〈前回までのあらすじ:1976年,ニュージャージー州最高裁は,遷延性植物状態の患者カレン・クィンラン(21歳)から,人工呼吸器を外すことを認める歴史的判決を下した〉
まず,判決は,医療と法との関連が問題となるとき,「法はこうあってほしい」という立場からの議論が,往々にして法律を「ねじ曲げて」解釈する傾向を生み出すことを指摘した。特に,終末期治療における患者の権利が問題となるとき,この傾向はとりわけ顕著になるとして,例えば,患者が延命を望んでいるにもかかわらず「死ぬ権利」があるとの根拠のもとに,延命治療を拒否することが主張されたり,逆に,宗教的観点などから延命治療拒否は「自殺」と変わらないと非難したりと,正反対の立場の「極論」2つを実例として挙げたのだった。さらに,延命治療の拒否と自殺との混同について,判決は,「自らを害する手段を故意に使用する行為」と,「もともと死が避け得ない状況で,人工的な延命処置の実施を拒否する行為」とは,根本的に違うことを強調した。
そのうえで,同州最高裁は,カレン・クィンランの主治医2人が,「呼吸器を外すことは現行の医療水準から逸脱するから外せない」と主張したことに対して,次のように反論した。まず,第一に,判決は,延命治療に関する医療界の「水準」が,曖昧かつ恣意的なものであることを指摘した。例えば,一審で「もし,カレンの現在の病状で大量の出血が起こったとしても,輸血や手術を行う医師はいないでしょう」と証言した医師がいたように,回復の見込みのない患者については,何が必要で何が不必要な治療であるかは恣意的に決められているのが現状であった。判決は,延命治療に関する当時の医療「水準」は,法廷の介入を拒否し得るだけの一貫性も合理性も有していないと結論づけたのだった。
その一方で,末期癌患者などに蘇生処置を実施することを差し控える慣行があることについて,判決は,この慣行を非難するのではなく,「回復の望みがない患者に対して行われる延命治療と,治癒・回復が望み得る患者に対して行われる延命治療とは,その意義が大きく違う」ことを指摘,「回復の見込みのない末期患者に蘇生処置や延命治療を差し控えることは,非常にバランスのとれた現実的な対処であり,『癒す』という医療倫理の基礎からも逸脱していないし,『正義の実現』という法の使命からも逸脱していない」と,お墨付きさえ与えた。そのうえで,カレンの事例については,生物学的植物状態を強制的に継続させることよりも,回復の合理的な見込みがあるのかどうかという点に判断の主眼を置くべきであると結論づけたのだった。
「複雑な」倫理的問題が生じた症例について医療施設内に設置された委員会で討議を尽くし,その意思決定の責任を分担する仕組みを,判決は,「上級審における複数判事による審理」にたとえた。さらに,判決は,倫理委員会の性格について,(1)権限は施設内に限る,(2)「強制」ではなく「助言」の機関とする,と規定したうえで,患者本人に意思決定能力がない場合,討議の過程で家族の意思を反映させることの重要性をも強調した。
判決は,憲法上の権利が問題になるなど,法律上のゆゆしき問題がある場合には法が医療に介入することが必要となるという立場を取る一方で,医療倫理上の問題が生じた症例について,いちいち,法の判断を仰ぐのではなく,倫理委員会を設置することで,医療が自分たちで解決することを求めたのだった。
(この項つづく)
註:判決は,ティールの論文『The Physician's Dilemma: A Doctor's View: What The Law Should Be』(Baylor Law Review 27:6-9, 1975)を長文にわたって引用した。