医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第27回

神の委員会(8)
ジャービック7

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2556号よりつづく

もう1つの人工心臓研究グループ

 クーリーが「ヒロイック」な手術でメディアの注目を集める一方で,黙々と人工心臓の研究を続けるグループがあった。ユタ大学の人工臓器研究グループだが,クーリーが使用した人工心臓が,心臓移植への橋渡しとして一時的な使用をめざすものであったのと違い,ユタ大学グループは,移植を不要とする永久使用をめざしていた。また,クーリーが「緊急手術」と称して,政府が定めたルールを無視する形で無理矢理人工心臓置換術を強行したのと対照的に,ユタ大学グループは,ヒトでの研究実施に関するルールを厳格に遵守し,慎重に第一号患者の選定を進めていた。
 ユタ大学の研究グループの創設者は,オランダ出身の医師,ウィレム・コルフだった。第二次大戦中の1943年に血液透析機を発明したことで知られるが,前述したように,彼が発明した透析機が慢性腎不全患者の治療に実用されるようになるまでには,1960年のスクリプナー・シャントの発明を待たなければならなかった(註1)。コルフは第二次大戦後,米国に移住,クリーブランド大学での研究を経た後,60年代にユタ大学に招かれて人工臓器研究部門を発足させたのだった。

ジャービックとデブリース

 コルフの下で人工心臓設計開発の中心人物となったのは,ロバート・コフラー・ジャービック(当時36歳)だった。外科医だった父親を心不全で亡くしたことが,循環器学に取り組む動機だった。父親の跡を追って医師となることをめざしたが,大学時代の成績が芳しくなかったためにアメリカの医学部には進学できず,イタリアのボローニャ大学医学部に留学した。2年後,ボローニャ大学をドロップアウト,生体工学の研究に鞍替えし,ニューヨーク大学大学院に進んだ。
 71年に修士号を獲得した後,ある企業に就職したが,その企業からコルフの研究室に出向させられたことが,人工心臓開発とかかわるきっかけとなった。ジャービックを気に入ったコルフは,ユタ大学に働きかけて,ジャービックを医学部に入学させた。ジャービックは,医学部在学中もコルフの研究室での研究を続け,卒業すると同時に,コルフの研究室の研究員となった。やがてジャービックが開発した人工心臓「ジャービック7」が,動物での最長生存記録268日を達成するまでになった。
 一方,人工心臓開発の臨床部門を担当したのはウィリアム・キャッスル・デブリース(当時38歳)だった。ユタ大学医学部在学中にコルフの研究室で働いたことが人工心臓と取り組むきっかけになったのは,ジャービックと変わらなかった。70年,ユタ大学医学部を卒業後,デューク大学医療センターで胸部外科を研修,やがて,ユタ大学医学部に戻り,人工心臓研究グループの臨床部門を担当することになった。82年当時,FDA(食品医薬局)の審査を通り,ヒトでの人工心臓治験実施の許可を得ていたのは,全米でもデブリースただ1人だけだった。ユタ大学は,FDAの定めに従い内部委員会を設置,人工心臓装着第一号となる患者の選定にとりかかったが,治験の基準を満たす患者はなかなか現れなかった。

「来るべき時が来た」

 完全人工心臓埋め込み第一号患者となったのは,シアトル市在住の元歯科医,バーニー・クラーク(61歳)だった。特発性心筋症による心不全だったが,「高齢」のために,心移植の適応はなかった。もともとユタ州出身であったこともあり,主治医が新薬の治験を受けさせようとユタ大学に紹介したのだった。ユタ大学を受診したクラークは,進行中の人工心臓研究に興味を覚えた。コルフの研究室を訪れ,ジャービック7を装着されて生きている動物だけでなく,ジャービック7を動物に埋め込む手術も見学したのだった。
 しかし見学時のクラークの病状は手術対象となるには「軽すぎた」し(註2),クラーク自身も「あんな大きな機械をつなげられてまで生きるなんてイヤ」と,手術を受ける気はなかった。しかし,病状が悪化するにつれて,クラークの気持ちは変わっていった。11月末,クラークは自らユタ大学の研究チームに電話をかけ,「来るべき時が来た」と告げた。
 クラークはヘリコプターでユタ大学に搬送され,治験対象となる基準を満たしているかどうかの検査を受けた。医学的基準を満たしていることが確認された後,クラークは,11頁からなるインフォームド・コンセントにサインし,人工心臓置換術を受けることに同意した。その24時間後,病院内部委員会がクラーク本人に直接会ってその意思を再確認するとともに,精神科医を含む別の医師グループもクラークの意思を改めて確認した。その後,クラークは,再度インフォームド・コンセントにサインした。
 手術は12月2日に予定されたが,その前夜,心室性頻脈が出現して状態が悪化,2日になるのを待たずに手術が行なわれることになった。デブリースの執刀のもと,ラベルの『ボレロ』が響く手術室で,歴史的手術がはじまった。

註1)2002年,コルフとスクリプナーは,血液透析機開発の功績で,ラスカー賞を共同受賞した。ちなみに,ラスカー賞は,「アメリカのノーベル賞」と言われている。
註2)患者選考委員会は「瀕死」の状態の患者を第一号患者とすることを決めていた。