第2614号 2004年12月20日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第50回

先端医療の保険給付(メディケアに学ぶ)(1)
カリスマ主婦の入獄と夢の新薬

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2609号よりつづく

 04年10月8日,私にとって,この20年間の癌治療の進歩について複雑な思いを抱かざるをえないできごとがあった。Homemaking(家事・家政)市場にマルティメディア帝国を樹立,「カリスマ主婦」として全米的人気を誇ったマーサ・スチュアート(63歳)が,ウェスト・バージニア州の連邦女性刑務所に収監されたのである。カリスマ主婦の入獄が,なぜ,癌治療の進歩と関係するのかをご理解いただくために,まず,スチュアートが刑に服することになった経緯から説明しよう。

カリスマ主婦のインサイダー取引疑惑

 スチュアートが連邦捜査当局の取り調べを受けるきっかけになったのは,2001年12月に起こった,バイオベンチャー,イムクローン社株をめぐるインサイダー取引容疑だった。同社創立者兼CEOだったサミュエル・ワクサル(すでに7年の刑で服役中)から,開発中の新規抗癌剤「エルビタックス」についてFDA(食品医薬局)がその承認申請を却下する見込みだというインサイダー情報を提供され,FDAの正式決定発表前に株を高値で売り抜いたというのが,スチュアートにかけられた容疑だった。

 結局,捜査当局はインサイダー取引そのものでは立件できず,スチュアートは「捜査過程で嘘をついて捜査の妨害をした」罪で訴追された。04年3月有罪判決を受け,05年3月までの5か月間,服役することになったのだった。資産総額5億ドルともいわれる大富豪が,刑務所内で時給12-40セントの労務に服する羽目になったのだが,そもそものきっかけはイムクローン社が新規抗癌剤エルビタックスの開発に取り組んだことにあったのである。

「夢の新薬」エルビタックス

 01年12月当時イムクローン社株が72ドルという高値をつけていた最大の理由は,エルビタックスは既存の化学療法薬とはまったく違うメカニズムで癌細胞増殖を抑制する「夢の新薬」であると,投資家の期待を煽っていたからだった。エルビタックスはEGF受容体(註)に対するモノクローナル抗体であるが,腫瘍の増殖を促進する「増殖因子」をブロックするという,まったく新しい作用機序が「セールス・ポイント」となっていたのである。

 「夢の新薬」エルビタックスの効果のほどに対する自信を誇示するかのように,01年6月,イムクローン社はFDAに対し「加速認可(accelerated approval)」を申請した。株式市場も同社の動きを好感,同社の株価は右肩上がりの上昇を続け,インサイダー取引事件が起こるまでの半年の間に6割も値を上げていたのだった。

 自信満々でFDAに申請をしたのにもかかわらず「却下」となったのは,エルビタックスが「無効」であったからではなく,「治験情報が不備」であったことが理由だったが,この辺り,米薬事行政に不慣れな新興企業の悲しさが現れたと言ってよいだろう。却下決定後,イムクローン社の株は案の定大暴落,同社の株価はピーク時の10分の1近くまで下げたのだった。その後,イムクローン社は初回申請時のデータ不備を正した上に,新たに追加された患者(初回申請時と合わせ計329人)での治験結果に基づき,03年8月にエルビタックス承認の再申請を行い,04年2月,晴れて,進行結腸直腸がんに対する治療薬として承認されたのだった。承認後,再び株価が上がり始めたのは言うまでもない。

高くついた「夢の新薬」

 さて,イムクローン社をめぐるインサイダー事件が,なぜ,私にとって個人的に感慨深いものとなったかだが,実は,20年前に大学院生をしていた頃,私は「EGFをはじめとする増殖因子による腫瘍細胞の増殖調節」を研究テーマとしていた。当時「増殖因子の作用をブロックすることが新たな癌の治療法となる」という,ナイーブとも言える夢を信じて研究に励んだだけに,自分の夢がエルビタックスという新薬の形で現実のものとなっただけでなく,その「経済的価値」をめぐってインサイダー取引事件を引き起こすまでになったことに複雑な感慨を抱かざるをえなかったのである。

 ところで,容疑対象となった「インサイダー取引」でスチュアートが上げた利益は「わずか」5万ドルであったという。一方,この事件に巻き込まれたことでスチュアートが所有する企業の株価が暴落,スチュアートは株価の暴落だけで1億6600万ドルの損失という大きな「つけ」を払うことになったのだった。

 しかし,「夢の新薬」エルビタックスの開発が高くついたのはスチュアートだけではなかった。エルビタックスは,抗癌剤イリノテカンとの併用薬としてFDAに認可されたが,エルビタックス=イリノテカン併用療法1クール(8週間)の薬価コストは3万ドルとなるので,「夢の新薬」開発は,患者にとってもべらぼうに高くつくことになったのである。

この項つづく


(註)EGFはepidermal growth factorの略。Epidermalを字義どおり訳せば「表皮増殖因子」となるが,日本ではなぜか「上皮増殖因子」と訳されることが多い。