医学界新聞

 

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第 71回

ピル(医療と性と政治)(3)
活動家(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2654号よりつづく

 前回・前々回と,米国において,避妊・中絶を巡る政治・社会的対立が,どれだけ厳しく深刻であるかを紹介した。激しい対立を反映して,例えば,医師が反中絶テロの標的にされたり,薬剤師が「宗教的信念にもとる」という理由で緊急経口避妊薬「プランB」の調剤・販売を拒否したりと,望むと望まざるとにかかわらず,医療者が避妊・中絶を巡る社会の対立に巻き込まれる事態は珍しくない。なぜ,医療者を巻き込むほど避妊・中絶を巡る対立が深刻化したのか,その背景をご理解いただくために,経口避妊薬「ピル」の開発・普及の歴史とともに,その過程で医療者・研究者が果たしてきた役割について紹介する。

避妊普及運動の先駆者 サンガーの生い立ち

 ピルの誕生には,「2人の母親」がいたと言われるが,そのうちの1人が避妊普及運動の先駆者,マーガレット・サンガー(1879-1966)である。

 サンガーはニューヨーク州コーニングでアイルランド移民の第6子として生まれた。19歳の時に母親が亡くなったが,母親は結核を患っていたにもかかわらず,11人の子を出産,流産歴も7回を数えた。サンガーは,葬儀の席で,「お父さんのせいよ。お母さんは子供を産まされ続けたせいで死んだのよ」と父親をなじったと語り伝えられている。

 貧困の中で育ったサンガーは,「『貧困』と『子だくさん』の組み合わせは,不幸せへの最短経路」という思いを強めたという(註1)。貧困から脱出するために大学・看護学校へと進んだが,学資を援助したのは,父親ではなく,2人の姉だった。

 ニューヨークの看護学校在籍中,サンガーは,建築家のウィリアム・サンガーと恋に落ちた。看護学校では,学生が結婚することを禁じていたが,1902年のある日,サンガーは昼休みの間に結婚式を済ませると,何食わぬ顔で学校に戻ったのだった。しかも,夫はユダヤ人,結婚式はプロテスタントの牧師が主宰と,カソリックの女性としては,「異例」ずくめの結婚だった。

 結婚後,夫ともに社会主義の洗礼を受けたサンガーは,女性参政権運動・労働争議支援などの「活動」を経た後,「女性の性」の問題の重要性を痛感するようになった。サンガーが「性」の問題に「目覚めた」きっかけは,1909年に訪米したジグムント・フロイトの講演を聞いたことだったと言われている。

避妊の情報が得られず 中絶失敗で死亡

 1910年代始め,サンガーは,ニューヨーク市福祉局の訪問看護師として,移民が多い,ロウアー・マンハッタンを担当していた。産科の患者が主だったが,サンガーにとって,人生が変わるほどの影響を与えられた患者が,28歳のユダヤ系ロシア移民,サディー・サクセスだった。

 1912年7月のある日,サンガーは,「女性がアパートで倒れている」とロウアー・マンハッタンのアパートに派遣された。出血多量で意識を失い,台所の床の上に倒れていた患者がサディだった。3人の子持ちだったサディは,「自力」の中絶を試みて失敗したのだった。

 数日後,回復したサディは,「これ以上子供を作らないようにするには,どうしたらいいのですか?」と,哀願するかのように医師に聞いたが,医師は,「ご主人に屋根の上で寝るように言うんですな」と答えたきり,サディのアパートを後にしてしまった。サディは,同じ質問をサンガーにもしたが,サンガーは何も答えることができなかった。当時,避妊についての情報を流布することは法律で禁じられていたし,医療の場においても,避妊について語ることを許されていたのは医師だけだったからだった。

 3か月後,サディが「再度倒れた」と,サンガーは最初の時と同じアパートに差し向けられた。サディは,サンガーの到着後10分で絶命したが,5ドルで雇った「中絶師」の処置が失敗,短い生涯を閉じることになったのだった。

避妊啓蒙運動で45年の有罪?

 サディの死に,サンガーは大きなショックを受けた。「世の中には数え切れないほどの『サディ』がいる。悪の原因はその根本で絶たなければならない」との思いを強くしたサンガーは,看護師の職を退くと,避妊法についての情報を集めることに専念した。ニューヨーク,ワシントン,ボストンの図書館を巡った後,13年には情報収集のためにフランスに渡った。

 14年に帰米したサンガーは『Woman Rebel(抵抗する女)』を発刊,避妊についての啓蒙運動を開始した(註2)。しかし,当時の米国では,1873年に制定された「カムストック法」により,避妊についての情報を流布することは違法行為とされていた。

 14年8月,連邦政府は,カスムトック法に違反したと,9件の罪状でサンガーを起訴したが,有罪となった場合,最長45年の刑となる可能性があった。サンガーは,夫と3人の子供を残し,イギリスへと逃亡したが,第一次大戦は3か月前に始まったばかり,大西洋を渡ることそのものが「命がけ」の行為だった。

この項つづく


註1:サンガーの避妊運動には,ネオ・マルサス主義の人口抑制・優生思想が色濃く反映されていた。

註2:「産児調節(birth control)」という言葉が世界で最初に使われたのは,1914年6月号の『Woman Rebel』誌上のことであった。