第2666号 2006年1月16日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第75回

ピル(医療と性と政治)(7)
化学者(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2663号よりつづく

〈前回までのあらすじ:グレゴリー・ピンカスは,「数年内に経口避妊薬を実用化する」というマーガレット・サンガーの依頼に応じた〉

 ピンカスが,ホルモンによる避妊の実現可能性をサンガーに請け合ったのは,それだけの科学的根拠があったからだった。すでに卵巣周期における性ホルモンの役割はわかっていたし,外因性ホルモンによって「偽の妊娠」を誘導することが避妊効果を持つこともわかっていた。1951年4月,ピンカスは,ラビットとラットを用い,プロゲステロンの持続投与が長期に排卵を抑制することを確認する実験にとりかかった。

 ピンカスがこの実験に取りかかることを技術的に可能としたのは,40年代に,性ホルモンを「合成」する技術が確立されていたからだった。合成ホルモンが登場するまでは,動物の臓器から抽出する以外に性ホルモンを入手する方法はなく,動物に長期連用するなど,夢のまた夢だったのである。一連の性ホルモン合成法を編み出し,図らずも,「ピル」実用化の土台作りをすることになったのが,天才化学者,ラッセル・マーカーだった。

反抗心で貧農から大学教授に

 マーカーは1902年,貧しい農家に生まれた。父親の猛反対を押し切って高校に進んだのは,貧しさから逃れたい一心からだったという。苦学の末に,メリーランド大学・同大学院へと進み化学を専攻したが,大学院の指導教官から「必修科目の履修が1科目足りないので博士号は取得できない」と言われたのは,学位論文がアメリカ化学会誌に出版されることが決まった後のことだった。指導教官は卒業を1年引き延ばすことを勧め,奨学金の手当もしてくれたのだが,マーカーは「学ぶべきことはすべて学んだ。博士号など取れなくともよい」と,さっさと大学院を辞めてしまったのだった。

 その後石油会社に就職,ノッキング防止のガソリン添加剤の研究を担当したが,この時,「オクタン価」の概念を発明したと言われている。マーカーの優秀さを伝え聞いたロックフェラー研究所(後のロックフェラー大学)が,博士号がないにもかかわらず,研究員としてマーカーを招聘したのは28年のことだった。

 ロックフェラーで論文を次々と量産,やがて,マーカーは,ステロイド・ホルモンの領域に興味を覚えるようになった。上述したように,当時,プロゲステロンは動物の卵巣から抽出するしか入手の手だてはなく,供給量はきわめて限られていたが,マーカーは植物材料から大量合成するアイディアを思いついて上司に相談した。しかし,上司は「植物材料は化学部門ではなく薬学部門の領域。縄張りを破るのは御法度」と,マーカーがプロゲステロン合成の研究を始めることを禁止した。マーカーは研究所長のサイモン・フレクスナーにプロゲステロン合成の研究許可を直訴したが,フレクスナーも「縄張りを破ることはまかりならん」と,マーカーの申請を拒絶したのだった。

 マーカーの反抗心の強さは,「進学などせずに農家を手伝え」と強制する父親に,少年時代から反抗し続けてきたたまものと言われているが,研究所長の「理不尽」な沙汰が,マーカーの反抗心にまたまた火をつけた。ロックフェラーを退職,知人を頼り,ペンシルバニア州立大学研究員へと転職したのだった。ペンシルバニア州立大学での年俸はわずか1800ドル,ロックフェラーの4400ドルに比べれば大減給であったが,マーカーにとっては,研究の自由の方が大切だったのである(ちなみに,ペンシルバニア州立大学で業績を積んだマーカーは,8年後,博士号を有しないにもかかわらず,教授へと抜擢された)。

ロックフェラーやハーバードの「権威」に挑戦

 研究の手始めにと,マーカーは,妊婦の尿からプロゲステロンを生成することに挑んだ。当時としては前例のなかった,35グラムの「大量」精製に成功,ある製薬会社に持ち込んだところ,その製薬会社は1グラム1000ドルで精製品を買い取ったのだった()。

 しかし,生体材料からの精製では,本当の意味での「大量」生産にはほど遠い。マーカーは,いよいよ,植物材料からの大量合成にとりかかった。実は,当時,ロックフェラーやハーバードの著名学者が,「植物材料からのステロイド合成は不可能」との結論を出していたのだが,マーカーは,ロックフェラーやハーバードの「権威」が「できない」と断定していたからといって鵜呑みにするような研究者ではなかった。権威たちの論文を子細に検討したマーカーは,適切な反応条件さえ見出せば植物材料からのステロイド合成は可能と確信,入念な実験を繰り返した。

この項つづく


註:当時,プロゲステロンは,習慣性流産の治療薬として珍重され,高価な値がつけられていた。