第2622号 2005年2月21日


特別寄稿

『ALS 不動の身体と息する機械』を読んで
――ALSの隠喩について(後編)

宮坂道夫(新潟大学医学部保健学科助教授・生命倫理学/医療倫理学)


<2621号前編より続く>

 「人間は自らの死に方を自分で決めてよいか?」――こう聞かれれば,多くの人が肯定するだろう。「ALS患者が,十分に納得して,人工呼吸器を外そうとしている。認めてよいか?」――こう聞かれても,肯定する人は少なくないかもしれない。「機械によって延命されている状態をどう思うか?」――前編(2621号)で紹介した患者のように,それを好ましく思わない人もいるだろう。

 しかし,果たしてこうした問いに対して,私たちは明瞭なイメージを持って判断を下しているだろうか。例えば「機械によって延命されている状態」について,米国でのカレン・クィンラン事件のことをイメージする人もいるかもしれない。

カレン・クィンラン事件とALS

 カレン・クィンランは,1975年に遷延性意識障害となり,家族が人工呼吸器の停止を求めたのに対し,入院先のカトリック系の病院が患者を生かし続けることを主張し,その争いが法廷の場に持ち込まれた。裁判所は最終的に人工呼吸器を取り外すことを許したのだった。

 だが,どれだけの人が,「ALS患者から人工呼吸器を外す」という状況と,「遷延性意識障害の患者から人工呼吸器を外す」という状況との違いを的確に区別できるだろうか。ALS患者には,正常な内的意識がある。彼らの多くが,限られた手段を使ってでも,意思表示をすることができる。ALSの問題を,カレン・クィンランのような遷延性意識障害の問題と類比して考えるには,条件があまりに違っている。

 このように,ある病気に関連した重要な意思決定が,その病気のイメージや類比,あるいは隠喩(メタファー)――何に似たものとして捉えるか――によって大きく影響を受けるというのは,先日亡くなった米国のスーザン・ソンタグが著書『隠喩としての病い』(みすず書房)で鋭く指摘したことである。

人工心臓,人工透析器との類比

 前編・後編にわけて論じてきたこの論考の最後に,ALS患者にとっての人工呼吸器を,人工心臓と人工透析器という2つの「人間のあみ出した機械」のどちらに近いと考えるべきか,読者に問いたいと思う。

 これらが最初に臨床応用された状況はきわめて対照的であった。人工心臓は患者をごく短期間しか延命することができなかった。このため患者に「恩恵benefit」よりも「危害harm」を与えているのではないかと見なされた。現在,人工心臓の改良が大幅に進んでいるが,免疫的拒絶の問題は,今日でもなお未解決の問題となっている。

 他方,人工透析器はそれとはまったく逆に,最初から著しい《恩恵》をもたらした。もちろん透析を受けることに伴う時間的・物理的制約はあるものの,腎疾患の患者は何年間,何十年間にもおよぶ生命を得ることができた。

 人工呼吸器が患者にもたらすのは,医学的には,「危害」よりも「恩恵」が大きいことは明白であろう。ただ,立岩も指摘しているように,いまだ未解決なのは,時として接続が外れて患者に死をもたらす危険性があること,そして痰吸引のような介護負担が発生することである。しかし,これは技術的に改良の余地があるだろう。現に,機器の改良や,痰吸引を自動化する試みも進められている。

資源配分の問題としての 人工呼吸器

 もし,ALS患者にとっての人工呼吸器が,人工心臓よりも人工透析器に近い位置づけになるのなら,問題はむしろ「それを誰が使えるのか」という資源配分の問題となる。

 1962年に,米国のシアトルの病院で世界初の透析センターが設けられた時に,この資源配分の問題は,後に大きな批判を浴びる方法で決められた。配分の方針を決める委員会は,医学的な基準のみでなく,その人の社会的価値を値踏みするような基準を加えた。つまり,定職を持っているか,子どもを扶養しているかといった属性に加え,その人のパーソナリティであるとか,家族の特徴までも検討事項に加えたのである。委員会は「神の委員会」と揶揄され,《誰が生き,誰が死ぬべきかを決める》という,神のような役割を演じていると批判された。

 この類比をどう思われるだろうか。ALS患者にとって,家族構成や家族の中の人間関係――関係が良好で,介護を引き受ける覚悟がなければならない――によって生きる・死ぬの選択が決められているのは,この「神の委員会」の状況に似ていないだろうか。ALS患者の「人工呼吸器の装着」を議論するにしても,このような「資源配分」の論点を欠くことはできないはずである。これについて,立岩は別の著作で興味深い議論を展開している(『自由の平等』,岩波書店)。

 医療従事者はどうしても目の前の患者やその家族しか視野に入りにくいのかもしれない。治療が不可能な疾患に対して,無力感を感じ,無関心になりがちだということは,たびたび指摘されてきた。立岩は「医療者は,なおらないことに否定的であり,同時に,なおらないで死んでいくことには慣れてもいるということだ。そして社会はそのような場に,(少なくとも今のところは)なおらない人を置いておく。その環境はその人が生きて暮らしていくのに快適なものではない」と書いている。

 これを皮肉な物言いと受けとめる人もいるかもしれない。しかし,残念ながら,「見捨てられた」ような感覚に打たれる経験をも,また多くの患者が味わっているのである。本書の引用【486】-【488】には,そうした悲しむべき実態が描かれている。

 希望しても人工呼吸器をつけられない人がいる。また,不幸なことであるが,本人ではなく家族の意向で人工呼吸器をつけない選択がなされる可能性もある。こうした可能性を考えれば,《はずす自由》の議論をする際には,《つける自由》が保障されていなくてよいのかという議論が不可欠だと思えてくる。

ALS患者の生を肯定せよ

 立岩の本は,医療従事者に対して,「ALS患者の生を肯定せよ」「患者の死ではなく生を支えよ」というメッセージを投げかけている。しかも,それは単なる同情論ではなく,理論によって裏打ちされたメッセージでもある。

 ALSに対しては,遺伝子や細胞のレベルでの研究が行われ,また介護を軽減するための機器や,コミュニケーションを支援するための技術の開発も行われている。もっと希望を持って,この疾患やそれとたたかう人たちを受けとめる視点が,医療従事者の中から現れてほしいと願う。なお,2月末刊行予定の拙著『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ――』でも,この問題は深く掘り下げて検討しているので,ご批判をいただきたい。


宮坂道夫
新潟大医学部保健学科助教授。早稲田大教育学部理学科生物学専修卒業後,阪大大学院では医科学修士,東大大学院で博士(医学)を取得。「生とは何か?」を問いの中心に据え,生命倫理,医療倫理学に取り組んでいる。訳書に『医療倫理-よりよい決定のための事例分析(1・2)』(みすず書房,2000・2001)がある。また,2005年2月末,弊社より『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ――』を刊行予定。

「宮坂道夫研究室ホームページ」
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka