第2696号 2006年8月28日


「感覚的身体」の世界から出発する

北村啓氏(理学療法士)講習会(2006年7月2日/地域住環境研究所)より


 6年前に武術研究者の甲野善紀氏に出会って以来,古武術や野口整体など,「感覚的身体観」の世界に関心を持ったという北村氏。この日は実技を交えながら3時間弱にわたって,近代的な「客観的身体観」と「感覚的身体観」の対比を解説した。


身体を「機械」として見る

 今日のテーマは,「感覚的身体観」です。現在,僕たちがどういうふうに自分の身体を見ているかというと,機械論が支配的です。例えば皆さんは顔のことを言われるとむっとします。「目つきが悪いですね」などと言われると「ほっといてくれよ」と思う。しかし,首から下のこと,例えば「背骨が歪んでますね」と言われると,とたんに気になってしまい,直したいと考えます。

 つまり,現代人にとって,首から下は「自分」ではないということです。首から下の「身体」はコントロール可能だと思っている。もっといえば,「自分」が生きるための「道具」だと考えているわけです。

 機械論的に身体を見ることの問題点はいろいろありますが,1つは原因論に陥りやすい。体調不良があればそこには原因があり,それを取り除けば治るはずだと考える。現実には機械のようにはいかないわけですが,そういう発想が定着しています。

 あるいは,「正常値」という概念も機械論的な身体観の特徴です。平均と正常って,ちょっと考えればまったく違うことだとわかると思うんですが,あたかも同じことのように扱われています。例えば学校のテストで9教科すべて平均点ぴったりという人がいたら,誰が見たって異常なんですが(笑),身体に関しては,「平均=正常」という機械論的発想を受け入れてしまっています。

 こうした機械論的な身体の見方を「客観的身体観」と呼ぶことにしましょう。これに対してわが国では,「感覚的身体観」を文化として共有してきました。しかし明治以降,西洋発の客観的身体観を国策として受け入れてしまった結果,限りなく失われてしまった。それを何とか取り戻そうというのが今日のお話です。

限りなく死に近い身体

 感覚的身体観の大きな特徴の1つは,時間性があるということです。生まれ,成長し,やがて死ぬ。あるいは,過去と現在では身体が違う状態にある。そういった時間軸で身体を捉える見方です。

 この点では,先ほどの客観的身体を「空間的身体」と呼ぶこともできるでしょう。いずれにしても近代医学は,主にそうした「時間性が奪われた身体」を扱ってきました。時間性を取り入れてしまうと,厳密な意味での科学的観察は不可能になってしまうからですね。

 しかし,これは「限りなく死に近い身体」ということです。心拍数も脈拍も一定で変化しないというのは,生きている人間のあり方としてはかなり異常です。例えばICUであれば,人間の身体は,あたかも機械のように高い反復性・再現性を保っていてくれるでしょう。けれど,慢性期,あるいはリハの領域になると,生活し,変化し続ける人間が対象になる。安静という条件下で繰り返していたことが,日常生活の中でも同じように繰り返されると考えるのは無理があります。

変化する身体

 僕はそうした「客観的身体観」が間違っていると言うつもりはありません。そうした見方が有効なこともある。けれど,それが大ざっぱなものであるということは意識しておくべきです。僕らのように臨床にいる人間は,客観的身体観よりも感覚的身体観にしたがったほうがうまくいく,ということを経験的に感じています。歩行訓練の機械的反復ではなく,本人の「あ,歩けそう」という実感が,リハビリを成功させることがあるわけです。

 もちろん,「感覚でかかわる」というのはそう簡単ではありません。感覚は個々人によって異なりますし,即興でアプローチを変えていかなくてはいけない。しかし,少なくとも感覚からアプローチすることで,僕らの仕事の手がかりが無限に広がるのは確かです。[この後,実技を行う]

感覚的身体観を実感するための実技を指導する北村氏。実演が終わると,参加者同士,それぞれ2人1組となり,身体感覚の動かし方を体験する。日常では体験できない,身体が持つ不思議を体感する瞬間だ。

自分の身体を迎え入れる

 さて,今日,皆さんが体験したように,身体を感覚的に働かせると,一般的な身体接触とは違って,「ふっ」と相手と同化するような,気持ちのよい感覚があったと思います。

 野生動物の多くが身体接触を嫌がることからわかるように,実は,身体と身体が触れあうということは基本的に暴力なんですね。僕は,そうした暴力的接触を何とか超越しようとしてきたのが,感覚的身体観に基づいた日本文化だったのではないか,と考えています。

 他者をどうもてなし,どう迎え入れるかを「型」として示した茶の湯などは,その1つの完成形といってよいでしょう。そしてこれは,客観的身体として身体を「自分」から切り離してきた現代人が,再び自分の身体をいかに迎え入れるか,という課題に直結していると思います。

 みなさんは今日,この短い時間の中でも,「感覚的身体観」という考え方に実感を持つことができたと思います。感覚の世界では,万人が平等に天賦の才を持っています。ですから,そこを基点として,今皆さんが抱えているいろいろな問題に向き合っていただければと思います。