医学界新聞

  〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第96回

延命治療の中止を巡って(5)
歴史的判決(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2705号よりつづく

〈前回までのあらすじ:1975年,遷延性植物状態の娘,カレン・クィンラン(21歳)の人工呼吸器を外すことを認めてほしいと,両親が訴訟を起こした〉

州高等裁判所の裁定

 結審からほぼ2週間がたった11月10日,ニュージャージー州高等裁判所ロバート・ミューア判事は,「カレンの呼吸器を外してはならない」とする裁定を下した。「カレン・クィンランの呼吸器を外すべきかどうかを決めるに当たって何よりも考えなければならないのは,医学的事実と,主治医が患者に対して負う責務である。主治医が治療を続ける義務があると主張している以上,治療を続けなければならない」と,ミューア判事は裁定の理由を説明した。

 さらに,ミューアは,カレンの父親が娘の「代理人」として医療上の決定を行うことについて,「父親は,誠実かつ,徳義心・倫理感に満ち,信仰心も篤い」と,人物・人格的には立派に代理人となる要件を満たしていることは認めたものの,「娘の延命処置を停止することについて,多大の心理的葛藤と戦わざるを得ないことは明白であり,判断を曇らせる可能性がある」と,代理人となることは不適切であると決定したのだった。

 一方,カレン一家が主張した「宗教上の権利」を巡っては,「法廷は『霊的』必要よりも,『現世の』必要についてしか判断を下すことはできない。『現世の』必要を鑑みたとき,カレン・クィンランにとって一番重要な事項は『生命』であり,呼吸器を外して生命を絶つことは許されない」と,宗教上の権利に関する論争に直接立ち入ることを避けた。さらに,「ニュージャージー州の法律に従えば,動機のいかんによらず,呼吸器を外して患者の命を絶つ行為は殺人罪の要件を満たし得る」と,刑法上も呼吸器外しは認められないとする立場を取ったのだった。

州最高裁の歴史的裁決

 裁定から1週間が経った11月17日,カレンの両親は,ミューア判事の裁定を取り消すよう,州高等裁判所控訴審に控訴した。控訴の手続きが取られた直後,ニュージャージー州最高裁は,「事案の重要性を鑑み,控訴審での審理を省略して,最高裁が直接審理する」と異例の決定を下した。

 異例の決定から4か月以上が経過した翌76年3月31日,州最高裁は,高等裁判所の裁定を覆した。「父親を代理人とする」ことを認め,事実上,呼吸器外しを可能とする裁定を下したのだが,裁判官7人の全員一致による裁定だった。

 以下,ニュージャージー州最高裁が下した歴史的裁決についてその内容を概観するが,州最高裁が「呼吸器外しが許される」とした最大の根拠は「プライバシーの権利」()にあった。患者の自己決定権の法的根拠が「プライバシーの権利」にあることは以前にも説明したが,患者や家族が「命にかかわる」治療を拒否する際に,州など第三者が「命を守るため」と介入する状況は,稀にではあるが起こり得る。カレンの裁判でも,審理の過程では,一見,「患者の自己決定権」と「州が州民の命を守る義務」が対立する事例であるかのように論じられたが,ニュージャージー州最高裁は,「過去に『プライバシーの権利』よりも州が介入する義務が優先するとした判例は,介入することで健康を回復しうる状況」に限られたものであったことを指摘,カレンのように「回復の望みがない」ケースで州など公権力が介入することに疑義を呈した。さらに,「州が『命を守るため』と介入する義務と『プライバシーの権利』の保護と,どちらが優先されるかは,『侵襲の程度』と『予後』に依存する」とし,カレンが受けている延命処置は「回復の見込みがない」という予後に比べ侵襲度が大き過ぎるのであるから,州が「命を守る」義務よりも,「プライバシーの権利」の保護が優先されるべきであると決定したのだった。

 また,カレンのように自分で決定する能力がない「incompetent」な患者の「プライバシーの権利」をどのように行使するかについて,裁定は「本人を一番よく知る,家族による『本人の意思の推定』を受け入れる以外に合理的方法がない」ことを強調,「患者本人に決定することができない」という理由だけで治療を継続すべきではないとした。「憲法で保障された『プライバシーの権利』を,カレンに代わって,父親が代理人として行使するのが妥当である」と,ニュージャージー州最高裁は決定したのだった。

この項つづく

:日本で「プライバシーの権利」というと,「私事に関する情報を他人にみだりに知られない権利」という具合に,「個人情報の保護」に限定された権利として受け取られる傾向があるが,ここでいう「プライバシーの権利」とは,「私事に関する事柄について,政府や他の第三者から干渉されずに,自分で自由に決める権利」であり,「個人の自由・決定権」に及ぶ,広い内容を包含している。米最高裁が「プライバシーの権利」を憲法で保障された権利と認めた経緯については,第89回を参照されたい。