べてるの家の「当事者研究」

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前作『べてるの家の「非」援助論』で,精神医療領域を超えて大きな注目を浴びた《べてるの家》で,今度は「研究」がはじまった。どうにもならない自分を,他人事のように考えてみる。するとなぜだか元気になってくる,不思議な研究。だから合い言葉は,「自分自身で,共に」。そして,「無反省でいこう!」

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
シリーズ シリーズ ケアをひらく
浦河べてるの家
発行 2005年02月判型:A5頁:310
ISBN 978-4-260-33388-7
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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I わたしはこうして生きてきました-サバイバル系
 1 摂食障害の研究-いかにしてそのスキルを手に入れたか
 2 「こころの壁」の研究-児童虐待からの脱出
 3 生活の“質(しち)”の研究-金欠を生き抜く方法
 intermission 1 ライブ! 精神科外来待合室で、岡本さんに出逢う
II 汲めども尽きぬ泉たち-探求系
 4 くどさの研究I-幻聴さんにジャックされる人、されない人
 5 くどさの研究II-〈くどうくどき〉は食いしん坊だった
 6 被害妄想の研究-幻聴さんだって自立する
 7 “暴走型”体感幻覚の研究-もう誰にも止められない
 intermission 2 ライブ! 幻聴さんとのつきあい方
III あきらめたら見えてきた-つながり系
 8 逃亡の研究I-統合失調症から“逃亡失踪症”へ
 9 逃亡の研究II-安心して逃亡できる職場づくり
 10 ケンカの仕方の研究-発展的別居のすすめ
 intermission 3 ライブ! 当事者研究ができるまで
IV 人生は爆発だ!-爆発系
 11 爆発の研究-「河崎理論」の爆発的発展!
 12 マスクの研究-俺は爆発型エンターテイナー
 13 「自己虐待」の研究-そのメカニズムと自己介入について
 intermission 4 「当事者」としてのわたしは、何に悩み、苦しんできたのか
V わたしたちの「当事者研究」-インタビュー
 14 わきまえとしての「治せない医者」
 15 わたしはこの仕事に人生をかけない

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「べてるの家」の核心をつく本
書評者:宮地 尚子(一橋大学大学院社会学研究科教授・精神科医(文化精神医学))

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 写真がいい。
 絵解きがいい。
 言葉がいい。

 本書の魅力を簡単に表現するなら、この3行に尽きる。と、ここで書評を終えてしまえたらラクなのだが、そういうわけにもいかないか……。

 浦河べてるの家は、小規模通所授産施設とグループホームと共同住居と、有限会社「福祉ショップべてる」からなる共同体で、精神障害を抱えた約150人ほどの人たちが、北海道浦河町で多種多様な活動をおこなっている。

 この、べてるの家については、「弱さを絆に」「三度の飯よりミーティング」「安心してサボれる会社づくり」といったキャッチフレーズが新鮮で、既に何年も前から精神医療福祉業界内外で大きな評判を呼び、いろんな形で紹介もされている。たくさん見学者が浦河まで訪れ、鷲田 清一や田口 ランディなど、哲学や文学関係の人たちの関心も呼んでいる。

 べてるの家のスピリットは、多文化間精神医学のスピリットとも一脈通じるものがあると思う。それはつきつめれば「多様性の尊重」と「個々のエンパワメントの重視」ということになるだろう。言葉にまとめてしまえば簡単だが、日々の営みの中で実行し続けるのはたやすくない。多文化間精神医学がそのスピリットをただのスローガンとして奉るだけにならないためにも、べてるの家で繰り広げられる日々の試行錯誤は、貴重なモデルになるだろう。

 今回取り上げる『べてるの家の「当事者研究」』は、べてるの家に関する多くの出版物の中でも特に、べてるの家のスピリットの核心をつく本ではないかと思う。それは「当事者研究」というところに、真正面から光を当てているからである。

 たとえば、山本賀代さん(自己病名=依存系自分のコントロール障害)と下野勉さん(自己病名=依存系爆発型統合失調症)のカップルは、同居生活の中でケンカがどんどん過激さを増し傷つけ合ってしまうことにとまどい、自分たちのケンカのメカニズムを明らかにする当事者研究を始める。

 はじめは研究自体が新たなケンカのきっかけになってしまうくらいだったが、徐々にケンカに「一貫性」と「法則性」があることが分析の中で見えてくる。もちろん、だからといってケンカが収まるわけではなく、それぞれの生育歴をふりかえったり、新たな事件を引き起こしながら、やがて「前向きな別居」という方向性を見出していく。

 そういったプロセスがていねいに山本さん自身の手で記され、文章の横には何枚か二人の写真が添えられている。べてるの家の総会でパンチング・グローブを賞品にもらい、二人のユニット名が「パンチン'グローブ」になった時の写真。雪景色を背景に、それぞれが別方向を向きながらタバコを吸っている写真。どちらも味がある。

 ほかにも、本書にはあちこちに当事者たちの写真が散りばめられていて、それらはあけっぴろげで、暖かい。写真の中で当事者たちは、等身大の姿をさらけ出し、自分たちの正直な思いをのぞかせている。個々人がバラバラに立ちながらも、同時にゆるやかにつながっている。

 「精神障害」という領域においては、当事者が実名を出し、写真を出すだけで画期的なこととも言える。生育歴などもかなり詳しく書かれてあり、親族縁者から文句がでないのか、こちらが心配になるくらいである。けれどもそのように精神障害を恥ずかしいこと、隠すべきことと捉えるありようから、まず自分たちが解放されなければ何も始まらない。その認識が当事者とスタッフ間で共有されているから、これほど血の通った写真になっているのだろう。

 写真以外に、まんがや図解、挿絵などの「絵解き」も本書にはふんだんに挿入されており、生き生きさを増している。これらの「絵解き」はべてるの家の日常でも活用されているようだ。

 当事者研究から生まれた《臼田周一の体感幻覚ボディマップ》や、林園子さん(自己病名=統合失調症・九官鳥型)の研究における《くどうくどき》キャラ、その反対の《あっさりほめお》キャラ、スタッフと仲間が作ってくれた《くどうくどきがやってきた!それはきっと暇なのよスゴロク》などからは、ヒーリング・コミュニティの力が深く感じられる。

 そして、言葉である。例えば、上記の《くどうくどき》は、《幻聴さん》や否定的認知によってくどくなってしまう症状に林さん自身がつけたニックネームであり、どんなときに《くどうくどき》が騒ぐのかを仲間と分析する中で、悩み・疲れ・暇・寂しさ・お金お腹お薬(の不足)という《なつひさお》自己チェック法を見出す。そして《なつひさお》への自己対処法は、食べる、仲間、語る・体を動かす、休む、すぐ相談・すぐ受診、おろす・送ってもらうという《たなかやすお》にまとめられる。

 このほかにも紹介したい言葉は限りないほどだ。こういった名付けは、もちろん心理学的手法としての「外在化」ともいえるし、グラウンディッド・セオリー法という質的研究法の基本分析プロセス、「コーディング」とも重なるものがある。けれども、なんだかそういった説明の仕方がばからしくなるほど、言葉そのものが楽しくて、生き生きしていて、力を与えてくれるように思う。

 べてるの家の日常はこういったユーモアや笑顔に彩られているが、実際にはトラブルだらけでもあるという。

 予測可能であることが重視され、組織が責任をとらずにすむよう、リスク・マネージメントという言葉が幅をきかせるようになった今の日本社会において、べてるの家のような、試行錯誤が重視される空間が存続し続け、広がっていくことは容易ではないだろう。けれども人が生きていくということは――生きていく価値があるのは――まさに人生が予測不可能だからでもある。

 べてるの家の哲学的深さはまさにそこにあって、精神医療専門家の役割が、国家に任命されたゲートキーパーでも、組織の中間管理職でもなく、個々の予測不可能な人生をサポートすることであることを当たり前のように思いおこさせてくれる。わたしもべてるの家を訪問したくなってきた。そこに行けば魔法があるわけではないことは知りながらも。

 本書が入っている医学書院の「ケアをひらく」シリーズは、編集がいいせいか良書が並び(本書の前には2002年に『べてるの家の「非」援助論』もでている)、急性疾患のキュア(治癒)モデル中心、還元主義的で自然科学モデル中心の医療界に風穴を開け、涼風を吹かせているように思う。今後、ますますの発展を期待したい。

「当事者研究」のススメ――「駄目な自分」と向き合えたなら(雑誌『看護学雑誌』より)
書評者:奥平 和美(京都大学医学部附属病院精神科病棟看護師)・阿部 邦子(京都大学医学部附属病院精神科病棟看護師長)

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 『べてるの家の「非」援助論』の第二弾『べてるの家の「当事者研究」』を読んだ。もう説明する必要もないかもしれないが,「べてるの家」は,北海道浦河町にある同名の社会福祉法人および有限会社「福祉ショップべてる」からなる共同体だ。主に精神障害を抱える16~70歳代までの約150人が,ともに暮らし,ともに働いている。

 「当事者研究」は,そのメンバー11人による,「自分自身」の研究である。生きづらさを生きやすさに変えるために,衝動行為や強迫行為など,自分でもどうしようもなく困っている部分を客観的に見つめ,自己・他者分析して,その内容を自分でまとめている。医療者に寄りかからず,自分の足で立ち,仲間とともに力強くあっけらかんと生きる「べてる流」がここでも光っている。

 私たちの病棟にも,生きづらさを抱えた人たちがいる。その看護に日夜あたっている看護師と師長とでこの本の感想を語り合った。

「病気の根っこ」を探る
阿部(以下,あ) この本に登場する当事者はみんな,個性的で,ひたむきで,お茶目で,イキイキと輝いているわよね。奥平さんはどの当事者がいちばん印象に残りましたか?

奥平(以下,お) 全員を挙げたいくらいですが,強いて言えば,当院にも多い摂食障害を研究した渡辺瑞穂さんです。渡辺さんは,「どうしたら摂食障害を治せるか」ではなく,「どうしたら摂食障害になれるか」を研究したんです。

 え?! それは摂食障害になることを推奨しているわけですか?

 いいえ。まったくその逆です。自分が摂食障害に至ったプロセスを,目を背けずに丹念に辿り,彼女なりにその原因を突き止めたました。
  摂食障害の患者さんの多くは,体重の増減ばかりに気を取られ,その根っこにある原因についてはほとんど考えません。だから,なかなか治らないし,治ってもすぐに再発してしまうケースが多い。
  渡辺さんは,「どうしたら摂食障害になれるか」という逆転の発想で,その“根っこ”を探ることに成功したんです。

 「どうしたらなれるか」がわかったから,「どうすればならない(再発しない)か」もわかったということですね。
  でも,実際には,摂食障害は難しい病気です。研究によって再発が予防できるのか。そういった意味では,私は正直,半信半疑です。

 私は,“根っこ”にみずから注目し,向き合ったことこそ素晴らしいと思います。

安心して病気になれる研究所
 「くどさ」の研究をした林園子さんも印象に残っています。林さんは,人に何度も同じことを言ってしまったり,衝動的に夜中に何度も電話してしまったりする強迫行為に苦しんでいました。そうなると,病院に行く以外なく,自分でもどうしたらいいかわからなかったそうです。
  ところが,べてるの家では,みんな「安心してくどくなったらいいよ」と言ってくれた。それで,徐々に自分の「くどさ」と向き合えるようになりました。
  そして,研究の結果,くどさの原因を5つ発見。「なつひさお」と名づけて,くどさに自己対処できるまでになったんです。

 「なつひさお」?

 「な」やみがあるとき,「つ」かれているとき,「ひ」まなとき,「さ」びしいとき,「お」金がない・「お」なかがすいた・「お」薬がないときにくどくなるということです。

 なるほど。脱帽だわ。

 さらに,林さんは,「なつひさお」のワッペンを作り,胸につけて,「くどさ」の状況をほかの当事者に示すようにしました。それを見た仲間たちは,励ましたり笑い飛ばしたり。林さんに,以前のような深刻さはありません。

 仲間との絆があればこそできることかもしれませんね。うちの病棟でやったら,たいへんなことになってしまうかも……。

精神科は生き方を学ぶ場所
 清水里香さんの言葉も心に残っています。7年間も病気の自分に苦しんだ清水さんは,べてるの家に来て,「駄目な自分のままでいい。諦めることは高等技術」と主治医や仲間に言われ,ようやく自分を受け入れ,楽になることができた。写真の彼女は満面の笑顔で,今は小規模通所授産施設「ニューべてる」の施設長を務めたりと大活躍しています。

 彼女たちが生きやすくなれたのは,周囲があるがままを受け入れた点も大きいでしょうね。私にはまだ,患者さんに「駄目なままでもいい」と言える自信がありません。

 私もそうです。そう言われたほうが,患者さんは楽なのでしょうか?

 う~ん,難しいですね。駄目なままフォローしてもらえる場が整っていればよいのですが。
  私は,合間に挿入されている対談に登場する岡本勝さんが印象に残っています。「精神科に来て,医者が治してくれると思っているんか。そんなもんあてにならんで。精神科に入院して,生き方を学んでいくんや」という言葉に感動しました。ぶつぶつ独り言を言いながら,いつも長靴でうろうろしている岡本さん。幾多の寂しさや孤独を乗り越え,べてるを訪れる人に本当のやさしさを与えている岡本さんに,ぜひ一度会ってみたい気がしています。

「べてる精神」に学べ
 私,最近,自分を見つめたり行動を振り返ったり,ぜんぜんしていないんですよね。忙しいせいもありますが,怖いからだと思います。

 怖い?

 はい。駄目な自分と向き合うのが怖いから目をそらしてしまっているのだと思います。

 互いの駄目さや弱さを認め,支えあう仲間がいないと,落ち込んでしまったとき,つらいですものね。これから「仲間」づくりをして,もし看護師の「当事者研究」ができたら,新しい自己発見につながり,悩みやストレスも軽減するんじゃないかしら。

 医師にも,ぜひこの本を読んでほしいと思います。薬物療法中心の精神医療,退院後も制度のなかだけで生きていくことが本当に患者さんにとって幸福なことなのか。当事者の力を信じて,医療者は長い目で見守るという方法は選べないのだろうか,と思いました。

 長い目で見守りたくても,在院日数短縮という制約があったり,薬を投与しなければ収益率が低下したり,なかなか難しい面を抱えています。
  ただ,この本から「べてる精神」を学ぶことは可能です。患者さんをあるがままに受け入れ,潜在する力を信じて待つ勇気。患者同士が支えあう力に任せる度量。たくましい父親のような温かい目と心が,べてる精神の根底にあるような気がします。それを育み,陰で支えたソーシャルワーカーの向谷地さんや川村医師の存在を,われわれ医療者は見逃すわけにはいきません。

(『看護学雑誌』2005年10月号掲載)

本を読むとき(雑誌『精神看護』より)
書評者:内藤 なづな(井之頭病院・看護師)

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 「当事者研究」とは何か。簡単にいってしまうと、精神障害をもつ当事者が、彼ら自身の暮らしにくさの中には何が起きているのかを、仲間と一緒に洗い出し、その付き合い方を探る過程を発表したものである。

 研究といっても何一つ堅苦しいものではない。それぞれの研究には1人ずつの病気をめぐるストーリーがつまっている。今は本に著せるまでになったが、ここにたどり着くまで本当につらかったのだろうと泣けてくる場面あり、一緒になってくやしさがこみあげてくる場面あり。だが、最後にはべてるの人々との今現在のやりとりが伝わってきて、温かい気持ちにもなれる。彼らのユーモアセンスはとてもレベルが高く、本当に笑える。そして読んだ後には、「うーん」と考えさせられる深い問題も投げかけてくる。

 彼らの目をとおして書かれた病棟の看護師像はかなりトホホな役回りなので、普段の自分を振り返って考えてしまう。優しい言葉をかけてほしいときに逆に叱られたとか、看護師が症状を薬だけで何とかしようとしていたとか。あるいは入院中、彼らが看護師をいかにアセスメントして操っていたかなど。

 べてるで当事者研究が始まるきっかけとなったのは、自己病名〈統合失調症・爆発依存型〉の河崎寛さんが起こしたある一件だった。入院中に自分の要求が親にとおらなかったことに腹を立て、病院の公衆電話を壊すという〈爆発〉をして落ち込む河崎さんに、ソーシャルワーカーの向谷地さんが、〈河崎寛〉を一緒に研究しようともちかけたところから〈爆発〉の研究が生まれたのだ。

 彼の研究を読んで、はっと思い出される患者さんがいた。

 彼女は、私と同じ20代で、おしゃれ好きな方だったが、欲しい服を買ってもらえなかったり、彼氏ともめたりするとぐずりだし、看護師に暴言を放ち、物を投げつけ、文字通り看護師泣かせな患者さんになった。

 その日もいつものように夕刻のナースコール攻撃が始まった。

 「もう入院なんて嫌だ。帰ります」。私はゆっくりと話を聞かせてもらうつもりで部屋に行ったが、彼女の機嫌は悪くなる一方で、最後には「もう役立たずだからあっち行ってよ。あんたみたいに経験のない女に私の気持ちなんてわかんないわよ。ザコ!」と、不満の言葉が、近くにあった本と一緒にぶつけられた。ちょうどその頃、別の患者さんからも自分の経験年数の浅さを皮肉られて、その悔しさを引きずっていたこととも重なって、私は彼女の一言で心底傷つき、同時にとても腹が立った。怒鳴り返したくもなったがそれもできず、私はなんとか「そうですか。わかりました」とその場を離れた。

 その後も彼女は何度も〈爆発〉を繰り返す一方で、ときどき「一緒に雑誌読もう」「メイク教えて」と妙に私に近寄ってくることもあった。私は彼女に対し、あの日の怒りの感情がくすぶったままであり、正直かかわるのは気が重かった。このままではよくないと思いつつも、いつ彼女がヘソを曲げるかわからない恐怖感も強かったため、自分の感情にも彼女の感情にも触れることができず、表面的な対応を続けていた。

 河崎さんが解明した、爆発に至るメカニズム〈河崎理論〉を読むと、彼女の場合も、私のウィークポイントを見事にとらえた〈爆発〉であったのだと思う。こんなことを繰り返す彼女に対し、「勘弁してほしい」という私たちの気持ちは高まっていったのだが、この繰り返しから抜けられないことに誰よりうんざりしていたのは彼女自身だったのかもしれない。自分が他人にどう思われているかということに敏感な彼女にとって、あの〈爆発〉の後、私が腫れ物に触るような対応をしていたことで、彼女なりに後悔し落ち込んだりしたのだろう。そしてこの事態を何とか取り戻そうと焦り、気を遣った行動が、私には妙な距離感に感じられたのかもしれない。

 神経をすり減らしながらの関係を続けることで、次の〈爆発〉のエネルギーが蓄積されていくという悪循環に陥っていたのではないかと考えると、そのときに彼女に必要だったものは、反省や自責感を強めさせるような対応ではなく、彼女の〈爆発〉について一緒に考えることだったのではないだろうか。そしてその前提には、彼女自身が自分の〈爆発〉について語ることができるだけの信頼関係が必要だったのだろう。

 彼女はそのような関係を私たちと築くことができないまま退院することになったが、爆発すると決まって退院したいといっていた彼女が、家族が引き取ることが決まってからは「私、退院させられるの?」「ここに置いてください」と言っていたことが苦く思い出された。

 自己病名〈統合失調症・九官鳥型〉の林園子さんの研究も、病棟での経験とリンクして考えることができて興味深かった。九官鳥型という自己病名は、幻聴や否定的な思考が入ってきたときに確認行為を繰り返す様子から付けられている。べてるに来る以前は具合が悪くなると、彼女自身も医療者も注射で何とかしようとしていたのだが、べてるに来てからは不調や困ったことはメンバーに相談するように勧められるようになり、彼女はそれまで1人で悩んでいたことを人に相談するようになった。そして失敗を繰り返しながらも人と付き合っていくことを繰り返すうちに、人とのコミュニケーションの楽しさや温かさを初めて知ったという。

 私が勤めているのは社会復帰病棟だが、入院期間は数か月から年単位になる人が多く、これだけの期間一緒に生活していても患者同士のつながりは意外にも希薄で、それぞれが孤独な日々を送っているように感じる。そのため患者さんは何かの問題が生じた時に1人で抱え込んでいるか、スタッフに丸投げしている場面が多く、それに対し看護師も保護的にかかわることが多い。こうした状況では悩みを抱えたもの同士がお互いに支えあう場も、それを乗り越える力を発揮する場もないのではないかと考え、私たちはお茶会として毎週患者さんが自由に集う場を設けた。お茶会を始めて4か月が経ったが、ここ最近では患者さんたちが自分の生い立ちや症状について自ら語る場面が増えたようである。

 ある日のお茶会で、普段はまるで優等生のようにまじめに病棟生活をこなし、自分が病棟のリーダーかのような責任感までもっている患者さんが、今まで私たちが知らなかったつらい幻視体験を打ち明けた。普段気を張って過ごす彼にとって、このお茶会の場が自分で作っていた殻を外して、楽に自分らしくいることを許せる場になったのか、安心して自分の弱さをも語れる場になったのかと、嬉しく思える場面だった。

 それでも、お茶会の場で、彼のような嬉しい変化を私たちが毎回感じられるかというと、そんなことはない。患者さんたちが支え合う場になっているともいえないことがある。場の収拾がつかないといったこともよく起こる。そうなると私たちもこのままお茶会を続けることに意味があるのかわからなくなり、不安になる。

 しかし林さんはこう書いている。「べてるに来て頓服に頼らず人の力を利用するようになったからといって苦労が減るわけではないが、べてるに来てからの苦労は“質のよい苦労”だ」と。彼女のいう“質のよい苦労”とは、1人ぼっちではなくて、人とつながることに安心を感じながら抱える苦労のようだ。

 これまで緊張した人間関係や、窮屈で屈折した関係を多く経験してきた人は、人とつながることで安心するといった経験をしていない人が多い。そういう人たちにとって、人とつながりを感じることができる場があることには意義がある。そしてその中では、人と話をして癒され、また活力が沸いて、自分自身が見えてくることも体験できるのである。そう考えるとお茶会は、安心して人と過ごせる場としてそこにあることに意味があるし、その場は継続してあることが重要なのだと励まされる気がする。

 当事者研究のキーワードは「自分自身で、共に」である。内在化されてきた自分自身の問題を、外在化させて考えていくところが実に新鮮である。後ろ向きな反省ではなく、前向きな探求であり、それを1人ではなく仲間と話をしながら進めていくことが鍵となっている。

 この本に納められている、それぞれの著者たちが抱える問題も、決して“解決”はしていない。問題は残ったままだ。だが、仲間同士でどう対処したらいいのかを話し合っていくうちに、不思議なことにそれはもう問題ではなくなり、“解消”されていくのだ。

 病棟で始まったお茶会が、この先、参加者同士がお互いに支えあえる関係として定着するには、誰かの相談が持ち込まれたときに、ああだこうだと話しながらも、「みんなに相談してみたら、意外といいこと言ってもらえた」とか、「みんな同じようなことで悩んでいるんだ」「人の相談にのってあげることができた」と感じる経験をしてもらうことではないか。それを積み重ねていくことで、お互いに相談してみよう、相談にのってあげようという関係になっていくのではないだろうかと考えるようになった。

 これまで患者に対して私たちが“与えて”きた解決策は、一時的な解決にはなっても、本当の解決にはつながらない。私たちにできることは、それを当事者同士が解決する力を発揮するチャンスに変えることなのではないだろうか。笑いとユーモアに満ちた本書の裏にあるメッセージを、私たちは見逃してはならないと思う。

(『精神看護』2005年7月号掲載)

この本いかがですか?(雑誌『助産雑誌』より)
書評者:川野 裕子(瀧澤助産院)

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 「べてるの家」について,もはやその説明は不要ではないかと思います。対人援助の場面において「『非』援助」という発想の転換やケアを見直すヒントが満載された前著(「べてるの家の『非』援助論」医学書院)に続き,今回はべてるのメンバーたちが,それぞれの人の抱える問題と,その対応を自ら研究したものをまとめた事実・生活・個性重視の結集本です。

 もともと,雑誌『精神看護』に「当事者研究」として4年間にわたり連載されていたものですが,あらゆる援助職の人に参考になるものではないかと思います。ケアする側には気づきにくい落とし穴を,ユーモアを添えて教えてくれています。

 摂食障害,被害妄想,幻聴,体感幻覚,爆発,逃亡など,精神科領域の症状とされるこれら目次にならぶ研究群は,決して「いかに治すか」ではなく「どのように付き合うか」を追求するために掲げられたテーマです。

 べてるには,いくつかのキャッチフレーズがあります。「弱さを絆に」 「三度の飯よりミーティング」 「昆布も売ります,病気も売ります」 「安心してさぼれる会社づくり」 「精神病でまちおこし」などですが,前著をとおしてこれらの言葉に出会い,私は自分の勤務する「助産院」という職場や,助産師として自分が直面している問題の扉を開く鍵のように感じました。

 決められた勤務時間があるわけでもない助産院勤務は生活そのもの,スタッフも妊婦さんもご家族との関係も垣根はあっても極めて低く,あらゆる意味で嘘は通じない。そんな状況に疲れを感じるのは,自分の弱さを隠そうとするからだったのだと気づかされました。べてるの家でくり広げられる人との関係性を読むうちに,「休みも逃げ場もない」のではなく「ここで休んで私を語る」,それが必要なのだと感じるようになりました。助産院という施設にしても医療がないことや搬送施設との関係,個性あふれる仲間との付き合い方,小さな職場ゆえの先の見えぬ問題は,「解決できないことが順調なのだ」と考えることで,肩の力がスーッと抜けるようでした。

 看護学生時代の精神科実習で,受け持ちではない20歳代の男性患者さんとすれ違いざま,「人間はみんな同じだから」と,一言だけ言われて立ち去って行かれたことがありました。今回の「当事者研究」はその意味を改めて解いてくれるものでした。当事者研究は専門家にも必要な作業だと思います。好きな仕事に食われてしまうのではなく,息長く仕事を続けていくため,そのような機会や時期が必ずあると感じます。

 「私はこの仕事に人生をかけない」というソーシャルワーカー・向谷地氏の言葉は,仕事に燃える人の急所にぴったりはまるようにも思えます。崩れてしまいそうな時,「支えてくれているのはこの大地や仲間で,立っているのは自分自身の足なのだ」そういうことを思い出させてくれるのではないでしょうか。

(『助産雑誌』2005年6月号掲載)

苦しみへのケアから発想を切り替えるきっかけに (雑誌『保健師ジャーナル』より)
書評者:飯田 祥子(長野県精神保健福祉センター)

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 “三度の飯よりミーティング”などのキャッチフレーズで知られる「べてるの家」の活動は,それまで精神保健福祉に携わった経験が浅かった私にとって,「目からうろこ」な出会いであった。“障害者と共生する社会”“ノーマライゼーション”など,机上ではさまざまな言葉が飛び交う。しかしながら,地域保健活動のなかで,「病気になったことは運が悪かった」「病気になった人は支援すべき人」との思いが私にあったのが現実である。ところが,べてるの家との出会いによって,精神障害者への思いだけでなく,自分自身の弱い部分も「これでいいかも…」と発想を切り替えられるきっかけとなった。

 そのべてるの家のメンバーが,当事者研究を始めたという。大変興味深いこの内容がこの度,書籍となってまとめられ,我々もその恩恵に与れることとなった。

 統合失調症による幻聴,妄想,摂食上の問題など,さまざまな症状に苦しんでいたメンバーは,本人も家族も疲れ果て,最後の望みをかけてべてるの家にやってくる。べてるの家では,病気は治らない。しかし,そこでは薬で症状を抑えることよりも,安心して症状を出すことができる環境が与えられる。さらに次の段階では,当事者がこの研究を通して互いに症状への対処方法をスキルとして学んでいく過程が本書に示されている。みんな悲嘆にくれているのではなく,実に前向きに病気を受け入れ,笑いにしてしまうゆとりすら感じることができる。

 有力な研究メンバーの1人が,本書のなかでこのように語っている。

 「研究というのは,学問のある専門家が私たちのような病気をした患者(当事者)をどうやって治療するのかを検討する方法だと思ってきた。しかし,最近べてるでは(中略)自分で自分を研究することが流行し始めている」さらに「だめな自分を受け入れるきっかけは,なんといっても『人と話すこと』だった」とも。このことは当事者研究の合言葉「自分自身で,共に」に集約されるだろう。

 統合失調症などによる対人関係の障害で,少なからず傷つき体験をしてきた当事者にとって,仲間のなかで救われたという経験は,大きな自信につながっていくことだろう。

 本書は病気に悩む当事者・家族はもちろん,自分の無力さを感じてしまったことがある支援者自身にとっても,発想を切り替えていくきっかけと元気をくれることであろう。『べてるの家の「非」援助論』に続き,精神障害を良く知る人にも知らない人にも楽しく読める1冊である。

(『保健師ジャーナル』2005年7月号掲載)

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