医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第76回

ピル(医療と性と政治)(8)
化学者(2)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2666号よりつづく

〈前回までのあらすじ:化学者ラッセル・マーカーは,「不可能」と言われていた植物材料からのプロゲステロン合成に挑んだ〉

 反応条件を探るための実験を根気よく繰り返した後,マーカーは,ついに,植物材料からのプロゲステロン合成に成功した。マーカーが見いだした反応条件は「マーカー分解」として,今もステロイドホルモン合成の基礎段階として使用されているが,マーカーは,やがて,テストステロン,エストロゲン,副腎皮質ホルモンと,一連のステロイドホルモン合成に次々と成功した。

 しかし,植物材料からの合成に成功したとはいっても,通常の植物における原料物質(サポゲニン)の含量は少なく,大量生産の用には適さなかった。マーカーは,サポゲニンを大量に含む植物を求め,世界中の植物学者にサンプルの提供を依頼するとともに,自身も植物採取の行脚を始めた。

プロゲステロンの原料を求め単身メキシコへ

 マーカーに幸運が訪れたのは,あまたの行脚の果てに,テキサスの植物学者を訪れた時のことだった。マーカーは,すでに,サポゲニンの中でも,ヤマイモ科の植物に含有されるディオスゲニンがプロゲステロンの原料物質として最も適していることを見いだしていたが,訪問先の植物学者の蔵書を繰っているうちに,メキシコ奥地に原生する巨大ヤマイモの写真に行き当たったのだった。

 「このヤマイモを原材料にすれば大量生産が可能になる」,そう確信したマーカーは,第二次大戦中の1942年,単身,政情不安のメキシコを訪れた。メキシコ政府から植物採取の許可を得ることもできなかったうえに,米国領事からも「ヤマイモのことなど忘れて速やかにメキシコから退去せよ」と強く勧められたがマーカーは無視,通訳やガイドが同行を拒否する奥地に一人で赴くと,10キロほどのヤマイモを米国に持ち帰ったのだった。

 はたして,持ち帰ったヤマイモからは,大量のサポゲニンが容易に抽出された。「プロゲステロン大量生産の道が開けた」と,マーカーは製薬企業に出資を求めたが,どの企業も,メキシコに工場を建設したいというマーカーの提案に難色を示した。

 スポンサーが現れないことに業を煮やしたマーカーは,「自分で資金を作るしかない」と貯金をおろすと,メキシコに舞い戻った。そして,現地で調達した10トンのヤマイモから3キログラムのプロゲステロンを合成,この合成品を2万4000ドルで売却することで工場建設の資金としたのだった。

企業だけでなく「科学」とも絶縁

 43年,マーカーは,ペンシルバニア州立大学に辞表を提出,アカデミズムと決別したうえで,メキシコに戻った。しかし,意を決してメキシコに戻ってはきたものの工場建設の確たる成案があったわけではなかった。「現地の共同事業者を募るのが手っ取り早い」と思い立ったマーカーは,メキシコ市の電話帳を繰り,「ホルモン・ラボラトリー」という,「らしい」名を見つけると,プロゲステロン合成事業への共同出資を持ちかけるために同ラボラトリーを訪れた。

 幸い,応対に出た人物がマーカーの化学者としての業績を熟知していたおかげで,共同出資の話はとんとん拍子でまとまった。新設された「シンテックス社」の下,プロゲステロン合成企業は軌道に乗ったが,やがて,利益の分配を巡って共同出資者と対立するようになったマーカーは,45年,シンテックス社と袂を分かち,新企業を設立した。

 この新企業は,数年後ヨーロッパの製薬企業に買収されたが,企業の設立・運営・買収にまつわる「裏切り」に何度も巻き込まれるうちに,マーカーは「科学」そのものに嫌気がさすようになったという。49年,マーカーは,自身が興した企業だけではなく,科学そのものともすっぱり縁を切ってしまった。その際,実験記録もすべて破棄したというが,科学者にとっては「命よりも大切」な実験記録を破棄してしまった一事にも,「科学と縁を切るのだ」という,マーカーの強い意志が読み取れるだろう。

卓抜した業績を支えた「反抗心」

 マーカーは科学者としては「早期引退」してしまったが,その短い経歴の間に,一連のステロイドホルモンの低コスト大量生産に道を開くことで,ピルだけでなく,副腎皮質ホルモン,タンパク同化ステロイドなどの実用化を大きく促進した。マーカーの卓抜した業績を支えたのは,その比類なき「反抗心」の強さと言っていいだろうが,その強い「反抗心」がなければ,ステロイドホルモンの実用化は何十年も遅れていたのではないだろうか。

 科学界から引退した後,マーカーは美術品模造業で財をなした。アカデミズムとは一切縁を切っていたはずだったが,80年代半ば,マーカーは,ペンシルバニア州立大学,メリーランド大学に,「一流学者による講演会を定期的に開く資金に」と,高額の寄付金を贈呈した。大学院生時代,マーカーに学位を授与することを拒否したメリーランド大学は,マーカーの寄付に対し,「名誉博士号」を送ることで謝意を表した。

 というわけで,学位を持たないにもかかわらず並みの教授たちが及びもつかないような業績を残していたマーカーだったが,85歳にしてようやく博士号を得ることになったのだった。メリーランド大学への寄付の理由を聞かれて,「自分がこの大学にいた時代,一流の学者は一人もいなかったから」と説明したというが,その気骨と反抗心は晩年も健在だったようである。

この項つづく