第2531号 2003年4月14日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第16回

Conflict of Interest(利害の抵触)(2)
裏切られた信頼

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2529号よりつづく

(前回まで:1999年9月,遺伝子治療の安全性確認試験にボランティアとして参加したジェシー・ジェルシンガーが,遺伝子治療が原因となって死亡した)

 ジェシーの死は,遺伝子治療による初の死亡例として米医学界に大きな衝撃を与えた。遺伝子治療の臨床試験を管轄する連邦政府食品医薬管理局(FDA)による調査が始まる一方,「健常」なボランティアが死亡するという事態に,遺族が治験チームを医療過誤訴訟で訴えることが予想された。
 しかし,ジェシーの父親のポール・ジェルシンガーは,「ジェシーの死については,医師たちは,父親の私と変わらぬショックを受けているし,責める気になれない」とペンシルバニア大学の治験チームの医師たちをかばった。さらに,「仮に人的な誤りがあったとしても,ジェシーの死のせいで,貴重な研究が遅れることのないように望む」と述べ,「同じ病気で生まれる赤ん坊を救いたい」とボランティアを志願したジェシーの死を無駄にしないよう,研究チームを激励さえしたのだった。最愛の息子を失ったにもかかわらず治験の継続を望むほど,治験チームに対するポールの信頼は厚かったのである。しかし,FDAの調査結果は,父親がペンシルバニア大学の研究グループに対して抱いていた信頼感を根底から覆すものだった。

FDAの調査

 FDAの調査がまず問題にしたのは,治験チームが,FDAに何の連絡もすることなく治験プロトコールを変更していたことだった。例えば,アデノウイルス投与直前のジェシーの血中アンモニア値は,本来のプロトコールによれば「高すぎて被験者としては不適切」とされるべきものであったが,治験チームは「これぐらいの上昇なら問題ない」とプロトコールを無視したのだった。
 また,この治験はアデノウイルスの安全性を確認するためのもので,被験者が蓄積するごとに投与量を上げるという計画の元に行なわれたが,ジェシーは治験の最終段階の患者で,計画最大量を投与された2番目の患者となった。しかし,ジェシーの前の4患者で重度の肝障害が合併したにもかかわらず,治験チームはアデノウイルスの投与量を増大し続けた。重度の肝障害が発生した場合はFDAに報告し治験の継続を中止するのがFDAとの取り決めであったにもかかわらず,その取り決めを無視したのである。
 さらに,ジェシーの死の直後,治験の最高責任者であるペンシルバニア大学ヒト遺伝子治療研究所所長ジェームズ・ウィルソンは,マスコミに対して「肝障害が起こったのはジェシーが初めてで,予測できない死であった」と説明していたが,ウィルソンの説明が事実と異なるものであったことも明白になった。ウイルスの投与量増量を決めたことについて,「ウイルスに改良を加え動物実験での副作用が軽い物に変えていたから大丈夫と思った」と治験チームは弁明したが,ウイルスの変更をFDAに届けていなかったこと自体もルール違反だった。
 さらに,並行して進められていた動物実験で,サルがジェシーと類似の多臓器不全を起こして死亡していたこともFDAには報告されていなかったことが判明した。そもそも,ジェシーがボランティアとなることを決意したのは,ペンシルバニア大学医学部小児科のマーク・バトショー教授が患者団体のホームページに寄稿した被験者募集の記事を読んだことがきっかけだったが,被験者をインターネットで募集したことそのものが,「被験者は医師が紹介した患者に限る」としたFDAとの取り決めに違反するものであった。

「利害の抵触」の存在

 FDAが問題とした第2点は,インフォームド・コンセントが不適切であったことだった。ジェシーの前に被験者となった患者たちに重度の肝障害が起こっていたことも,サルが多臓器不全で死亡していたこともジェシーには告げられず,治験のリスクに対する正確な情報が提供されていなかったのであった。
 FDAの調査で問題となった第3点は,「利害の抵触(conflict of interest)」であった。ジェシーが参加した遺伝子治療治験は,バイオテクノロジー企業のジェノボ社がスポンサーとなっていたが,ジェノボ社は,治験の最高責任者であったヒト遺伝子治療研究所所長ウィルソン自らが出資者となって創立した企業であった。ウィルソンは,治験が成功すれば莫大な財政的利得を得る立場にあったのである。治験チームは重大なプロトコールの違反を繰り返したが,「利害の抵触」の存在が,公正な判断を損なった可能性が指摘されたのである。

FDAが治験の中止を命令

 2000年1月21日,ジェシーの死の背景に重大なルール違反が数多く行なわれていたことを重く見たFDAは,ヒト遺伝子治療研究所で行なわれていた7件の遺伝子治療治験すべてに対し,その中止を命令した。2月2日,上院の医療・教育・労働・年金委員会は遺伝子治療治験に関する公聴会を開催,ジェシーの父親,ポールも招かれた。「今から考えると治験チームを信頼したのはナイーブだった。金を儲けたいということが研究の動機だったなんて知らなかった」と,ポールは,信頼を裏切った治験チームを厳しく批判した。そして,「ジェシーに治験に参加するよう強く勧めたのは自分だっただけに,一生立ち直れそうにない」と,居たたまれない思いを語ったのだった。