物語に触れることが、なぜケアになるのか。ナラティヴ・アプローチ探究の決定版。
「患者の話を聞く」という行為は、その一言では到底説明しきれない奥深さと難しさがあり、専門的な行為として扱われてしかるべきものです。本書は、ナラティヴに対する誤解を解くことから始め、〈ケアする人〉と〈ケアされる人〉の二者関係を軸に、ナラティヴによる「解釈」「調停」「介入」を熟思し、なぜ「患者の話を聞くこと」「患者と対話することが」がケアになるのかを解き明かしていきます。
序 文
はじめに

「対話」「承認」「ケア」。
 本書のメインタイトルになっている、これら三つの言葉の関係は、思いのほか複雑である。
 人と人が対話をする。対話は、単なる会話でもなければ、情報交換でもない。それは、対等の立場で向かい合って話をすることであり、お互いの価値を認め合っていな...
はじめに

「対話」「承認」「ケア」。
 本書のメインタイトルになっている、これら三つの言葉の関係は、思いのほか複雑である。
 人と人が対話をする。対話は、単なる会話でもなければ、情報交換でもない。それは、対等の立場で向かい合って話をすることであり、お互いの価値を認め合っていなければ成り立たない。つまり、お互いを承認し合っている関係でのみ、対話が成り立つのである。
 これに対して、「ケア」という言葉は、いろいろな意味で使われる。本書では、病いを抱えている人へのケアを考えるのだが、それでもその意味はさまざまである。見知らぬ人が苦しそうにしているのを見て、「大丈夫ですか」と声をかけることもケアだろうし、その人が病院に運ばれて、高度な医療技術を駆使して行われる治療もまた、ケアである。
 では、ケアをする人とされる人とのあいだで、対話は成り立っているのだろうか――。
 おそらく、本書を手に取っている人の多くは、こう考えるだろう。
 「患者と対話をすること(あるいは、患者を対等な存在として承認すること)は、ケア者にとって、とても大切なことだ」。
 ところが、実際には、対話がなくても、ケアは行われている。
 たとえば、病人が意識をなくしていて、会話さえできなくても、救急車が呼ばれ、手術が行われる。その間、ケアをする人とされる人が、対話をする機会はない。あるいは、もっとありふれた場面、たとえば医療機関を受診した患者が、治療を担当した医師と話をする場面を考えてみるとよい。医師は患者の症状を聞き、治療について説明をして、同意書への署名を求めるだろうが、本当の意味で「対話」と呼べるような話をすることは、めったにない。
 医療従事者にとって、患者を自分と対等な存在として「承認」しているのは、ある意味で当然のことだろうし、時間をかけて会話をする余裕がないにしても、丁寧な態度や言葉遣いを心がけて、「対話」と呼べるようなコミュニケーションに近づく努力もしているだろう。
 それでも、「対話」や「承認」は、「ケア」を行うための必須要件ではなく、「実現困難な理想」として、心のどこかに沈められているものかもしれない。
***
 「ナラティヴ」。
 本書のサブタイトルに含まれているこの言葉は、「対話」「承認」「ケア」の関係に、新しい可能性を与える力をもっている。
 それは、対話や承認それ自体がケアになるという可能性である。
 本書では、この可能性を考えるために、「ナラティヴ」を手がかりに、ケアする人とされる人の二者関係を掘り下げていく。ナラティヴ(物語)について書かれた書物はたくさんあるが、本書がそれらの書物とどう違うのかと言えば、この「ケアする人とされる人の二者関係」を、最初から最後まで軸に据えていることである。
 よく言われるように、人は物語をつくりながら生きている。もっと言えば、「自分という存在」の意味や、「いまこうして生きていること」の意味を、物語をつくることで理解し、納得しようとする。これが、「私のナラティヴ」とか「自己物語」と呼ばれるものである。ナラティヴについて書かれてきたものの大半は、この「私のナラティヴ」を軸にしている。ケアとの関わりで書かれた本ならば、「私のナラティヴ」とはもっぱら「患者のナラティヴ」であり、医療従事者のような「ケアする人」は、その「患者のナラティヴ」に耳を傾ける人、すなわち「聞き手」の役割をもたされている。
 これに対して、「ケアする人」の側にもナラティヴがある、というのが、本書のスタンスになっている。ケアする人とされる人が完全に対等な人間だという前提に立つ、本来は次の二つを同時に考える必要がある、ということである。
ケアする私の前に、ケアされるあなたがいる。
ケアされる私の前に、ケアするあなたがいる。
 こうして並べてみると、「私のナラティヴ」とは、ケアをする人とされる人が、各々に抱えもっているものだということに気づく。もっと言うと、「私のナラティヴ」は、たった一人でつくりだすものとは限らず、「あなた」の前でつくられるのかもしれない。あるいはまた、「私のナラティヴ」を、目の前にいる「あなた」に、語って聞かせるかどうかは、あなたとの関係次第だということにも気づくのではないだろうか。

 もちろん、ある人が病気になって、別の誰かがその人のケアをしているとき、二人のあいだには、入れ替えのできない絶対的な立場の違いがある。私たちは、病気の人に成り代わることはできない。そのことをわきまえながら、ケアする人とされる人の二者関係を考え、対話や承認がケアになる可能性を考えてみたい。
***
 筆者のこうした構想を後押ししてくれたのが、実際に病気にかかった人たちの体験談であり、またケアの現場で誠実に働いている医療従事者たちの姿であり、さらには数多くの研究者や思想家たちの書いたものであった。
 筆者は本書を、プロフェッショナルなケア者である「保健医療」にたずさわる人と、家々の屋根の下で病者のケアをしている人に、ともに読んでほしいという気持ちで書いた。もちろん、病いを抱える人、いつかそうなる予感をどこかに抱いている人にも、本書が届いてほしいと思っている。そういう人たちが読みやすいように、できる限り、「病いの現場」で起こっている事例をあげながら各章を書いた。
 それでも、「ナラティヴ」というテーマを扱うには、いくつもの領域にまたがる学問的な話を持ち出さないわけにはいかないため、少し難しく感じられるところもあるかもしれない。とりわけ第二章は、文学や言語学の領域での物語論の概略や、哲学の領域の存在論と呼ばれるものに触れていて、「病いの現場」にいる人たちには、あまり馴染みのない感じを与えるだろう。
 しかし、これらの内容は、本書の内容を一貫したものとして構成するのに必要なものであり、いわば本書の「骨」のようなものである。読み飛ばしていただいてもよいのだが、そうすると、全体が骨のない姿に見えてしまうかもしれない。
 残りの各章のうち、第一章は、本書の趣旨を短いエピソードで理解してもらおうとした導入で、第三章は、ここで述べてきた〈ケアする私〉〈ケアされる私〉という二者関係についての内容である。第四〜六章には、ナラティヴを用いたさまざまなケア実践(本書ではこれらをまとめて「ナラティヴ・アプローチ」と呼ぶ)が整理して収めてある。この整理のしかたも本書独自のもので、「解釈」「調停」「介入」という三つの種類のナラティヴ・アプローチとして分類してみた。そこには、有名なホワイトとエプストンの「ナラティヴ・セラピー」から、これまで「ナラティヴ・アプローチ」とは認識されてこなかった数多くのケア実践まで、多種多様なものが収められている。筆者が取り組んできた臨床倫理の内容や、最近話題の「オープンダイアローグ」、あるいは「人生紙芝居」のようなものも入っている。一つ一つがキラキラと輝いていて、個性のきわだつユニークな取り組みだが、これらを「ナラティヴ・アプローチ」という大きな風呂敷のなかに包んでみた。
 このような内容に関心をもっていただけたなら、どうか本書を最後までお読みいただきたい。
書 評
  • 「ナラティヴ」から問う、看護とは?(雑誌『看護教育』より)
    書評者:吉田 みつ子(日本赤十字看護大学看護学部)

     本書は、これまで私のなかに浮かんでは消えていた「ナラティヴ」にまつわる2つの問いについて考える機会を与えてくれた。

     1つは、ナラティヴ、ナラティヴ・アプローチという一種のムーブメントが、医療、ケアのあり方に何をもたらすのかという問いである。看護現象を説明するための理論的基盤を探し求めてきた...
    「ナラティヴ」から問う、看護とは?(雑誌『看護教育』より)
    書評者:吉田 みつ子(日本赤十字看護大学看護学部)

     本書は、これまで私のなかに浮かんでは消えていた「ナラティヴ」にまつわる2つの問いについて考える機会を与えてくれた。

     1つは、ナラティヴ、ナラティヴ・アプローチという一種のムーブメントが、医療、ケアのあり方に何をもたらすのかという問いである。看護現象を説明するための理論的基盤を探し求めてきた看護学は、関連領域の理論を取り込んできた歴史がある。ゆえに、新しいムーブメントにはいつも敏感である。本書は、ナラティヴがヘルスケアにもたらすムーブメントの意味を、実在論と構築論という二つの疾病観に基づくヘルスケアを対比することによって浮かび上がらせる。医学論文で推奨されるエビデンスに基づく標準化された治療やケアを提供することを重要視する医療を「実在論的ヘルスケア」、ナラティヴ・アプローチに基づく疾病観と医療を「構築論的ヘルスケア」とし、これらを二項対立図式においたときに何が見えるのか議論されている。構築論的ヘルスケアにおいては、病気の原因は独立して存在しないし、唯一正しい説明もない。病気はそれを語る患者や、他の複数の人々の「文脈性をともなった語り」に基づいて構成されるととらえられる。よって、医療従事者が実在論的な医学的解釈枠組みに沿って都合よく話を聞こうとすることはナラティヴ・アプローチからは外れる。「ナラティヴ」の世界観においては、医療者がもつ知識やそれに基づく解釈も、患者の語りと同等に位置づけられる。つまり「ナラティヴ」は医療に携わる者が専門性のとらえ方を根本から転換することを求めている。

     もう1つの問いは、患者の語りを聴くことが看護ケアとしてどのような意味をもつかである。著者は、他者の「ナラティヴ」を「解釈」「調停」「介入」することが「専門的な」ケアになりやすいのは、臨床心理士のような職業的枠組みや相談外来のような制度のなかである場合だと述べる。すると看護師が行っている患者の話を聴くという行為は、「特に専門性のあるものではなく、自分たちが実践知として身につけているもの、あるいは看護の世界でよく言われる『患者のニーズに応える』という、いつもどおりの実践の1つ」と見なされてしまうと疑問を投げかける。確かに、患者の身体をともなった「ナラティヴ」は、看護師を否応なしに巻き込み、逃げ出すこともとどまることもできない状況に追いやる。のっぴきならない状況だからこそ生まれる対話がある。意図的に行われるばかりではない、看護の「聴くこと」をどう説明すればよいだろうか。これは簡単には説明できそうにないので、本書から与えられた私への宿題としたい。

     本書はナラティヴの学問的・実践的意味を問う学術書であり、看護とは何かを問いかけられた1冊でもあったように思う。

    (『看護教育』2020年5月号掲載)
目 次
はじめに

第1章 日々のケアにひそむナラティヴ
 1 日々のケアにひそむナラティヴ・アプローチ
 2 ナラティヴのブームと誤解

第2章 ナラティヴとは何か
 1 言葉の話
 2 文学と言語学の物語論
 3 現実世界の物語論
 4 ヘルスケアの物語論

第3章 ケアする私、ケアされる私
 1 〈ケアする私〉の物語論
 2 〈ケアされる私〉の物語論
 3 ケアし、ケアされる〈私たち〉の物語論

第4章 他者のナラティヴを読む――解釈的ナラティヴ・アプローチ
 1 医療制度の入口で
 2 急性疾患の臨床現場で
 3 慢性疾患の臨床現場で
 4 日常臨床での解釈的ナラティヴ・アプローチ
 5 ナラティヴの解釈が「ケア」になるとき

第5章 複数のナラティヴの前で――調停的ナラティヴ・アプローチ
 1 ナラティヴの不調和
 2 調停における実在論と構築論
 3 ナラティヴの調停が「ケア」になるとき

第6章 他者のナラティヴに立ち入る――介入的ナラティヴ・アプローチ
 1 心のケアと心の病い
 2 〈私の物語〉への介入

終章 ナラティヴがケアになるとき

文献・註
あとがき