医学界新聞

 

感染症新時代を追う特別報告

香港におけるSARS調査の経験

(3)台湾人医師事例,そしていったんのSARS制圧を受けて

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)

2542号よりつづく

国内でSARS患者が発生-台湾人医師事例

 2003年5月16日,近畿地方はすでに帰国した台湾からの旅行者グループの中にSARSを発症した者がいたことが判明して大騒ぎになった。「台湾人医師事例」と呼ばれることとなった,SARS確定例の国内滞在である。
 筆者は,偶然に17日より近畿に滞在していたことから,そのまま厚生労働省(以下,厚労省)派遣のグループに合流することとなった。その後,ある自治体からの協力要請を受けて,接触者調査および院内感染対策調査に加わった。
 その旅行者グループは,近畿地方の主な観光地をさまざまな移動手段を用いて周遊し,すでに帰国していた。発症初期であったことが幸いしたのか,国内では2次感染者は発生せずにこの事例は一応の終わりをみた。5月21日に厚労省が発表した台湾人医師の接触者調査状況によれば,対象者2615人のうち2513人について調査が行なわれ,未確認の対象者は102人,とされている。台湾人医師が利用した旅館・ホテルなどの情報は厚労省のホームページ(http://www.mhlw.go.jp/topics/2003/03/tp0318-1j.html)の中で公表された。以下は私見であるが,本事例のポイントとして,いくつかの点をあげてみる。

 1)アクションプランは自治体ごとに準備されるが,この事例における立ち寄り先は複数の自治体であった
 2)症例からの詳細な聞き取りに基づいて具体的な接触者のリストアップがなされるが,患者がすでに帰国後であった
 3)旅行内容の詳細な公表が行なわれた
 4)安全宣言として報道された自治体,厚生労働省による見解をどう取り扱うか
 5)自治体および厚労省など多くの関係

 などである。今後の対応にも大きく影響する経験として,得られた各ポイントについては,深く掘り下げて検討していく必要性があるだろう。

徹底かつ柔軟な接触者調査の重要性

 台湾人医師事例の経験を経て,微生物学的検査と並んでSARS事例に関する疫学調査が重要なSARSの感染防止対策であることが強烈に認識された感がある。現行のSARSコロナウイルス特異的病原体検査は医療上の診断目的としては認可されておらず,また感度が十分とはいえない場合があり,陰性であっても疾患としてのSARSを否定するものではない(http://idsc.nih.go.jp/others/urgent/update73-kensa.html)。
 それでは,SARSにおける疫学調査とはどのようなものか。筆者らは,症例(患者)調査,接触者調査,症例さかのぼり調査の3つを挙げている。その中でも特に,患者が感染を起こしうる期間に接触した者すべてが対象となる接触者調査は重要である。接触者の中でも特にリスクが高い高危険の接触者(濃厚な接触者)の確認を確実に行なうこと,接触者として認識された者すべてに毎日の健康状態を確認する(もしくはしてもらう)こと,自宅隔離の推奨・公衆衛生上必要なフォローアップも同時に行なうことなどが調査の目的としてあげられる。
 接触者調査は以前からも天然痘や麻疹などのヒト-ヒト感染の疾患で行なわれてきたが,各国のSARS封じ込め成功の一因として,この接触者調査の徹底があげられている。この調査の重要性については,接触者調査が不十分,すなわち接触者数の把握が不十分であったり,公衆衛生上の重要性が理解されぬまま,対象者が調査・追跡から漏れたりする場合は,接触者というだけでQuarantine(行動の制限)/Isolation(隔離)に向かわざるを得ない場合がある。
 さらに進んで,感染者が多く,あまりに多い接触者の範囲が把握できない場合(すなわち一般社会での広範な感染伝播が発生)には,Cordon Sanitaire(地域封鎖)が現実のものとなる点で理解できよう。発生国の体制や人権に対する考えによっても大きく変わるものと考えられるが,最初から地域封鎖に準ずるような対策を用いてSARSと対峙してきた国があることも事実である。わが国においても,流行状況によっては厳しい対策まで行かざるを得ない可能性があることを常に考えるべきである。
 この接触者調査成功のカギは,症例(患者)調査を十分に行ない得るか,という点に尽きる。台湾人医師事例では,患者の足どりに関する情報が非常に少なく,各自治体の接触者調査は容易ではなかった。

システムの柔軟さは,精度の高い患者把握に必須

 また,患者をいかに把握するか,という点について,基本的にわが国では世界保健機関(WHO)による患者定義をベースに用いてきた。WHOの定義では,症状として発熱に加えて咳などの呼吸器症状を求めているが,香港中文大の研究者らは,ある医学誌に「WHOによるSARS『疑い例』の症例定義では患者の4人に3人近くを見落とす恐れ(報道による見出し)」があるとして発表している。早期の症候群としての症例把握が唯一の有効な対策である2003年7月末現在,症例定義の設定ほど重要なものはない。
 しかし,この症例定義の設定ほど,柔軟性を持って対処すべき項目である。例えばシンガポールにて封じ込めに成功した理由として,(1)接触者調査によって高危険接触者に早くから目星を付けた,(2)少ない症状でも早めに隔離などを行なった,の2点をあげる情報がある。高齢者では発熱などの症状が出にくい特徴が指摘されているが,高齢者は致死率が高く,重症化しやすい傾向がある。よって,重要なことは,接触者調査の中で判明した接触の度合いが強い者(高危険接触者に分類)で,かつ高齢者などにおいては,何らかの少ない症状でも発現すれば,たとえ定義に合致していなくても,早期に対応を行なう柔軟なシステムの確立が必要となってくる。

いったんのSARS制圧を経て
わが国に今後必要な対応とは

 2002年11月1日より2003年7月11日までの累積患者数は8,437人,死亡者数は813人を数えた。この間,特にSARSコロナウイルスが2月末に航空機による国際旅行のルートに沿って世界中を動き回りはじめてから約4か月,WHOを中心として,人類はSARSとの戦いを続けてきたのである。そして7月5日,WHOは台湾をSARSの「最近の地域内伝播」があった地域の一覧表から除き,この結果,世界におけるすべてのSARS地域内伝播国・地域がなくなった,として発表した(http://idsc.nih.go.jp/others/urgent/update96.html)。
 まだワクチンや,有効な抗ウイルス薬の開発には時間がかかりそうである。しかし,WHOはこの冬にSARSが戻ってきても影響は軽くなると推測している
(http://idsc.nih.go.jp/others/urgent/update89.html)。いくつかの理由が同更新第89報(6月26日)にあげられているが,それらを項目としてまとめると以下のようになる。すなわち世界は,SARSの経験を経て以下の5項目を「実行しうる能力がある」とWHOは認識しているのだ。

 1)情報共有の徹底
 2)患者検出方法の向上
 3)院内感染対策の徹底
 4)システムの柔軟性
 5)国際機関の裁量権強化への協力体制の向上

 わが国では幸いなことに,これまでにSARS患者は発見されなかった(台湾人医師を除く)。しかしそれは,偶然に助けられた部分も大きかったのではないか,と筆者は考える。上記にあげられたそれぞれの項目について,わが国はWHOが求める要件を満たせるかどうか,そして足りない部分はどこか,インフルエンザとのオーバーラップが懸念されるこの冬に向け,体制の整備が急務である。
 中でもSARS対策の命綱と考えられるのは「精度の高い疫学調査の実施能力」「院内感染対策の徹底」であろう。それらをすべて下支えするのは,やはり徹底した情報共有に他ならない。情報を伝える手段として,各国で実施されたテレビなども含めた情報提供体制の整備,加えて国内外で科学的,客観的な情報をオープンに共有しうる体制や習慣の醸成が必要である。そして多様な情報の共有にも耐え得る国民としての力量を高める努力も必要となってくるであろう。
 それらの点における1つのプラス点(と筆者が考える)は,この感染症の登場によって,医療従事者,公衆衛生担当者,そして一般の人々における感染症全般および予防への関心が高まったことである。人類はSARSと遭遇し,感染症と人類の関係を再び実感したのだ。感染症はSARSだけではない。他の院内感染や麻疹,腸管出血性大腸菌O157,インフルエンザ,そしてこの夏にはウエストナイル熱の侵入もあり得る。われわれは内に潜むSARS,そして新たに登場してくるかもしれないSARSのような疾患について,足元を固めなければならない。(sunatomi@nih.go.jp


この項おわり