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≪シリーズ ケアをひらく≫

どもる体


著:伊藤 亜紗

  • 判型 A5
  • 頁 264
  • 発行 2018年06月
  • 定価 2,160円 (本体2,000円+税8%)
  • ISBN978-4-260-03636-8
しゃべれるほうが、変。
何かしゃべろうとすると最初の言葉を繰り返してしまう(=「連発」という名のバグ)。それを避けようとすると言葉自体が出なくなる(=「難発」という名のフリーズ)。吃音とは、言葉が肉体に拒否されている状態です。しかし、なぜ歌っているときにはどもらないのか? なぜ独り言だとどもらないのか? 従来の医学的・心理的アプローチとはまったく違う視点から、徹底した観察とインタビューで吃音という「謎」に迫った画期的身体論!
*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。
*本書で言及されている動画のいくつかをご紹介します。
■18頁
《彼にとっては、スキャットは自由にどもる方法だったと言います。吃音の「バグ」が、いわば自動生成的に発展したものが、あの高速スキャットなのです。》
⇒スキャットマン・ジョンの高速スキャット
 Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop) Official Video HD -Scatman John

 【https://www.youtube.com/watch?v=Hy8kmNEo1i8

■67頁
《『The Way We Talk』の予告編をネットで見たのですが、そのナレーションでも頻繁にどもりが生じていました。たとえばその冒頭、ナレーションは約8秒間にわたるtの連発から始まります。》
⇒マイケル・ターナーの「t」の連発
 『The Way We Talk』予告編ナレーション

 【http://www.thewaywetalk.org/
序 文
序章 身体論としての「どもる」

コントロールを外れた体

──あ、どうも
──いえ、こちらこそ助かります

 人間はよくしゃべる生き物です。他の動物からすれば、「体から頻繁に音を出しているうるさい生き物」といったところでしょう。

 言うまでもなく、言...
序章 身体論としての「どもる」

コントロールを外れた体

──あ、どうも
──いえ、こちらこそ助かります

 人間はよくしゃべる生き物です。他の動物からすれば、「体から頻繁に音を出しているうるさい生き物」といったところでしょう。

 言うまでもなく、言葉は人間の社会生活の基本です。私たちは日々、いろいろな人と言葉を交わしています。

 言葉は、多くの人にとっては「思ったらすぐに出る」ものでしょう。というか、自分がいったいどうやってしゃべっているのかなど、自覚していない人がほとんどではないでしょうか。

 「言葉」というそれ自体としては抽象的なものが、「体」の物理的な運動によって、「音」という空気の振動としてアウトプットされる。よくよく考えると、かなり複雑なプロセスがそこにはありそうです。

 ありそうですが、私たちがそのプロセスを意識することはほぼありません。あくまで「思ったらすぐに出る」のが言葉というものです。

 ところが、なかには言葉の出方が一筋縄ではいかない人がいます。「たまご」と言おうとしているのに、「たたたたたたまご」になって出てくる。あるいはそもそも最初の「た」が出ない。こんなふうに、思ったのとは違う仕方で、言葉が体から出てくるのです。いわゆる「吃音」と呼ばれる症状です。

 自分のものであるはずの体が、まるで自分のものでないかのように、勝手にしゃべり始める。スムーズにしゃべっていたと思ったら、不意に頑としてこちらの意図を受け付けなくなる。

 パソコンにたとえるなら、バグやフリーズを起こしやすい体、ということになるでしょう。キーボードを一度叩いただけなのに、「たたたたたたたたたた」と同じ文字がたくさん表示される。あるいはキーボードをいくら叩いても、まったくもって反応してくれない。

 本書のテーマである「どもる」とは、そんな「体のコントロールが外れた状態」を指します。自分のものであるはずの体が、不意に自分の手元を離れていく。そんな「体がはぐれていく」瞬間です。
 いったいどうやったら、この体は思いどおりに動いてくれるのか? どんなアプローチで接近すれば、この体は、言おうとした言葉を音にしてくれるのか?

 吃音を抱えている人たちは、独自の工夫によってバグやフリーズを起こしやすい体と付き合うすべを探っています。つまり、彼らは言葉が体から出てくるメカニズムについて、常に意識的にならざるを得ない人たちです。彼らは「思ったらすぐに言葉が出る」話者たちとはちょっと違う仕方で、言葉を体から発しています。

 つまり、ひとくちに「しゃべる」と言っても、言葉と体の関係は一通りではないのです。言葉を交わしている人どうし、実はまったく異なる仕方でしゃべっているかもしれない。そんな「しゃべる」の多様性に光を当てることが、本書の第一の目的です。

体が勝手にやってくれている

 体のコントロールが外れた状態としての「どもる」。なんだか大変そうです。コントロールが外れたと聞くと、なんとかしなければ、と反射的に焦ってしまいます。

 たしかに、コントロールできないことは、「困ったこと」です。

 体に限らず、そもそも私たちは「コントロールできないこと」をたいへん恐れています。鉄道の運行、交通網、金融取引、上下水道、物流、原発……そのどれか一つでさえコントロールを外れれば、私たちの社会生活はとたんに麻痺してしまうでしょう。

 麻痺するくらいならまだましで、人命にかかわる甚大な事故を引き起こす可能性もあります。安全・安心な生活のためには、コントロールこそ至上命令です。

 しかし、そんな「コントロールされた領域」のすぐそばに、「コントロールされていないもの」があることも私たちは知っています。特に日本のような地震の多い土地に生活する者にとっては、文明がまるごと不安定な大地の上に立っていることに、ときどき戦慄を覚えずにはいられません。交通や金融のシステムだって、絶対安全というものはないのであって、生活がリスクの不安から完全に解放されることはありません。

 体も同じでしょう。「コントロールされた領域」のすぐそばには、「コントロールされていない領域」が横たわっています。なにしろ生命の根幹である心臓の拍動すら、「勝手に」動いているのであって、私たちが自分でコントロールしているわけではありません。消化だって勝手に行われているのであって、痛みでもない限りその働きが意識されることはありません。

 では「歩く」や「食べる」のような運動はどうか。こうした運動はいわゆる「随意運動」ですから、内臓の動きとは違って、意識的にコントロールされているように見えます。

 しかし随意運動とて、事情は変わりません。たしかに、歩く速度を上げたり、食べる量をセーブしたり、といった調節を行うことはできます。大枠は「随意」です。けれども、関節を曲げる角度や口の開き具合、あるいは体重のかけ方について、私たちは体の細部にわたって逐一命令を出しているわけではありません。その多くは、体の物理的な構造と習慣の産物による自動化した動きであって、意識的にコントロールされたものではないのです。そうした「体が勝手にやってくれていること」にかなりの部分を依存して、私たちは生活しています。

自分のものだけど自分のものではない

 すぐそこにある、コントロールされていない領域。思い出すのは、子どものころによくやっていた、ある一人遊びです。

 遊びといっても単純なもので、階段を「一段抜かし」しながら、限界ぎりぎりのスピードで駆け下りるのです。家の近くの公園にお気に入りの長い階段があって、友達の家から帰る途中、あるいはおつかいの行き帰りに、しばしば立ち寄っていました。頂上から勢いをつけて駆け下り、下に着くとまたえっちらおっちら頂上を目指し、そしてまた駆け下りる……ひたすらその繰り返しでした。なんだか「階段ジャンキー」みたいな状態になっていたのです。

 いま考えると、あの遊びの快楽は、勢いづいた体がコントロールを外れて自分のものでなくなる、そのぎりぎりの境目を楽しんでいたのだと思います。

 階段のステップはかなり奥行きがあったので、足を思い切り広げて「たっ、たっ、たっ」と跳ぶように着地する必要がありました。すると、体の重みでどんどん拍車がかかり、ある瞬間から足が勝手に動き始めるのです。それは「下りている」というより「転がっている」に近い感覚で、やがて「このまま止まれなくなってしまうのではないか」という暴走のスリルも感じ始めます。

 別の表現をすれば、「ノる」と「乗っ取られる」の境目をさぐる遊びだった、と言えるかもしれません。階段を下りるにつれて、体は次第に「たっ、たっ、たっ」という規則正しいリズムにノっていきます。うまくノれているうちは順調です。ところがある地点からそれが「乗っ取られる」に変化する。思うより先に体が動いており、自分のものであるはずなのに、体が自分を追い越していくようです(のちにお話しするように、「ノる」と「乗っ取られる」は、本書の議論の軸となる重要なキーワードです)。

 おそらく「怖いもの見たさ」のような感覚もあったと思います。それはとりもなおさず、自分の体を手放すスリルでした。自分の体が自分のものでなくなる怖さ。と同時に実感するのは、体という、自分の手には負えないものをたずさえて生きているというゾクゾク感でした。特に成長期の体は変化が大きくてとらえがたく、体を手放したり手元に手繰り寄せたりしながら、その輪郭を確かめようとしていたのかもしれません。

 体がコントロールを外れることは、たしかに「困ったこと」です。でも事実として、体はコントロールできない領域を抱えており、そちらに乗っ取られてしまえば、体とは容易にコントロールを外れるものです。社会がどんなにコントロールを要求するとしても、それを構成する私たち一人ひとりの体は、やっぱりそんなに簡単にはできていない。そのことを垣間見る経験は、もちろん怖いことではあるけれど、遊びであれ、研究であれ、「体について知る経験」としては避けて通れない究極のものです。

 本書で「どもる」と呼んでいるのは、まさにこの「体のコントロールを外れたところ」に生起する経験です。

 吃音の当事者たちが実際に直面している苦労や不安を軽んじるつもりはありませんが、その経験を分析することは「自分のものでありながら自分のものでない体」をたずさえて生きるという、誰にとっても切実な問いに向き合うことにほかなりません。本書は吃音についての本ではあるけれど、吃音をひとつの事例として、この普遍的な問いに迫ってみたいと考えています。これが本書の第二の目的です。

モンローもキャロルも角栄も

 そうはいっても、吃音なんて、一般にはちょっと縁遠いトピックかもしれません。黙っていれば目の前にいる人が吃音を持っているかどうかなんて分かりませんし、「思ったのとは違う仕方で言葉が出る」と言われても、いわゆる「噛む」と同じことなんじゃないの? とうまくイメージできません(「噛む」との違いについては第2章で述べます)。

 でも実は、私たちが知っているような人たちのなかにも、吃音の持ち主と言われている人は案外たくさんいます。

 まず意外なところでは女優のマリリン・モンロー。彼女自身が、インタビューで一〇代のころの吃音経験について語っています。それから『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロル。哲学者のジル・ドゥルーズは、言語そのものを揺さぶり、自国語の内部に存在したことのない外国語を作り出してしまうような作家を、「言語をどもらせる作家」と呼んでいます。キャロルも、そのような作家のひとりと言えるかもしれません。

 文学者には比較的多くて、まずはノーベル賞作家の大江健三郎。武満徹の「吃音宣言」は、大江健三郎と映画監督の羽仁進という「二人の吃音家」に捧げられています。ちなみにこの「吃音宣言」は、ベートーヴェン第五の「ダ・ダ・ダ・ダーン」を「素晴らしく吃っている」と看破する愉快なテキスト。ほかにも文学関係では、井上ひさし、小島信夫、重松清などが吃音の経験をもとにした作品を書いています。

 昭和の大政治家・田中角栄が、吃音を克服するために浪花節をやっていたという話も有名です。あとでお話しするように、節をつけたり歌ったりするあいだは、吃音はほぼ一〇〇パーセント消えるのです。あるいはもう一人、政治に近い分野でいえば、ジョージ六世。彼はイギリスが第二次世界大戦に参戦したときの国王ですが、その演説をめぐる物語は『英国王のスピーチ』として映画化されました。

 もっと身近なところではフリーアナウンサーの小倉智昭。毎日のようにテレビに出演してしゃべることを仕事にしていますが、今でもマネージャーや家族と話すときには吃音が出るそうです。あるいは九〇年代にプッチンプリンのCMで大ブレイクした歌手のスキャットマン・ジョン。「スキービディビーダブダブダブ……」の高速スキャットで世界を驚かせましたが、彼にとっては、スキャットは自由にどもる方法だったと言います。吃音の「バグ」が、いわば自動生成的に発展したものが、あの高速スキャットなのです。

 そう、吃音について考えることは、たとえばマリリン・モンローが、あるいはルイス・キャロルが、あるいは田中角栄がどんなふうにしてしゃべっていたのか、それを仮説的に追体験することでもあるわけです。

 彼らは、私たちとは少し違う仕方で、言葉が体から出てきていた。それはいったいどんな仕方なのか――。ね、ちょっと興味わいてきたでしょ?
目 次
序章 身体論としての「どもる」
 コントロールを外れた体
 モンローもキャロルも角栄も
 「どもる言葉」でなく「どもる体」
 治るのか治らないのか
 「うまくいかない」は二元論、他

第1章 あなたはなぜしゃべれるのか
 「しんぶん」ってどう読む?
 「ん」は準備している
 マニュアル制御からオートマ制御に
 発声器官のモーフィング
 「かんだ(神田)さん」と「かただ(堅田)さん」
 なぜ一語だとどもらないか
 初音ミクはこうして吃音を克服した! 他

第2章 連発――タガが外れた体
 tの三〇連打!
 言葉の代わりに体が伝わってしまう
 どもる自分に笑ってしまう
 一か八かの「挑戦」
 他人事感覚
 「次、言えるかな」の手さぐり感、他

第3章 難発――緊張する体
 連発から難発へのメカニズム
 対処法としての症状
 バグを避けようとしてフリーズする
 連発は乖離、難発は拒絶
 扉の鍵がない!
 吃音スイッチ
 逃れようのない期待の前で
 なぜ独り言だとどもらないのか、他

第4章 言い換え――体を裏切る工夫
 三単語先にあいつが来る
 なかば自動の言い換え
 類語辞典系と国語辞典系の言い換え
 自分の名前でモジモジ
 音読は奴隷の仕事!
 ドッグトレーナーと犬
 言い換え自体に意味がある、他

第5章 ノる――なぜ歌うときはどもらないのか
 衝撃のバリバラ、ラストシーン
 「刻む」には「待ち」が必要
 リズムとは「新しくなく」すること
 不確実性減少装置としてのリズム
 運動の部分的アウトソーシング
 韻を踏むたび外に連れ出される
 「波づくり」の作業
 別人のような音読
 パターンの使用としての演技
 「ノる」とは「降りる」こと
 自己から「匿名態」への移行、他

第6章 乗っ取られる――工夫の逆襲
 なぜ実生活では使えないのか
 いつの間にか自分が犬になっている
 「うまくいく方法」が「私」を乗っ取る
 二重スパイ
 乗っ取りからの決別
 どもれるようになるまで、他

第7章 ゆらぎのある私
 「生理的エラー」と「工夫の誤作動」
 工夫→乗っ取り→自動化
 言い換え警戒派と言い換え共存派
 思考はしゃべると同時にわくものだ
 運動が運動を生み出す次元
 体との関係が変質するプロセス
 吃音という謎とともに生きる、他

注釈・文献
あとがき