医学界新聞

 

患者の回復過程を促す身体介助技術

日本赤十字看護大学フロンティアセンター主催セミナー
「キネステティクの概念とその実際」開催


 さる4月16日,日本赤十字看護大学において,同大フロンティアセンター主催のセミナー「キネステティクの概念とその実際」が行われ,200名を超える参加者を集めた。日本赤十字看護大学フロンティアセンターは,同大がこれまで蓄積してきた看護の知的・実践的なノウハウを広く活用すべく,2005年に設立されたものであり,今回のセミナーはその第1回。この数年,日本でもしばしば話題にのぼるキネステティクについて,発祥の地ドイツからの講師を迎えた本格的な講義・実演が行われた。


キネステティクとは?

 キネステティク(Kinaesthetics)はドイツで生まれた看護・介護に関わる理論体系。「生きているシステム」である生物間のインタラクション(相互作用)について,物質間のそれとは異なる考え方を展開している。

 これまで日本で紹介される際には「介助者,被介助者ともに負担のかからない介護技術」として紹介されることの多かったキネステティクだが,今回のセミナーでは,ドイツのVIV-ARTE(キネステティクセミナープログラム)の創設者であるハイジ・バウダー・ミスバッハ氏(看護師/Heidi Bauder Missbach;以下,ミスバッハ氏)が,キネステティクの基本的な考え方と,その本来の目的である,身体介助を通して患者の回復プロセスを援助する方法論について講義・実演を行った。

負担のかからない介助技術?

 「……最後に,肩と腰に手を添え,向こう側に体幹を倒します」

 休憩後の実演。通訳を介しながらミスバッハ氏が体位交換をベッド上で実演すると,メモを取る人,感嘆の声をもらす人,隣席の参加者と感想を交わす人で会場がざわついた。キネステティクに基づく身体介助法は,身体各部が持つ物質的構造だけではなく,身体の知覚認識や,身体と空間認識など,生きたシステムとしての人間が持つ自然な動きをトータルに考慮したもので,介助者,被介助者ともに無理がないものとされている。実際,ミスバッハ氏の手技を体験した参加者からは「まるで自分で動いたかのよう」という感想が聞かれた。

 しかし,単純に介助技術としては手順が煩雑すぎるようにも見える。ミスバッハ氏によれば,1人の患者のベッドからの立ち上がりのモビリゼーション(キネステティクを用いた動作介助)に30分をかけることもあるということだが,臨床での看護業務の現状を考えればこれは現実的ではない。その点を休憩中に指摘されたミスバッハ氏は,次のように答えた。

 「キネステティクによるモビリゼーションの目的は,患者の回復プロセスを速やかに効果的に促進するために行うことにあります。対象者の自然な動きを重視するのはそのためです」

 患者の回復過程を援助するべく,患者の動作・介助法を組織する。自然な動きによって患者の回復が促進されると同時に,介助者の身体負担も軽減される。この点が,キネステティクを理解するうえでは非常に重要なのだとミスバッハ氏は強調した。

回復過程を促す介助

 キネステティクは1970年代のドイツにおいて,フランク・ハッチ氏とレニー・マイエッタ氏の2人によって創始された。行動サイバネティックス理論やモダンダンスの思想をベースに,多様な概念を取り入れつつ,現在も発展を続けている。ミスバッハ氏は87年にハッチ&マイエッタのセミナーに参加,その後99年にVIV-ARTEを設立した。看護,特にICUなどにおける急性期からのキネステティクを応用した機能回復アプローチの実践・研究を続けている。

 長期臥床による刺激の欠落や活動範囲の制限によって,身体の活動性や認知能力,さらには生きる意欲が奪われるということはたびたび指摘されており,近年ではICUなど急性期においても,いわゆる「絶対安静」がもたらすもろもろの弊害が指摘されるようになり,早期リハビリテーションへの取り組みが始まりつつある。

 ミスバッハ氏のアプローチは,キネステティクを応用した介助によって,患者を早期にセルフケア状態に復帰させるというもの。つまり介助を,単に患者の動作達成を補助するだけではなく,回復の過程を促すものとして行うというのが,キネステティクによる介助=モビリゼーションであるということだ。

オーダーメイドで提供するモビリゼーション計画

 では,実際にはどのようにモビリゼーションを行うのか。この日,ミスバッハ氏が実技を行う際に再三注意を促したのは,「決して,見よう見まねで行わない」ということだ。キネステティクは,介助者-被介助者の間の「生きたシステム」としての身体の相互関係に着目しているため,形だけを再現しても無意味だということ,さらに,患者の回復過程を促すことが目的であるという2点がその理由だ。

 個々の患者の状況や,回復の程度によって,モビリゼーション計画は大きく変わる。ハッチ&マイエッタ以降,キネステティクの理論体系には,人間の動きについてのさまざまな基本原則が蓄積されてきた。援助者は,それらの知識を学んだうえで,状況・目的に合わせたモビリゼーション計画を作り,その援助のもと,患者が動きを体験し,学習していくというのが,モビリゼーションの基本的な進め方である。

 ドイツでは,ミスバッハ氏の指導・監修のもと,いくつかの病院でキネステティクによるモビリゼーションが導入されており,モビリゼーション導入後に患者の鎮痛剤服用回数が減る,あるいは介助者の病欠勤が減少するなど,患者,援助者ともに効果が確認されているという。

期待される今後の普及

 課題もある。30年あまりにわたって蓄積されたキネステティクの体系的知識は膨大であり,また個々の動きは,実際に身体で体験し,覚え込ませなければ臨床でのモビリゼーションに応用することは難しい。

 ミスバッハ氏が主催するVIV-ARTEには,3つの学習段階に分かれた指導プログラムがあり,各段階には10のモジュール(教育プログラム)が用意されているが,日本ではまだこのプログラムを修了した指導者はいない。普及にはまだ時間がかかりそうだ。

 とはいえ,身体介助を通して患者の回復過程を援助するというコンセプトは,看護やリハビリテーションとの親和性が高い。フロンティアセンター主催の次回セミナーは未定だが,今後の展開が注目される。