第2636号 2005年6月6日


寄稿

津波と呼吸器をめぐる合併症
吉村昭著『三陸海岸大津波』に寄せて

赤塚東司雄(府中腎クリニック)


2つの三陸沖地震津波

 災害に興味を持ち始めた頃から,手元に作家・吉村昭さんが著された『海の壁』(現在文庫化され『三陸海岸大津波』と改題されている)があった。取材は綿密で参考資料の選択は正確であり文章力にも優れた不朽の名作である。1970年に上梓されたものでありながら,今読んでもまったく古さを感じさせないばかりか,昨年末,スマトラ島沖地震津波が発生しその映像が世界を駆け巡るまでは,巨大津波の恐ろしさを最もリアルに表現した空前絶後の資料であるとさえ思っていた。85年,さらに03年と,2度にわたって文庫化されたのもうなずける。

 その空前絶後の記録書である『三陸海岸大津波』の一節に,医者である私がいつも興味を引かれて,はてな? と首をかしげさせられ,一瞬ページをめくる手が止まる部分があった。明治三陸沖地震(1896年)と昭和三陸沖地震(1933年)の時代のことだから,今から詳細を知ろうとしても難しいだろうと,疑問は疑問として放置してきたのだが,読み返すたびにいつも同じ場所で引っかかっていた。

 それは,明治三陸沖地震津波の部分ではたった一行,「日がたつにつれて(中略)…高熱を発する得体の知れぬ病気で倒れる者が続出した」1)と,津波被災による後遺症ともいうべき疾患が蔓延したことを記録していた部分である。明治三陸沖地震では交通網が未成熟であるばかりか,その未成熟な交通網がさらに津波で分断されてしまったため,被災地への到達そのものが困難を極めた。救助自体が相当日数を経た後に行われていたことも手伝って,あまり詳細な記録も残っておらず,その蔓延した病気がなんであるのかについてはよくわからない。私も,消化器関連の伝染病(津波により陸地に大量に残された汚水などが原因?)だろう,と思っていた。

 時代は遡り,昭和三陸沖地震が発生する。おそらくほとんど同じ病態であると考えられるこの謎の疾病が,今度は田老尋常小学校の学童が書いた作文の中にかなり詳細に残されている2)

(原文から抜粋。赤字は著者による)
いせ吉おじさんが死んだ
尋四 山本栄悦

 つなみのつぎの日,おじさんは病気になった。それは,つなみで流されたからです。つなみの日,おじさんは丈夫で働いていた。もっこをそって,流されたものをひろって歩いていたが,つぎの日は病気になって松長根に行った。三日目は学校にお医者が来たので,いせ吉おじさんを松長根のおじさんとお爺さんとでかついで学校に行った。

 おじさんは「ウンウン」と苦しそうにうなっていた。頭は熱であつかったし,はき出すつばには,浜の砂がまじっていた。

 それから日がたっていくにしたがって,おじさんの病気は,ずんずん悪くなる。或る日,僕と姉さんと学校へ行ってみると,おじさんはほず(分別)がなくて,僕の姉さんをみて,

 「乙部のおばさんがきた」

 といっていた。

 次の朝,おじさんは死んだ。

 『三陸海岸大津波』に収録されたこの尋常小学校4年生の作文は,実にさまざまな情報を今の世に伝えてくれる。この熱病はどうやら,津波に流されて救助された人がかかったものであるらしいこと。高熱を伴い,浜の砂を吐き出していること。重症化してついには死亡する人がでていることなど,明治三陸沖地震津波におけるたった一行の抜粋とは違い,今なおリアルで,人の胸を打つものだ。

伝染病? 肺水腫?

 さて,以上明らかになった津波発生時特有のこの症状はいったい何であろうか?

 津波では井戸や,学校のトイレまでもが汚水に浸されてしまい,伝染病が発症しやすくなることは有名である。今回のインド洋大津波でもWHOが真っ先に関係諸国に伝染病に関する警告を発している。

 しかし,伝染病だとしても,今回インド洋で懸念されたコレラや赤痢であろうはずはない(場所が場所だし,症状もあまりに違っている)。呼吸器感染症だとすれば,汚染された海水からの感染が大量に発生したものと考えればよいのだろうか?

 あるいは,高張の海水を飲み込んだため,体液を肺胞腔に引き込み,肺水腫を起こすのである,と主張する人もいる。だから,津波被害による患者の病態は,淡水での溺水事故(肺胞サーファクタントの不活性化による肺胞の虚脱から起こる病態)などとはずいぶん違っていて,急性心不全様の肺水腫が病態の根幹をなすというのだ。

 しかし,「いせ吉おじさん」の症状は,肺水腫ではない。一般的には肺炎か気管支炎,あるいは胸膜炎などの感染症系を疑う症状だろう。

 吉村昭氏が丹念に現地調査を行って著した作品が,私に投げかけた波紋は以上のようなものだ。そしてそれが検証される機会を持つためには,60年という歳月の経過を必要とした。

1993年,北海道南西沖地震

 たまたまというか,ある意図をもってというか,私は2005年3月に大阪で開催された日本集団災害医学会総会で行う教育講演とシンポジウムのために,津波の資料を収集していた。そこで出会ったいくつかの論文が,『三陸海岸大津波』中の疑問を解決する大きな手がかりになった。

 三陸沖地震津波という未曾有の津波災害に対して,その後の日本では戦時下に発生した東南海・南海地震(1944年)による津波,日本海中部地震(1983年),そしてその10年後に発生した北海道南西沖地震津波(1993年)以外に資料はない。そのうち,戦時下の災害である東南海地震津波の全貌は,ほとんど当時の社会状況の元,詳細不明のまま歴史の中に消えてしまっていた。また,日本海中部地震においては,いまだ医療の世界で災害医学というものが十分な意義を持っていなかった時代背景もあるのであろう,少なくとも検索した論文からなんらかの知見を引き出すことは不可能であった。

 で,北海道南西沖地震(1993年)である。この地震においては,最大の被害を出した場所が北海道の離島である奥尻島であったという点に,災害対応の困難さのほとんどすべてが集約されているといって過言ではない。その結果,初期救急医療活動は,ずば抜けて優秀な輸送機関を有する自衛隊の独壇場となり,学会発表された論文も自衛隊札幌病院の論文が出色の出来栄えであった。

 しかし,この時私の目を引いたのはそうした初期救急を扱ったものとは少し毛色が違う,後方病院からの報告であった。これらを発見したことで,長年の私の疑問は一気に氷解するに至ったのである。

奥尻島の「いせ吉おじさん」

 それは,市立函館病院呼吸器科から『日本呼吸器学会誌』に上梓された論文3)と,同じ市立函館病院麻酔科から『ICUとCCU』に上梓された2つの論文4)で扱われていた合計5症例である。

 これらの5症例はいずれも津波に巻き込まれて海上で救助された症例である。砂泥の吸引による窒息から軽度の肺炎に至るまで種々の段階を踏んではいるが,肺水腫や伝染病はみられない。感染すらも,からんでいることはからんでいるだろうが,病態の主体ではなかった。これらの患者の症状の主体は細気管支炎であり,砂や泥を含んだ海水を急激に肺内に吸引してしまったことで発生した機械的な損傷に近いものだったのだ。

 これらの患者の多くは入院後翌日ないしは翌々日ぐらいから,高度の発熱とCRPの上昇に見舞われており,砂や泥を大量に喀痰とともに排出し始めている。このあたりはまさしく「いせ吉おじさん」の症状と,うり2つである。CT所見は5例とも,両肺びまん性,気道散布性の小粒状陰影を主体としていて,中には気管支周囲の浸潤影を伴っていた。

 また,意外なことに,奥尻では積極的に人工呼吸器管理が必要となった症例はなく,抗生剤の投与と喀痰喀出・体位ドレナージなどによる気道内洗浄による治療で,入院期間の長短はあれ,深刻な後遺症なしに全員無事退院していた。

早期の初歩的な治療が重要

 昭和三陸沖地震津波では,ほぼ同様の症状を呈した患者の多くが,残念なことに死亡している。医師の診察を受けるのにすら3日間かかってしまい,その後も十分な治療が受けられなかったと想像される「いせ吉おじさん」は,その後たった数日であっけなく死んでしまったのだ。

 この三陸沖地震津波での「いせ吉おじさん」たちと,奥尻において発生した細気管支炎症状の患者が同一疾患であると仮定する。奥尻の患者群は全5名とも濃厚治療を必要とすることなく退院していることと比較して,三陸沖地震津波では多数の患者がばたばたと死亡していることは,いかなることと考えればよいだろうか?

 医学の進歩と言ってしまえばそれまでだが,十分な休息と栄養を取らせること,そしてそれを可能としている設備の整備,あるいはごくありきたりではあっても,喀痰喀出や体位ドレナージ,そして抗生剤投与による全身状態の改善という,たったこれだけの初歩的な治療を早期に(早期,ということが常に重要である)提供するだけで全員無事退院できること,それが満たされなかった三陸沖では大多数死亡という状況にまで結果が分かれてしまうことは,災害医療をするもの皆が十分肝に銘じておくべきであろうと思う。

さらなる災害医療的知見の 積み上げを期待

 今年の集団災害医学会総会で会長の藤井千穂先生(大阪府立千里救命救急センター)がおっしゃっていたように,とりあえず被災地へ行って救助活動らしいことをやれば評価された時代はもう終わった。迅速で真に必要とされる時期に,必要とされるレベルの災害医療を提供しないと,被災地において医療者は邪魔な存在になりかねない。「自分たちはがんばった」ではなく,disaster scienceの名にふさわしい科学的な考察と提言がなければ,学会発表する意味もないことをも,災害医療者は肝に銘じなければならない。

 吉村昭さんが三陸海岸を取材して歩いたのは,昭和40年代の前半である。昭和三陸沖地震津波の記憶もまだ薄れておらず,チリ沖地震による遠地津波(1960年)の被害を受けてまだ数年しかたっていない,hotな時期であった。当時,津波災害から無事に切り抜けられた人びとの多くは高齢ではあったけれども多数が存命しており,その昔の大災害の記憶が非常に鮮明であった人びともいた。そしてまったくの畑違いではあっても吉村さんのような優秀な記録者があらわれ,冷静な筆致で当時の記憶のかんどころを再現されていたことの重要性を思うのである。この記録がなければ,津波発生時の細気管支炎の普遍性は指摘できなかった。

 今回,長い年月を隔てた2つの地震をまとめあげることで1つの災害医療的知見が得られた(きちんと実証したわけではないが)ことは感慨深いことだ。そしてこういう解決を見るのに必要な資料を残してくれた吉村昭さんという存在に感謝の気持ちを送りたい。


(引用・参考文献)
1)吉村昭:三陸海岸大津波,文春文庫,P35
2)上掲1)P126
3)干野英明他:溺水により多量の海水と土砂を吸引した1例,日本呼吸学会雑誌,Vol36(3),306-310, 1998.
4)吉川修身他:津波による溺水患者の4症例,ICUとCCU, Vol18(12),1187-1192, 1994.

赤塚東司雄氏
1983年北大経済学部卒。89年神戸大医学部卒業後,北大医学部第二内科に所属。有感地震数日本一を誇る北海道日高支庁浦河赤十字病院に10年間勤務し,数多くの地震災害を経験。透析室地震被災の研究を行う。現在日本透析医会災害対策委員。「災害は現地入りしないと何もわからない,ということが最近の巨大災害を次々と経験するうちに確信に変わってきています」。十勝沖・新潟県中越・福岡県西方沖の各地震を取材・経験し,災害対策を,実証されたevidenceをもとに体系化する作業に全力を挙げている。05年6月より東京府中市,府中腎クリニック勤務。