第2650号 2005年9月19日


対談

病院はこれからどうなるのか
「信任」復権への“Devil's Advocate”

岩井 克人氏
東京大学経済学部教授
井部 俊子氏
聖路加看護大学学長


 第43回日本病院管理学会の特別講演者・岩井克人氏(東大)は,『会社はこれからどうなるのか』で第2回小林秀雄賞(2003年度)を受賞するなど,思想界・文芸界も注目する経済学者である。本紙では,同学術総会会長の井部俊子氏(聖路加看護大)との対談で病院管理学と経済学のクロストークを試み,医療と病院の未来を探った。


井部 このたび,岩井先生には第43回日本病院管理学会(2005年10月27-28日,於:ホテルオークラ東京)において,「医療経営における信任」というテーマで特別講演をお願いしています。

 私は,岩井先生が提唱される「信任」という言葉に惹きつけられた経験があります。ここ数年,医療においては「契約」が重視されています。例えば手術の際は,手術のほかに麻酔や検査の承諾書があり,個室に入ればその承諾書,退院時には診療計画書などにも患者の署名を求めます。これらは文書による「契約」と考えられます。

 そこで,医療における契約を考えていた時に,『ハーバード・ビジネス・レビュー』(2000年10月号)で「信任の時代」という巻頭言を読みました。岩井先生は「これからは信任の時代だ」という説を紹介されていて,興味を持ちました。医療界では,規制改革の一環として株式会社の参入問題があり,この問題についても,経済学者としてどのように見ていらっしゃるのか,お話をうかがいたいと考えた次第です。

契約の限界を示す“Devil's Advocate"

岩井 井部先生の著書に,「言い訳をする人は駄目だ」と書いてありましたが,今度の講演に関しては,ちょっと言い訳をさせてください(笑)。私はいままで,患者として医療に接したことがあるだけで,医療に関する経済学的な分析をしたことがありません。ですから,大きく躊躇したのですが,結局講演を引き受けました。

 引き受けた理由というのは,経済学者には“悪魔の唱道者”――英語でいう“Devil's Advocate”――の役割が与えられていると考えたからです。“Devil's Advocate”というのは,神学でいえば,悪魔の立場から神の存在を否定することを言い続けるけれども,最終的にはそれによって,結果的には神の正しさを示す役割を果たす存在です。

 経済学の主流派の考え方は,「世の中のすべては契約でいい」とするわけです。市場とは契約関係によって成立しています。アダム・スミスの“見えざる手”の考え方からいえば,「世の中には信頼も倫理もいらない。すべては自己利益追求で,あとは市場の競争に任せれば結果はうまくいく」という。

 ただ,経済学者は契約の有効性をよく知っているからこそ,その限界についてもよくわかると思うのです。契約だけでは解決できない部分がどうしても残ってしまうことを,逆に浮かび上がらせることができる。それが実は「信任」であり,「倫理」なのです。たしかに最近の医療経営における契約概念の導入は強い趨勢ですが,同時に限界もある。経済学者として,その限界を示すことで,“Devil's Advocate”の役割ができるのではないかと思ってお引き受けしました。

会社経営と社会保障

井部 医療や福祉のように社会保障的なものと,会社経営を同レベルで考えていいものでしょうか?

岩井 やはり,かなり違うと思います。一方に普通の営利企業があって,他方に社会保障的な公共機関があるとすると,医療機関や私の属している教育機関はその間に位置します。どこかにはっきりした断絶があるのではなく,一種の連続的な違いですが。

 どこが違うかというと,例えば喫茶店のサービスがいいか悪いかは,行ってみればすぐにわかります。サービスの質がいいか悪いか,消費者がわかるものは,営利的にうまくいきます。ただし,医療機関や大学は……。

井部 本当にいいかどうかは,すぐにはわからないですよね。

岩井 はい。例えば,大学の先生と学生の関係で喩えると,私は「その差は24時間だ」と言っています。というのは,前の晩にあわてて下調べをして,講義の時には,あたかも100年前から知っていたかのように教える(笑)。

井部 (笑)。

岩井 学生は,知らないから教わるので,知っていたら講義に出る必要はない。ということは,先生が本当のことを教えているのか,でまかせを言っているのかがわからない(笑)。供給者と需要者と間に,一方的な情報の違いがあるのです。

 それと同じようなことが,医療界にも言えます。本当にいいサービスを受けているのかどうか,消費者には絶対にわからない部分がある。そういう一方的な情報の違いがある場合に,そのサービスを提供する医療機関や教育機関として営利企業が望ましいかどうか。必ずしも自明ではないのです。

 経済学の基本的な理論では,市場の競争に任せることによって,非効率的な経営を行わないとか,質の低いサービスを提供しないとかいうインセンティブが働きます。消費者が企業を選別する自由を持つからです。価格のわりにサービスが悪い企業は淘汰されてしまうはずです。これは大いに強調すべき競争のメリットであって,特にこれまで競争にさらされてこなかった日本の医療機関の場合は,市場競争的な仕組みを導入することは大変に重要であると思います。

 ただ,そこで「競争原理さえ導入すれば,あとはバラ色の道が天国に通じている」と,経済学者はふつう言ってしまいますが,実はそう簡単ではない。

 アメリカではもう何十年も前から医療機関が営利的な経営を許されていますが,おもしろいのは,全部が営利にはならなかった点です。半分近くは非営利で残っている。その理由として2つあります,1つは,多くの医療機関は最初から社会に貢献するために設立しているので,経営者の理念が利益に向かわないということ。もう1つは,もっと経済学的な説明です。どう見ても経営者が社会理念に燃えているとは思えないのに,非営利でやっている医療機関もある。理由は簡単で,営利で経営すると「利潤追求の道具でしかない」と患者が思い,サービスの質を疑うからです。

井部 「営利」と「非営利」はどこで分かれるのでしょうか?

岩井 端的に言えば,営利企業は利益を株主に配当しますが,非営利企業では,利益が出ても,それは建物やサービス,研究費,月給の改善といった形で,組織の中で再配分しなくてはなりません。その場合,研究費に使いすぎるとか,建物が立派すぎるとか,コスト面で割高になる傾向を必ず持ちます。しかし,サービスに関しては「利潤追求の道具に使われない」という安心感を生み出す可能性があります。

 アメリカの場合,相対的に所得が低い人は価格の安い営利を選ぶ傾向があり,相対的に豊かな人は非営利を選び,さらに大金持ちは大金持ち用の営利を選ぶという傾向があるようです。

病院の出発点はCSR

井部 病院の場合も,例えば建物が老朽化したら改築・修繕もしなければいけない。医療機器も更新しなくてはならない。その意味では,非営利でもある程度の収益は必要となります。

岩井 非営利でも非効率のままでいいというわけではないですね。医療設備を最新に保ち,スタッフが雇用に関して安心して仕事ができることを保証するためにも,コストに関しての意識は非常に重要です。

井部 岩井先生は本の中で,CSR(Corporate Social Responsibility:会社の社会的責任)の意義を述べられていますが,病院などはまさにCSRが経営理念そのものになります。しかし,現実は経営上,利益をあげることも求められます。

岩井 病院の場合は,そもそもの出発点はCSRであることが多い。篤志家が施設を創り,評判を聞いた患者が集って経営が成り立ってきて,大きな病院へと成長していくのがパターンですね。利益はあとから出てきた問題です。

 ですから,普通の企業とは方向性が逆です。普通の企業は,利潤追求から始まって,十分成熟するとCSRを考え始めたりします。病院の場合はCSRから出発して,だんだん営利の問題を考えざるをえなくなってくる。

井部 それは興味深いですね。いまはお互いがすれ違っている,あるいは同じ位置にきているのでしょうか?

岩井 まだ,日本では同じ位置まできていないと思います。株式会社の参入問題がありますし,趨勢として営利性の問題を考えざるをえないでしょう。

病院は産業資本主義時代!?

井部 先生は「株主ではなく従業員を大切にすることはとても重要だ」と主張されていますが,病院もまさに人が大事で,そこは矛盾がないわけです。

岩井 それは現代が「ポスト産業資本主義」の時代だからです。産業革命からつい最近までは「産業資本主義」と呼ばれた資本主義が支配しており,営利会社の場合は機械制工場が利益の源泉でした。しかし,農村に人がいなくなって,安い労働力が農村から集団就職で来なくなってしまった。それで賃金が高くなったので,機械を持って大量生産しても,人件費が高いので利幅は減ってしまった。そこで意図的に「違い」を生み出さなければならない。

 ポスト産業資本主義では,「違い」が利益の源泉です。その「違い」は誰が生み出すかといえば,人にしか生み出せない。

井部 病院の場合,利潤追求のためではないといえ,ある意味では当初からポスト産業資本主義の形態をとっていたわけです。けれども,現在では産業資本主義に近づいているのではないかと思うのです。つまり,検査や治療のための巨大な装置がたくさん入ってきて,その装置がお金を生み出すんですね。

岩井 普通の会社と病院というのは,ちょうど歴史が逆になっている。

井部 逆行して衝突するかもしれません(笑)。

岩井 同じ法人という仕組みの中で,病院も会社も連続的に位置づけられることになると思います。ですから,『会社はだれのものか』では,「会社とは法人企業」だという定義から始めたわけで,最後にCSRについて論じています。

 法人とは,法律上ヒトとして扱われる組織や財団のことです。法人の歴史的な起源を探ると,それが利益を追求する企業に使われ始めたのは,そんなに古い話ではありません。現在見受けられる形態の法人企業はだいたい19世紀になってからです。ただ,それ以前にも法人はあって,その最初の形というのが,病院や大学や僧院であったのです。いまで言うNPOです。

井部 「時代は繰り返す」と言いますが,病院はいま,巨大な装置が入って重装備をして,「人間疎外」の傾向になっています。その被害者は患者であり,看護師ではないかと思います。看護は,手を使って人と対するのが基本になりますが,それが機械に代わられてしまっている。医療は現在,産業資本主義の時代に入り,人間疎外の状況になっているのではないかと考えるのです。

岩井 病院へ行くと,看護師さんは昔と違って,いつもコンピュータに向かっていて,患者さんと接する時間が減っているように,端から見ていても感じます。それはまさしく,社会主義者が産業資本主義を批判する時によく言った「人間疎外」が,装置の肥大化によって医療界に起こりつつあると言えるでしょう。資本主義の初期には手工業があって,それを機械に置き換えたのが産業資本主義の始まりですが,それがちょうどいま,医療界で起こっているのですね。

すべてを「契約」に還元できない,「信任」が必ず残る

岩井 『マネジメントの魅力2』(井部俊子著,日本看護協会出版会,2004年)で,井部先生はチャンブリス(Daniel F. Chambliss)のこんな言葉を抜粋されています。

 「……患者は,愛する者に苦痛の現実を見せたくない,配偶者に対して自分の身体の威厳を保ちたい,あるいは母親の死期が近いという現実を子どもたちに知らせたくない,といったさまざまな理由から,自分の家族よりもナースに対してオープンになる。ケアの専門職はこれらのことを動揺せずに聞いてくれるので,患者たちはしばしば,他のだれにも話せないことをナースに話すのである」(

 この言葉には非常に感激しました。

井部 こういうことがあるから,看護師は辛くても仕事を続けられるのです。

岩井 医療は人間の命や健康を扱うもので,営利や契約関係には絶対に還元できない部分が必ずあることを,これほど見事に語っている言葉はありません。

 私はいま「信任」ということを研究していますが,その研究で最初にモデルにしたのが,救急病棟に運ばれてくる患者と,それを処置する医師・看護師の関係です。救急病棟に運ばれてきた患者が無意識で,手術等に関するあらかじめの承諾書も見つからない,家族を呼ぶ時間もないという時,医療者は緊急に,患者と何の契約も結ばずに治療をしなければなりませんよね?

井部 救命なんですね。

岩井 まさしく救命で,これを契約でやることは絶対にできない。無意識の患者は100%の信頼によって,自分の命を任せざるを得ない状況にあります。医療者は,その信頼に応える治療をする義務がある。ここには,契約には還元できない,しかしながら人間社会にとって不可欠な人間と人間の関係があります。

 意識のある患者と医療者との関係でも,同様の問題が必ずあります。先ほどは学生と教師の関係の喩えを使いましたが,もっとよい例が,さっきのチャンブリスの話です。つまり,患者は自分の病気について,家族よりも看護師に話をする。看護師は,患者の家族でも知らないようなことを知ってしまう。しかも,患者の病状の重さを患者以上に知っている。

 普通の契約関係では,自分は自分自身のことを相手よりもよく知っていて,相手は相手自身のことを自分よりもよく知っています。だから,それぞれが自立した人間として契約を結ぶことができるわけです。ところが,医療者と患者の関係をみると,患者の病気については患者以上に医療者のほうが知っている。このように一方的な情報の違いがある関係では,自立した人間を想定する契約が成り立たないわけです。それは信頼によって任せるしかないのです。

 市場とは基本的には契約関係で成り立っています。そこでの競争はとくに重要だと私は言いましたけれども,医療ではこの信頼によって任せる部分が永久に残って,それは絶対に契約に還元できない。それは,広くいえば「倫理」ですけれども,もっと法律的な言葉でいうなら「信任」です。いかに医療が営利化され,市場化されても,「信任」は残り続けるのです。

看護の価値を伝えるジャーナリズムの役割

井部 チャンブリスの先ほどの言葉にはとても共感できます。こうしたことができる看護師が多くいるほど,その病院の看護サービスのクオリティは高い。私たち看護職はそう思うわけですが,経営者からみると「そんなところで話を聴いて腰掛けているより,もっと効率よく動くように」となり,まったく違う方向からサービスの質が否定されることが起こります。それが看護職にとってジレンマなのです。

岩井 私が援護射撃をするなら,それは医療に従事する人にとっては最終的に残る,もっとも大切な核の部分ですよね。願わくは,その部分を十分に尊重するような病院が,サービスの質が高いということで,結果的に経営に有利になればいいかなと思います。

井部 こういう体験をした人が,患者や家族にはたくさんいらっしゃるはずなのに,その人たちは,いったん世間に出てしまうと,自分の弱みになることをあえて語ってはくれません。

 例えば岩井先生のような大学教授が,病院にいた時には痛みで泣き叫んだり,お通じを漏らして大変だったなんてことは,言わないわけです(笑)。したがって,そういう時に看護師がもたらした看護の価値というのは,なかなか世の中には伝わらない。経営者にも,世の中にもなかなか認めてもらえないで,看護職の間で不満が溜めこまれていくのです。

岩井 最適な解があるわけではないのですが,ひとつは良心的なジャーナリズムの存在でしょう。私は,アメリカ社会に対してよく批判もしますが,感心するのは,ジャーナリズムがそういうことを書いて社会に知らせる役割を意識的に担っている。利潤追求の基準では無視されがちだけど,人間が人間として生きていくうえで必要な価値が存在するということを,ジャーナリズムが伝えるのですね。

井部 チャンブリスも看護師ではなく,社会学者です。

岩井 逆にいえば,アメリカは利潤追求の要請が非常に強いので,逆にそこから切り落とされてしまった重要な部分がはっきり出てくるとも言えます。そうすると,「信任」的な関係などの重要性をちゃんと評価して,それを積極的に表現しようという人が生まれてくる可能性は高い。

井部 私も看護職だけでがんばるのは限界だと感じています。あらためてジャーナリズムとの協働を考えました。

「サービスの信頼と保証」のために

岩井 先ほどの繰り返しになりますが,病院というのは大学と似たところがあります。かならずしも利益追求だけが目的ではない組織の究極の形態だと思っています。ただ,大学の教育が失敗しても命に別状はありませんが,医療機関は人間の命そのものを扱うので,はるかにかかってくる責任が重いと思います。学会講演では,「医療経営における信任」というテーマに絡めて,そうしたお話ができればと思っています。

井部 今学会のメインテーマは「サービスの信頼と保証――病院管理学の貢献」としました。医療や福祉,看護はサービス業なのですが,この「サービス業」というのがなんとなく使われてきました。さまざまな視点から,「サービス業」,もっと言うと「サービスビジネス」というものを現代社会の文脈の中で捉え直してみたいと思っています。今日はありがとうございました。

■刺激に満ちた,岩井氏の会社論

「企業」と「会社」はどう違う?

 会社とは「法人企業」の別名であり,単なる「企業」と「法人企業=会社」には根源的な違いがある。「法人」とは「本来ヒトではないモノなのに,法律上ヒトとして扱われるモノ」のこと。会社は「ヒトであり,モノである」という不思議な存在。例えば,八百屋(個人企業)の店主は店頭の商品を所有できるし,店先のリンゴを食べてもお咎めはない。しかし,上場したデパート(法人企業)の株主が支払いをせずに売り場のリンゴを食べると窃盗罪で逮捕される。それは,会社資産の法律上の所有者は株主ではなく,法律上ヒトとして考えられている会社だから。株主は会社をモノとして所有しているが,その会社は株主から独立した存在(ヒト)として,会社資産(人的・物的資産)を所有しているという「二階建ての構造」がある。

会社と経営者の信任関係

 会社が現実の世界でヒトとして活躍するには,会社に代わって契約を結んだり,資産管理を行う生身のヒトが不可欠。そのヒトが,代表権を持った経営者。法人としての会社は,自らのすべての行動を「信頼」によって経営者に「任せている」(これは,「契約関係」ではなく「信任関係」)。だからこそ,「信任」を受けた経営者は,会社に対して「倫理的」に行動する義務がある。

 「会社は株主のものでしかない」というアメリカ型の株主主権論は法理論上の誤りであるばかりか,「信任関係」で結ばれるべき会社と経営者の関係を「契約関係」とみなすことで,経営者による会社の私物化への道を開いてしまう。

 自己利益追求を原則とする資本主義社会の中核に,倫理性を要求する「会社」という仕組みがある。資本主義は,人間が倫理的であることを必要とする社会体制である。

(*『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』より,抜粋し紹介)


(註)『ケアの向こう側――看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』(ダニエル・F.チャンブリス著,浅野祐子訳,日本看護協会出版会)からの抜粋

岩井克人氏
1969年東大経済学部卒。マサチューセッツ工科大大学院にて経済学博士号取得。イェール大助教授,東大助教授,プリンストン大客員準教授,ペンシルバニア大客員教授などを経て,89年より現職(2001-04年に経済学部長)。専攻は理論経済学。著書に,『貨幣論』(筑摩書房;サントリー学芸賞),『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房),『会社はこれからどうなるのか』(平凡社;小林秀雄賞),『会社はだれのものか』(平凡社)など。

井部俊子氏
1969年聖路加看護大卒。聖路加看護大大学院にて看護学博士号取得。聖路加国際病院勤務,日赤看護大講師などを経て,93年に聖路加国際病院看護部長・副院長に就任。その後10年間,組織づくりに励む。2003年より聖路加看護大教授(看護管理学)。04年より同大学学長に就任。現在,日本看護協会副会長,日本医療機能評価機構理事,日本病院管理学会理事なども務める。著書に『看護という仕事』『マネジメントの魅力』(ともに日本看護協会出版会),訳書に『ベナー看護論 新訳版』(医学書院)など。