医学界新聞

 

感染症新時代を追う特別報告

香港におけるSARS調査の経験

(2)アモイガーデン事例における中間的な知見

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)

2537号よりつづく

アモイガーデン事例の端緒

 本年3月中旬,国立感染症研究所感染症情報センターより参加した筆者を含むWHO香港チームでは,P病院における院内感染事例の調査開始を経て,香港の医療従事者の新たなる非典型肺炎発症者数が日々減少していることに,微かな期待感が高まっていた。当時,われわれのミーティングでは,1日のはじめに前日報告された最終的な発症者数について1人ひとりが予測を立てる慣わしがあった。その数日間,日々の新規報告数は20人前後でそれほど減少しているわけではなかったが,間接的に伝わってくる情報によれば,医療従事者のそれは明らかに減少していたのだ。決して楽観的に考えていたわけではないのだが,医療従事者の新規患者減少という状況が,香港における非典型肺炎,すなわち重症急性呼吸器症候群(SARS)を制圧する最低条件であろうというところでは,われわれの意見は一致していた。
 しかし,3月28日朝,患者発生数についての予測を的中させた者はいなかった。前日の新規報告者数が一挙にその前日の倍である50人を越えた。これは医療機関におけるアウトブレイクではなく,九龍地区に立地しているアモイガーデンを舞台としたアウトブレイクであった。

初期の仮説設定

 アモイガーデン(Amoy Garden Complex)は,香港においてはよく見かけるタイプの(と筆者は思うが),各棟35階程度,10棟ほどからなる高層アパート群である。築10年以上が経過しており,各棟1000人以上の住人が居住していることから,このアパート群全体では1万5000人ほどの人口になると聞く。ショッピングモール,映画館などが併設しており,実際に訪れた印象では1つの町のようであった。
 3月31日のWHOのホームページ(http://www.who.int/csr/don/2003_03_31/en/)には,213人のアモイガーデン住民がSARS疑いと報告されていること(最終的には300人以上),当時,そのうちの107人がE棟住民であること,WHOチームはウイルスを含む体液が何らかの状況により各室・各階に侵入した可能性を検討中であり,これまで予想されたSARS感染経路の大部分を占める,人-人によるウイルス伝播に加わるものであることが述べられている。また,初期段階の流行曲線(エピデミック・カーブ)は急峻な一峰性の形状となっており,1回のみの病原体の伝播,すなわち単一曝露である可能性が考えられた。そのカーブの形状は,P病院における非典型肺炎の院内感染のそれと非常によく似ていたのだが,アモイガーデンの患者はワンフロアの病棟より発生したものではない。また,発端者と思われる33歳男性患者の症状として特徴的なのは咳ではなく,むしろ下痢であったのが際立っていた。この下痢と関連した食中毒や,水系感染の可能性についてわれわれは思いをめぐらせたものだ。空気感染であれば,人が密集したこのアモイガーデンの状況の中では爆発的な患者発生があるかもしれないと思われた。しかし,結果的にはそのような発生には至らなかった。
 われわれは,疫学的に詳細な検証を行なう前段階として,現場の状況視察,可能な範囲での患者からの情報収集といった,小規模な調査を行なった。それらによって,アモイガーデンE棟における患者発生の状況が特徴的であることが示唆された。すなわち,縦の構造に多く患者発生が集積していること,発端者が滞在したフロアより上の階に患者がより多く発生したことが確認されたのである。
 縦の構造において共通する単一曝露? いくつかの仮説設定作業の中で,われわれが把握していない,映画館などの共通の場所における曝露の可能性,リフト(=エレベーター)で曝露された可能性,風向きとほこりなどの関係,ペット・衛生動物との関係などが検証すべき項目としてあげられた。しかし現場の視察時に,われわれが1つ気になった点は,下水管が垂直に延びている構造であった(写真:撮影は筆者)。
 アモイガーデン事例が発生し,結果的に300名を超えて発生した患者をどう移送し集約的に隔離するか,さらに大量の接触者調査についてはどう対応するか,目前の問題として地元の保健担当者は非常に大きな努力を払わねばならなかった。すぐさま清掃,下水管を含む一帯の消毒が行なわれ,3月31日にはE棟居住者の隔離が大々的に行なわれた。10日間の隔離による健康監視が開始されたのであった。

「縦の構造」から見えたもの

 筆者が香港を離れて2週間ほど後の4月18日,WHO更新情報(第33報)
(http://idsc.nih.go.jp/others/urgent/update33.html)には,アモイガーデン事例の中間報告的なまとめが掲載されている。発表元は香港環境運輸労働長官であり,主に環境学的,実験的な研究結果に基づいて,SARSウイルスで汚染された下水汚物が可能性のある単一曝露源であると特定している。すなわち,浴室の便座と浴槽の間に位置する排水管のU字管が乾燥し,下痢便とともに発生したウイルスを含む飛沫(粉塵エアロゾルではない)が上階浴室の排気用換気扇の作用もあり配管を逆流する可能性があること,また,汚水配管のひび割れ,浴室窓の開口などが要因となって垂直に伸びている縦構造の凹構造の中で,空気力学的効果によりウイルス伝播に関与した,と考えられている。WHOはこの結果をかなり追従している。
 しかし,この更新情報でも述べられているように,本事例の感染源および感染経路については,さらなる調査が必要であろう。アモイガーデン事例は,さまざまな条件が重なると,環境を媒介して伝播が発生するSARSコロナウイルスの特徴的な可能性が明らかになった点でも重要であった。
 5月5日のWHO更新情報第47報(http://idsc.nih.go.jp/others/urgent/update47.html)では,SARSウイルスの生存期間が乾燥したプラスチックの上では48時間(香港,日本,ドイツの研究所による研究結果),香港のみからの報告では便中においては少なくとも2日間,下痢便中においては4日間生存し,尿中からは24時間生存可能であるという研究結果が示された。しかし,同情報にも言及されているように,SARSはその大部分が咳やくしゃみをした際の感染性の飛沫に,人-人経路で濃厚に曝露されることによって感染すると考えられており,環境の媒介が明らかとなった事例は,それ以前の某ホテルの1フロアに関連した事例を除けば,このアモイガーデン事例の他には知られていない。よって,飛沫感染に対する予防策の徹底が最重要であることが改めて認識され,頻回の手洗いを含む接触感染予防策の重要性についても説得力のある情報が得られた点で意義深いと考えられる。