第2635号 2005年5月30日


尊厳死っ,てなに?

尊厳死をめぐる論点が確認される


 さる4月16日,大手町サンケイプラザ(東京都千代田区)において,尊厳死について議論する集会「尊厳死っ,てなに?」が,NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の企画のもと行われた。政府与党は2月から「尊厳死とホスピスを推進する与党議員懇話会」において,末期がんなどで治る見込みのない病気の患者が自らの意思で過剰な延命治療を中止する「尊厳死」を認める法案を議員立法で提出する方針で検討している。今回の集会には,そうした尊厳死や治療停止をめぐる動向に強い関心を持つ識者が集い,議論を交わした。


リビングウィルにかかわる論点

 集会は2部構成で行われ,まず第1部で伊藤道哉氏(東北大)と中島孝氏(新潟病院副院長)が,基調講演を行った。

 伊藤氏はまず,昨年から今年にかけ,日本でも話題になったテリ・シャイボさんの事例を紹介。シャイボさんをめぐっては尊厳死を求める夫と,延命を求めるシャイボさんの両親の争いから,最終的には州議会や合衆国議会をも揺るがす論争にまで発展した。伊藤氏はこの事例から,シャイボさんが生前,リビングウィルを示していなかったこと,そうした場合に本人の意思を推定することは可能か否か,また誰が代理人となりうるのかといった論点を提示した。

QOL概念の見直し

 一方,中島氏は厚生科学研究「特定疾患の生活の質(QOL)の向上に資するケアのあり方に関する研究」班に参加した経験から,QOLと尊厳死にかかわる論点を取り上げた。

 尊厳死が議論される背景には,過剰な延命治療が患者のQOLを損なうという見方がある。しかし中島氏は,原因不明,根治療法なし,慢性的で介護に著しく人手を要する「難病」においては,QOLとは何かについてもう一度問い直す必要があると指摘した。

 中島氏によれば,SF-36やEuroQoLなど,従来のQOL評価尺度でALS患者の「生」を評価した場合,どのようなケアを施しても点数は上昇しなかったという。「従来の健康関連の指標を中心としたQOL尺度は『○○ができるのが人間,できないのは人間ではない』ということになってしまう。これをALSなどの難病患者にあてはめるのは適切ではない」と述べた。

 中島氏はこのうえで,新しい評価尺度であるSEIQoL-DW(Schedule for the Evaluation of Individual Quality of Life-Direct Weighting)を提唱。SEIQoL-DWは,半構造化面接法を使い,患者自身が自分のQOLを決定付ける分野を自分自身で決めることができるというもの。また,病気の経過に伴って,患者自らその分野を変更できることが特徴であり,患者のナラティブ(物語)の変化に対応しうるQOL評価法であるという。

 中島氏は「QOLという思想には,負の側面があった。それは『人の生はこうあるべき』という,内なる優生思想を植え付けたことだ。緩和ケアに携わる医療者は,これにとらわれないようにしたい」と述べ,講演をまとめた。

「なぜ今尊厳死なのか?」

 ディスカッションではまず清水哲郎氏(東北大)が,「死ぬ権利が存在するとしても,社会的な存在である人間にとってのそれは,1人で決めるものではない」「痛み・苦しみを緩和することと延命治療は,臨床的には多くの場合矛盾しない」「尊厳死が法的に認められた場合には,患者や家族に心理的圧迫が加わることは避けられない」など,尊厳死にまつわる論点について,それぞれ自身の見解を付け加えた。

 会場には井形昭弘氏(日本尊厳死協会理事長)も来場しており,その時点までの議論について反論した。井形氏はまず,薬物を投与するなど積極的関与によって死に至らしめる安楽死と異なり,尊厳死は,あくまで無理な延命処置を行わず自然死を尊重するものであると述べた,また,それは1人ひとり,本人の価値観に基づく決定として行われるべきものであるとして,法案の中でインフォームド・コンセントが重視されていることを紹介した。

 一方,中島氏が述べたQOLの負の側面については,「病気によって人間の尊厳が損なわれるとは限らないことはたしかだが,尊厳の有無については本人の判断に委ねるべきではないか」とし,それについての本人の意思を生前に明確にする「リビングウィル」の重要性を強調。また,そうした「生前のリビングウィル」に実効力を持たせるのが今回の法案の趣旨であり,社会保障費の削減といった医療経済の問題を背景としたものではないと述べた。

 これに対し,清水昭美氏(作家・看護教育者)は,安楽死反対運動にたずさわってきた立場から発言。日本尊厳死協会の前身である日本安楽死協会の過去の発言を引き,今回の法案が安楽死についての議論との連続性を持っていることを指摘。尊厳死もかつての安楽死議論と同様,経済的動機が大きな後押しとなっていると述べた。また,今回の法案の対象となる遷延性意識障害患者についても,過去の回復例を紹介し,そうした患者への医療提供は「無駄な延命」とはいえないと述べた。

 また清水氏は,難病患者などの場合,家族への負担といった経済的な要因が,当人や家族にとって,「リビングウィルを明らかにせよ」「なぜ尊厳死を選ばないのか」という圧力となりうることを紹介。手続きとしてのインフォームド・コンセントをとったとしても,現実的にはそうした社会的圧力のもとでの決定が「自己決定」と呼ばれている現状を指摘した。

尊厳死をめぐる論点が確認される

 1時間半におよんだディスカッションの後,司会の立岩真也氏(立命館大)は,論点を以下の3点に整理した。

1)安楽死と尊厳死を区別する意味はあるのか
 現在,安楽死と尊厳死は関係はないという人と,関係があるという人がいる。しかし,少なくとも過去にはその2つを連続的にとらえている人がいた。このことをどう認識するか。

2)「末期の苦痛に満ちた状態」「植物状態」について
 植物状態になれば,自分の意思を明らかにすることはできない。だから生前にその意思を明らかにしておいたほうがよい,という考え方は成立する。しかし,植物状態から回復する人,あるいは「末期の苦痛に満ちた状態」になってから,考え方を変える人がいる。これをどう考えるか。

3)尊厳死と医療経済について
 今現在,尊厳死を推進する人で,医療経済状況をその推進理由に挙げる人はいない。しかし,個人レベルで「お金がないから死んだほうがいい」と考える人がいても不思議ではない。この時,そうした決定を「本人が確固たる意思で選んだ道であり,そこに医療資源,国家財政の問題は関係しない」と言えるのか。

 最後に立岩氏は「個人的にまだまだ言い足りないこと,言いたいことはある。最後に確認しておきたいことは,尊厳死とは『いかに死ぬか』という問題であるということだ。人命救助の場面など,緊急性が高い場合,既成の法や倫理の枠組みを超えることが許容される場合があるが,『いかに死ぬか』という問題は,人の命を救う時ほど緊急性が必要だとは思えない。時間をかけて,今日出た論点をさらに深めていきたい」と述べ,集会をまとめた。