医学界新聞

 

TOBO or not TOBO.それが問題だ~人生は逃亡だ!

2003年度 浦河べてるの家総会



 2003年5月16-17日,北海道浦河郡「浦河べてるの家」総会に,日本全国から500人を超える参加者が集った。精神障害者の小規模通所授産施設・共同作業所・共同住居である「べてるの家」では,精神病からの回復者を中心としたメンバーがさまざまな事業を展開,今やなんと年商1億円に達している。
 「非援助の援助」,「弱さを絆に」といったキャッチフレーズを掲げた精神病の当事者たちが,病とトラブルを抱えながらもいきいきと生きるべてるの家。ここではいったい何が起こっているのだろうか。総会に訪れた参加者には医療関係職者も多く,自分たちの抱える課題へのブレークスルーをべてるの実践のなかに求めて来た人も少なくないだろう。本号では,総会の模様を通じてべてるの家の活動を紹介したい。なお,20年間べてるとともに歩んできたソーシャルワーカー・向谷地生良氏へのインタビューを『看護学雑誌』8月号に,精神科医・川村敏明氏(浦河赤十字病院)へのインタビューを本号の別刷として掲載する。


「苦労を取り戻す」


前夜祭 べてるではお馴染み,爆発系ユニット「パンチングローブ」のオンステージ。バックで踊るのもべてるのメンバーたち。
 べてるのメンバーは今や130人を超す。今回の総会でも2人の“有望新人”が紹介された。1人は札幌から来たAさん。Aさんは中学生のころ登校拒否となり,16-17歳で家族に暴力をふるうようになって精神病院に入院。しかしそこでも,物品の破壊を繰り返し,とうとう札幌中の精神病院から入院を断られるようになった。
 そして,最後の最後でたどりついた浦河でも,Aさんは事件を起こしてしまう。公共施設内のトイレで,ハンドドライヤーを蹴飛ばし,壊してしまったのだ。しかし,その後の経過が札幌にいた時とは違ったのだという。

Aさん 今までだと,事件を起こしたら逃げてしまい,警察に捕まり,連絡を受けた母親が迎えに来て入院というのがパターンでした。壊した物も,全部親が弁償していました。でも今回は,事件を起こしてすぐ自首しました。弁償も,自分ができる範囲で,自分で返すことにしたんです。浦河に来て,そういう方法論に至ったんです。

 べてるには「苦労を取り戻す」というキャッチフレーズがある。精神病で事件を起こしたからといって,まわりが世話をやかないということだ。続くAさんの言葉には,Aさんが今,「苦労を取り戻そう」としている気持ちがよくあらわれている。

Aさん 僕は今まで,「自分を抑える」ことで苦労してきたように思います。でも,これからは「自分を抑える」苦労はやめて,「対人関係」で苦労していきたい,と思うのです。

4丁目ぶらぶら座 総会当日にはべてるの販売所「4丁目ぶらぶら座」でも,べてる関連商品の販売があった。販売にあたるのはもちろん精神病の当事者であるべてるのメンバーたち。総会の運営もすべてメンバーが協力して行なう。

「名古屋で元気より,浦河で病気」

 もう1人の新人は,林園子さん。林さんは長い間幻聴に苦しめられていたが,故郷の名古屋を離れて浦河に来てから,幻聴との付き合い方がうまくなったという。

向谷地 彼女が名付けた「クドウクドキ」という幻聴さんですが,並のクドサじゃない。林さんの悪口なんかをクドクド言い続けるんですよね。で,そのクドウクドキをいかにして「アッサリホメオ」にするのかが課題なんだよね。
 そうですね。最近は「丁寧に何度もお願いする」ことによって,クドウクドキも帰ってくれるようになってきました。

 べてるの家では,幻聴や幻覚体験を否定しない。それどころか,「幻聴さん」と名づけ,それらとうまく付き合っていく方法論を皆で考えることが日常的に行なわれているのだ。
 林さんは今回,幻覚&妄想大会(総会での恒例イベント。1年間でもっともインパクトのある幻覚,妄想体験を起こした人を表彰するもの)で最優秀新人賞に輝いた。林さんは受賞の挨拶で次のように述べた。

 私,名古屋にいた時,すごくつらかったんです。でも,浦河に来て,幻聴さんとのつきあいもうまくなってきたし,仲間も増えました。私,ほんとうに病気になってよかったと思っています。名古屋で元気になるより,浦河で病気でいるほうがいい,と思うんです。

今回の総会でも有望新人が紹介された。林園子さんは幻覚&妄想大会で最優秀新人賞を受賞。

「逃亡疾走症」

 べてるには「大学」もある。精神病の当事者が,自らの病気や生きづらさを研究するのが「べてる大学」である。今回は,「統合失調症」ならぬ「逃亡失踪症」を自称する荻野仁さんが基調講演を行なった。荻野さんは法学部卒。司法試験の会場から「逃げ出し」て浦河へやってきた。しかしその逃亡癖は浦河に来ても変わらず,大事な場面や職場からの逃亡を繰り返してきた。
荻野 皆さんもそうだと思うんですが,困難な場面に向き合った時,人は2つの方法を持っています。1つは困難に立ち向かっていくという方法,もう1つは,困難から逃げてしまうという方法です。
 ぼくの場合は,困難から逃げてしまうという情けない行動パターンをとってしまうことが多いのですが,それがどうしてなのかを研究してみると,司法試験に挫折した時に自分が考えたことに思いいたったのです。
 それまで僕は,社会や常識という価値観を絶対的なものと考えていました。しかし,挫折体験を通じて,それらが相対的な価値に過ぎないと考えるようになったのです。ほんとうに大切にしなければいけないことは,社会や常識ではなく,「ほんとうに大切にしなければならないものは何か,ということを探求していくこと」ではないかと思うのです。逃亡もその1つの方法だと今は考えています。

 荻野さんの逃亡論は,職場からの具体的な「逃げ方」についての方法論から,「逃走論から逃亡論へ」という高尚なテーマまで展開し,向谷地氏の「さすが弁護士だけあって,自己弁護がうまい」といった合いの手も入って,会場は笑いの渦に包まれた。
 べてるの家では荻野さん以外にも,多くの人が自らの病や生きづらさを言葉にしていく作業を行なっている。昨年横浜で行なわれた世界精神医学会では,それらを「当事者研究」として,べてるのメンバーが発表。精神医学会に新たな風を吹き込む試みとして,関心を集めている。


基調講演・荻野仁(右端)「逃亡失踪症」

20年間変わらなかった人


幻覚&妄想(G&M)大会 司会を務めた大崎さん(写真右)は,99年のグランプリ受賞者。向谷地生良さん(中央),松本寛さん(左)とともにG&M大会進行を務めた。
 2003年度幻覚&妄想大会グランプリは「ミスターべてる」こと,早坂潔さんが受賞した。べてるの家の「年商1億」も,早坂さんが10万円分の昆布を買い付けたことからはじまった。重度の解離性障害を抱え,仕事をしても3分しかもたず,ついたあだ名が「ウルトラマン」。べてるでもっとも有名な人物でありながら,これまでグランプリには縁がなかった早坂さんだが,今回,「成田入院」(漫画参照)で受賞となった。今年3月,べてるのメンバーとともに台湾に行った早坂さんは滞在中に発病。帰国後すぐに成田日赤に入院となってしまったのだ。
 受賞の記念品は,おもちゃのハンマー。これには早坂さんをめぐる伝説的なエピソードがある。
 10数年前のこと,解離性障害の早坂さんはご飯を食べている最中でも,発病すると身体が硬直してしまうことがあった。しかしある時,向谷地氏の息子がおもちゃのハンマーで早坂さんの頭を叩いたところ,硬直が解けて動き始めたのだというのだ。以来,川村氏の診察室には「早坂潔発作防止用ハンマー」が常備されるようになった。
 今回は海外で発病した時のために,少しコンパクトなタイプが贈呈された。


早坂潔さん
 
「無冠の帝王」返上! 「ミスターべてる」早坂潔さん(中央)がついにG&M大会グランプリを受賞した。密かに受賞を狙っていたという早坂さんはうれしそう。受賞記念として,「いわくつき」のピコピコハンマーの携帯版が授与された。

「苦労」を生き抜く

 べてるの家のすべてをここで紹介することはできない。しかしはっきりしていることは,ここでは精神病者の当事者が,病を抱えながらも笑い,怒り,悲しみつつ社会生活を営んでいるということである。彼らは,病気にだけ対面しているわけではない。商売や人間関係,その他さまざまなものに苦労しながら,日々の生活を送っている。
 病気だけではない,人が生きていくうえでのありとあらゆる「苦労」を生き抜く力が,べてるの家からは感じられる。べてるの家には「たくましさ」がある。
 なお,べてるの家では随時見学者を受け入れている。さらにべてるの家のことを知りたい方は下記まで連絡のうえ,訪問していただきたい。

「浦河べてるの家」
〒057-0024 北海道浦河郡浦河町築地3-5-21
TEL(01462)2-5612
FAX(01462)2-4707
E-mail:beteruie@ruby.ocn.ne.jp
URL=http://www.tokeidai.co.jp/beterunoie


べてるの家関連書籍
 昨年から今年にかけて,4冊のべてる関連書籍が発行された。さらにべてるについて知りたい方は以下を参照のこと。
◆『悩む力 べてるの家の人びと』(斉藤道雄,みすず書房,2002年)
◆『べてるの家の「非」援助論 そのままでいいと思えるための25章』(浦河べてるの家,医学書院,2002年)
◆『とても普通の人たち(ベリーオーディナリーピープル)北海道浦河べてるの家から』(四宮鉄男,北海道新聞社,2002年)
◆『降りていく生き方「べてるの家」が歩む,もうひとつの道』(横川和夫,太郎次郎社,2003年)
※問合せは書店もしくはべてるの家まで。

早坂潔,成田で発病 今回の受賞のきっかけとなった。台湾での発病のエピソード。「国際的に発病されたらもう賞をあげるしかない」(向谷地氏談)


特別寄稿「べてるの家の換起力」

田口ランディ
作家・コラムニスト。広告代理店,編集プロダクションの編集者を経て,作家デビュー。2000年に長編小説『コンセント』(幻冬舎)を発表し,本格的な作家活動に入る。また98年よりインターネットを通じて発行するメールマガジンは現在,11万人の読者数を誇る。田口ランディ氏の近況はホームページ(http://www.randy.jp/)で。

 2泊3日という短い滞在期間で,私は「べてるの家」にいくつもの疑問をもった。
 今はまだ,自分が疑問をもっただけで,その答えはこれから時間をかけて考えていくしかない。疑問をもつだけでやっとだった……,というのが正直な感想だ。
 私の1つ目の疑問は「なぜここでは,精神障害者がありのままの自分でいられるのか」ということ。
 すでに何冊もの「べてる本」が出版されていて,あたかも答えは用意されているようにさえ感じる。ニュースでも取り上げられ,ビデオも販売されている。「べてるの家」を訪れて来る多くの人は勉強して「答え」を知っていて,それを確認しに来る。
 実は私もそうだった。「非援助」「降りていく生き方」「悩む力」「がんばらない」……キーワードはたくさんある。だが,それがなぜ「今ここ」で「実現」できているのか,その理由は……?行ってみてもやっぱりわからなかった。私は何かにつけて外から枠をはめて物事を考えようとするが,それは「明日のことを心配する生き方」である。そんな余裕すらない人たちの「今,ここ」での生き方が,私には認識できないのかもしれない。
 2つ目の疑問は「べてるの家の背後にある物語は何か」ということ。
 べてるの家には,一般社会とは違う「べてるの物語」が働いている。
 私も含めて社会生活に身を置く者は「社会通念という物語」のなかで,一定の価値観に影響を受けている。「働かざるもの食うべからず」とか「人生の勝ち組,負け組」などなど。その価値観が崩壊していると言われて久しいけれど,そのわりには新しい価値観は出てこない。思えば,私たちは「新しい価値観」を創るよりも,高度成長期以前の古い価値観にノスタルジックに救いを求めている。だが,時間を巻き戻すことができないように,古い価値観を今の時代に適応させることは困難だ。それを試みるとどうしても陳腐になってしまうのだ。
 べてるの家の物語はノスタルジーではない。では何だろうか。なぜ彼らだけが「社会通念という幻覚妄想」から自由なのか。もしかしたら,彼らが統合失調症という病だからだろうか。そもそも「幻聴さん」を「友人」と呼ぶべてるの人たちには,社会通念も1つの幻覚妄想であるという暗黙知があるのかもしれない。べてるには,私が出会ったことのない「物語」が存在する。でも,それがどんな「物語」であるのかは,私にはまだわからなかった。
 3つ目の疑問は「医療と,治療と,ケアはどう違うのか」ということ。
 もしかしてその線引きをすること自体がナンセンスなのだろうか,と思わせる何かがべてるにあった。しかし,線引きをしないことが可能なのだろうか。浦河という町では「医療機関である病院は避難所であり,誰かの仕事場でもある」「作業所は医療所でもあり,娯楽所でもある」「住居は誰かの仕事場でもあり,ケアの現場でもある」というように,ひとつの場が複数の意味をもち,区分けが難しい。そのようなことが可能なのは,べてるの人たちが「統合失調」というそもそも境界があいまいな状態で生きているからなのだろうか。私はあまりにも境界が曖昧だと,かえって自分が辛くなる。線引きをしたくなってしまう。線引きをしてホッとしたりするのだ。それは逆の見方をすれば,「線引き」という病なのかもしれない。
 4つ目の疑問は,べてるの家のソーシャルワーカーである向谷地さんと,精神科医の川村先生のこと。「なぜこのお2人が,べてるの家を創り,存続させていくことが可能なのか」
 そのことを向谷地さんに質問したら「うーん。べてるの家に生き甲斐など感じていないです。そういうものを感じないようにわきまえています。もしべてるがなくなっても,私はぜんぜん平気ですよ」と,淡々とおっしゃった。この「べてるに依存しない」という深い決意には,とても胸打たれた。
 川村先生は「べてるの家でやれているのは,私のキャラだと言う人がいるけれど,キャラなんかではないです。誰でもできるはずです。ただ,自分にはできないと思いたいんでしょう」と語った。
 なぜ「できない」と思いたいのだろうと考えた。きっと,川村先生の実践している医療を選択した時「捨てなければならない何か」があるからだ。そして,私たちは捨てるのは怖い。手に入れたものは何でもとっておき,さらに新しいものを手に入れたいと望む。
 「もう捨てるものなど何もない」と言い切るべてるの人たちの前で,私がとまどうのは自分の背負い込んでいるものの重さだったりする。この重みを自分の人生だと感じているので降ろせない。それもまた「妄想」なのだ,とべてるの人たちは笑うのだが,私は背負うのも好きなのだ。
 結局,何もわからないまま帰って来た。
 ただ,「新しい物語は創れる」その可能性を直感した。「そんなことできない」と思っていたのだ。そして「社会システムが悪い」と責任を逃れてきた。さらに「社会システムは変えられない」と絶望してきた。
 そうじゃないかもしれない。まったく違う方法で,システムの中からシステムを浸潤し,システムごと溶かしてしまうやり方があるのかもしれない。そういう喚起力が,べてるにはある。