医学界新聞

 

【シリーズ】

この先生に会いたい!!

米澤傑氏(鹿児島大学教授・人体がん病理学)に聞く

<聞き手>蓬田健太郎さん
(日本医科大学5年生)


なぜ米澤先生に会いたいのか?

 病理医として,国際的に注目される論文を数多く発表しながら,テノール歌手としても高い評価を受けておられる米澤傑先生。医師と音楽家という二つのプロの仕事をこなしている米澤先生のことをお聞きして,医師として仕事をしながらも,他の活動も精力的に行うことは可能なのだと刺激を受けました。その原動力はどこから来るのか,ぜひ先生に伺いたいと思いました。


■論文が通った瞬間,それはまさに「ブラボー!」の拍手がくる一瞬と同じ

15時間で15曲録音

蓬田 先生のCD(「誰も寝てはならぬ/米澤傑テノール・オペラアリア集」)を聴かせていただきましたが,とても張りのある,力強い歌声でした。1人の人間の出す声で,あそこまで表現に幅が出せるものかと驚きました。

 お忙しい中,あれほど完成されたCDをお創りになるのは,相当大変だったのではないでしょうか。

米澤 私は,プロの音楽家と違って,別に本職があるので非常に時間が限られるんですね。あのCDは,ゴールデンウィークを利用して,ブルガリアのソフィアで録音しました。オペラが12曲,カンツォーネを3曲,全部で15曲ありますが,普通は1-2か月かけるのを,たった4日間で毎日連続,計15時間で録ったんです。しかも,欲張ってすごくハードな曲を選んだので大変でした。

蓬田 15時間で15曲!

米澤 1曲1時間以内ですね。しかもその1時間が,オケの練習や休憩も含めてですから,ほとんど一発勝負でした。松本美和子先生()は「今までそんな無茶した人はいない」って(笑)。

蓬田 相当の集中力ですね。

米澤 普通は,喉がもたないですね。でも,まあなんとか……。2004年1月に東京の紀尾井ホールでのコンサートで歌ったのですが,そのときの評判がすごくよかったんです。私はそれをただオケにのっければいいと思っていたのですが,松本先生が「レコーディングするんだったらイタリア人の声に変えなきゃ」と。ゴールデンウィークまでの残り3か月で,声を改造しようということになったわけです。

蓬田 短いですよね。

米澤 松本先生から声の改造を指導していただくとしても,先生は,東京とイタリアを行ったり来たりされていますし,私は鹿児島ですから,指導を受けるのがまず大変でした。

僕でなければ誰かがやる。それが悔しい(笑)

蓬田 先生は,国際的にも注目される論文を執筆されながら,プロの音楽家としての活動を両立していらっしゃいます。医学を捨てて,音楽に専念しようと思うことはないのですか?

米澤 それは絶対ないです(即答)。音楽と医学で,どちらが面白いかといったら,医学なんです。ですから,本当は病理一筋にしたほうが仕事もたくさんできるし,いいとは思います。

 それでも音楽を続けるのは,本音を言えば,僕がやらなければ,誰かほかの方がテノールを歌うでしょう? それが悔しい(笑)。突き詰めれば,それだけなんです。フルートを演奏なさっていて,そういう局面はありませんか?

蓬田 アマチュアですから,そこまでのプライドを持って演奏会に臨んだことはありませんでした。でも高校生のとき,風邪で演奏会に行けないかもしれないことがあって,僕のソロを後輩が吹くかという話が出て,それはちょっと許せないと思いましたね。

米澤 そうでしょう?

蓬田 「ここまで練習してきたのに」と(笑)。レベルがまったく違いますけど,そういう感覚なのかなと思いました。

米澤 いや,まったくそのとおりです。

大きなリスクがあるほど快感は大きい

米澤 音楽を続けるもうひとつの理由は,あの緊張感がたまらないんですね。フルートやホルンなんかは特に難しくて,音がクリッと裏返りやすいでしょう? テノールもそうなんです。五線譜より上の高い声を出すというのは,本当に非生理学的なことですから。しかも,そこが“聴かせどころ”で,お客さんは,その一瞬を待っているわけです。あそこで,クリッとなったらどうしようもない。だから恐いし,リスクも大きい。でも,大きなリスクがあるほど,それができたときの歓びや快感は大きいですね。いつもは本当に苦しいばかりで,うまくいったときの一瞬だけホッとするんです。次にはまた苦しみがありますから。「ブラボー!」といって拍手がくる,その一瞬だけです。

 医学の研究も同じです。苦労して研究して論文を書いて,有名な国際雑誌に投稿しても,なかなか一回では採ってくれません。今は論文の投稿もメールの時代ですが,以前は郵送でした。送った原稿がドサッと返ってくるとreject(不採択)だとわかる,うまくいってもrevise(改訂),そして「再投稿」です。再投稿して,封筒1枚だけが返ってきたときには,「やった!」と思うわけです。accept(採択)されると原稿は返ってこないんですね。中を開けて,「We are pleased to inform you……」とあるのを読んだ瞬間,それはまさに,うまく歌えて「ブラボー!」がくる,その一瞬と同じです。

蓬田 その一瞬が,医学と音楽を両立させる原動力になっているんですね。

米澤 ええ。誰よりも先に,自分が真実を見つけだして報告したい。音楽でも医学でも,少し高尚に言うなら真実を追究したいんですね。でも本音は,誰かにやられるのは嫌だという悔しさです(笑)。

「ダメでもともと」「出会いとご縁」

蓬田 音楽と医学が,互いにいい影響を与えることはありますか。

米澤 直接的にはないですね。特に病理はホルマリンを使いますから,喉には絶対悪いし,朝から晩まで顕微鏡を見て,癌か否かの最終判断をしているわけですから,肩はコチコチで精神的にも疲れて,音楽には決してよくないです。ボーッとして,何もしないでいるほうが,絶対にいい声が出るんですよ。

 でも,例えば国際学会とかで,昼はシンポジウムや講演で医学の話をして,夜はタキシードなり燕尾服に着替えて歌手をやっていると,皆さんよく覚えてくださるんです(笑)。

 CDと一緒に論文の別刷りを渡せば,それがきっかけで共同研究が始まることもあります。今,私どもの医局が連続的に留学をさせているネブラスカ大学も音楽がご縁です。ですから,結果的にそうやってご縁ができることについて,少しは得をしているかなと思います。

蓬田 僕も,音楽をやっていてよかったことに,自分の心が豊かになったと感じることと,人との出会いが増えたことがあるなと思っています。

米澤 そうですね。私が医学だけやっていたのではお目にかかれない方とお目にかかることができる。今日もそうでしょう? 私が病理だけしていたのでは,今日のこういう場はなかったでしょうし,そういう意味では,結果的に非常によかったなと思います。

 私のモットーの第一は「ダメもと」なんです。医学をしながら音楽をするのも,プロではないので,もし大失敗しても音楽界から切られるだけ,「ダメでもともと」というのがありますから。そして二番目が「出会いとご縁」なんです。出会うだけではそれで終わりで,それがご縁につながっていけば……と。

蓬田 音楽との出会いは何がきっかけだったのですか。

米澤 私の出身の徳島県の中学校のときに,先生に適当に選ばれて,県で合唱の大会があるからというので,合唱をしていたんですね。そしたらある日,徳島県の独唱の大会があるから出てみなさいと言われたんです。「え? 僕ですか。僕より上手な人が5人います」って(笑)。でも出てみたら,意外といい成績だったんです。高校でもずっと自己流で続けて,周囲からは音楽の道をずいぶん勧められたんですけど,医学部を選ぶことに迷いはなかったです。

 とはいえ,医学に強い志を持っていたのかというと,決してそうではないんです。英語も理学系も工学系も苦手,消去法でいって「医学部でも受けよう」と。いつも消去法で残ったものを選択してきたんです(笑)。

蓬田 大学時代は,音楽漬けの生活だったんですか。

米澤 そうでもないです。教養は,その頃の鹿児島大学では進級には60何単位でよかったのですが,私は111単位全部取りました。ラテン語とか,1人で受けてましたから(笑)。実は裏があって,ラテン語の先生がイタリアに10年くらい住んでいらした神父さんだったので,イタリア語の発音を習おうという下心もあったんです。

国際的論文の誕生は「まあいいか」から

蓬田 病理を志されたのは?

米澤 学生時代から腎臓の生理に興味があって,泌尿器科に行くと決めていたんです。でも外科系は救急ができなければいけないので,卒業してまず麻酔科に行きました。それから泌尿器科の大学院に入ったんですけど,泌尿器科の教授が「君は病理をやれ」と。

 言われたら「はい!」と宗旨替えをするほうなんです(笑)。腎盂腎炎で,糸球体にどんな変化が起こるかという研究をしてみたら,意外と面白い結果が出て,学位論文はそれで書きました。日本の病理学会の英文誌に出しましたが,当時,論文の別刷り請求が世界中から200通近くきましたね。

 その間に次のテーマを見つけて,今度は国際誌の“Nephron”という腎臓の雑誌に論文を出したら,通って大きな反響がありました。

 そのうちに,大腸癌を専門にされていた病理の教授から,私が蛍光抗体法をやっていたことで,それを応用して大腸癌の研究をしてくれないかと。本当は腎臓の研究に燃えてたんですけど,大腸は管で,開けば二次元になりますから,構造も簡単だし「まあいいか」と(笑)。そしたら,またそこでも面白いことを見つけたんです。それは,UEA-I というレクチンの染色性が,大腸の口側と肛門側で違って,それが癌になると高率に染色されるということです。それが“Journal of National Cancer Institute”という,レベルの高い雑誌に通ったんです。

 そしたら,次は「食道癌をやれ」と。食道も開けば二次元ですから「まあいいか」と(笑)。それからアメリカへ留学して,そこで膵癌の培養細胞をやったのがきっかけで,帰ってきたら膵癌の話が来て。今度は三次元ですから,いちばんヤヤコシイところです。

 そしたらまた世界で初めてのことを見つけることができました。ムチンという粘液の主成分の研究ですが,予後の悪い浸潤性膵管癌,いわゆる膵癌ではムチンの中でもMUC1が出て,MUC2は出ないのに,予後のいい膵管内乳頭粘液性腫瘍は,MUC1が出ずに,MUC2が出ることを発見して,それが“Cancer”という有名な雑誌に通ったんです。どうもMUC1は悪玉でMUC2は善玉みたいだとわかったんです。最近,MUC4が悪玉だということも見つけました。

視点を変えてみると何かが見えてくる

蓬田 先生にとって,出会いはいつも偶然なんだけれども,そのあとのめりこむというか,夢中になって何か面白いものを見つけるエネルギーがあるんですね。

米澤 結果的にはそうなのかもしれないですね。それに,「ダメもと」の精神がずっとあるんですよ。それでうまくいかなくてもいいわけですから。

蓬田 道を自分で選んできたというより,置かれた環境で面白いものを見つけてしまわれるのかなと思いました。

米澤 そうですね。最近家内が婦人向けの雑誌を読んでいたら,大江健三郎先生が「何ごとでも,ちょっと注意すればいろいろなことが見えてくる」という意味のことを書いておられたというんです。大江先生のように「いつも」はできませんが,ちょっと気をつけていると何か見えるなというのを時々私も感じるんですね。

 今,日本人はみんな疲れすぎていて,何かにちょっと注意しようとしないですよね。ちょっと注意するとか,ちょっと視点を変えてみる。時おりそうすると,意外と見えることがあるかもしれないです。

蓬田 「ダメもと」,「出会いとご縁」,先生のようにチャレンジ精神を持っていろいろなことに取り組めば,今生きている世界も見方がだいぶ変わるのでしょうね。本日はどうもありがとうございました。

2005年11月,藤沢市民オペラで,壮大なオペラ「トゥーランドット」の主役である「カラフ王子」を演じた。その後,トリノオリンピックでの荒川静香選手の演技で有名になったアリア「誰も寝てはならぬ」を歌っている場面(写真右:第3幕)と,フィナーレの場面(写真左:中央が米澤氏が演じるカラフ王子)。このオペラ(11月27日公演分)のDVDの問い合わせは,藤沢市芸術文化振興財団(電話0466-23-2415)まで。

:米澤氏の声楽の恩師であり,世界的なソプラノ歌手。米澤氏の妻・悦子さんは松本氏の影響でピアニストからソプラノ歌手へと転向。多忙な夫に代わり自ら松本氏のレッスンを受け,米澤氏にアドバイスをする。米澤氏を音楽面からも支えているのであった。


聞き手●蓬田健太郎さん
日医大5年生。12歳からフルートを始め,中学・高校・大学では吹奏楽を,大学ではオーケストラ,室内楽,ジャズバンドでも活動。日医大ではハンドボール部に所属。
医療管理学教室にてインターンとして学び,日本の高齢者・患者の置かれている社会的な問題点についての研究に携わる。また,アメリカにおいて医師患者関係,患者の環境について学び見識を深める。

米澤傑氏
1979年鹿児島大医学部卒。現在,同大学教授(人体がん病理学)であり,同時にテノール歌手でもある。主要な研究に,「ヒト腫瘍におけるムチン抗原発現と腫瘍の生物学的悪性度との関連の研究」があり,MUC1やMUC4の発現が予後不良因子であり,MUC2の発現は予後良好因子であることを明らかにした。声楽では,日伊声楽コンコルソ入選,太陽コンコルソ・カンツォーネ・イタリアーナ優勝,日本クラシック音楽コンクール第1位グランプリ受賞。2005年オペラ「トゥーランドット」の主役・カラフ王子を演じ大絶賛を博した。ジョヴァンニ・ディ・ステーファノ指揮・ソフィア国立歌劇場オーケストラとの共演によるCD「誰も寝てはならぬ/米澤傑テノール・オペラアリア集」が2004年10月5日に発売された。