医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第28回

神の委員会(9)
クオリティ・オブ・ライフ

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2558号よりつづく

【前回までのあらすじ】
1982年12月1日,ユタ大学医学部助教授ウィリアム・デブリースの執刀のもと,心不全患者,バーニー・クラークに,完全置換型人工心臓「ジャービック7」を埋め込む歴史的手術がはじまった。


歴史的手術の行方

 動物でのリハーサルを何年も繰り返し,万全の態勢で手術に臨んだはずのデブリースだったが,その思惑に反して手術は難航した。まず,クラークの心房壁が予想以上に薄く,人工心臓との縫合が困難を極めたのだった。さらに,苦労して縫合を終えたものの,装着したジャービック7が作動せず,結局さらに2時間かけて予備の装置と置き換えなければならなかった。
 手術が難航したこともあり,デブリースは脳塞栓の合併を心配したが,術後,クラークは順調に意識を回復,麻痺などの症状も見られなかった。しかし,術直後の順調な回復とは裏腹に,その後,クラークはさまざまな合併症に苦しめられることになった。まず,術後2日目に気胸が合併,クラークは再度手術室に戻らなければならなくなった(註1)。さらに,4日目からはけいれんを起こすようになり,以後,持続的に抗けいれん薬の投与が行なわれた。
 この頃から,クラークは「死なせてくれ」と医師団に訴えるようになった(註2)。落ち込んだクラークの気持ちをさらに落ち込ませるように,次から次と合併症が加わった。術後12日目には,人工心臓の弁が破損し,その修復のための手術を行なわなければならなかった。また,ヘパリンの持続投与が行なわれ,出血傾向の管理が難しかったのだが,1月半ばには鼻出血を止めるための手術が必要となった。
 しかし,最大の問題は,肺気腫に由来する呼吸不全だった。気胸の再手術が必要となったことはもとより,クラークは何度も人工呼吸器の使用と離脱を繰り返さなければならなかった。2月14日にはICUを出,一般病室に移ったものの,翌日には呼吸器が必要となったためにICUに逆戻りしなければならなかった。
 2月末に病状が回復,再び一般病室へ戻ることが可能となり,メディア用に,クラークが主治医団と談笑するビデオが撮影された(註3)。しかし,ビデオが撮影された翌日に嚥下性肺炎を発症した後,偽膜性腸炎や腎不全を合併するなど,クラークの病状は悪化の一途を辿った。人工心臓を埋め込まれてから112日目の3月23日,クラークは,多臓器不全により死亡した。
 死亡宣告後,クラーク夫人は「人工心臓の電源をご自分でお切りになりますか?」と聞かれたが,「夫はもう死んでいます」と,電源を切ることを断って病室を去ったという。電源が切られるまで,ジャービック7は,クラークの体内で1300万回近く拍動を続けたのだった。

人工心臓によって与えられたもの

 ユタ大学人工心臓チームは,手術の「成功」を主張したが,術後の患者の「クオリティ・オブ・ライフ」という観点からは,手術は「失敗」だったという批判が高まった。特に,ユタ大学チームの思惑とは裏腹に,クラークが息を喘がせながら苦しそうに話す姿がビデオで公開されたことが,「大きな機械につながれたうえに,苦しみながら生きるなどいや」と,社会一般の人工心臓に対する不信感を強める結果になったと言われている。
 クラークの死の直後,ニューヨークタイムズは,その社説で,「デブリースがクラークに与えたものは,生への120日間ではなく,死への120日間だった」と述べたのだった。

註1:クラークには心筋症となる前から高度の肺気腫があり,クラークを人工心臓置換手術の対象患者としたことが医学的に妥当な判断だったかどうかについては疑問視されている。
註2:大きな手術を受けた後に,患者がうつ状態となって「死にたい」と漏らすことは珍しいことではない(Intensive care unit psychosis:集中治療室精神病と言われる)が,術直後,ユタ大学人工臓器部長ウィレム・コルフとジャービック7の発明者ロバート・ジャービックが,「クラークは自らの判断で死を選ぶことができるように,人工心臓の電源のスイッチを切る鍵を持たされている」とメディアに語り,物議をかもした。真相は,人工心臓を駆動するコンプレッサーの電源が誤って切られることを防止するための「鍵」の意図を,コルフとジャービックが誤解していたもののようである。また,クラークがサインしたインフォームド・コンセントは,クラークが治験への参加を事後に取り消す権利を保証していたが,「取り消す」ことが具体的に何を意味するかについては触れられていなかった。
註3:メディアに公開されたビデオは編集されたもので,クラークが「苦しい」とか「死にたい」とか語った部分は一切省かれていた。