〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第50回
04年10月8日,私にとって,この20年間の癌治療の進歩について複雑な思いを抱かざるをえないできごとがあった。Homemaking(家事・家政)市場にマルティメディア帝国を樹立,「カリスマ主婦」として全米的人気を誇ったマーサ・スチュアート(63歳)が,ウェスト・バージニア州の連邦女性刑務所に収監されたのである。カリスマ主婦の入獄が,なぜ,癌治療の進歩と関係するのかをご理解いただくために,まず,スチュアートが刑に服することになった経緯から説明しよう。
結局,捜査当局はインサイダー取引そのものでは立件できず,スチュアートは「捜査過程で嘘をついて捜査の妨害をした」罪で訴追された。04年3月有罪判決を受け,05年3月までの5か月間,服役することになったのだった。資産総額5億ドルともいわれる大富豪が,刑務所内で時給12-40セントの労務に服する羽目になったのだが,そもそものきっかけはイムクローン社が新規抗癌剤エルビタックスの開発に取り組んだことにあったのである。
「夢の新薬」エルビタックスの効果のほどに対する自信を誇示するかのように,01年6月,イムクローン社はFDAに対し「加速認可(accelerated approval)」を申請した。株式市場も同社の動きを好感,同社の株価は右肩上がりの上昇を続け,インサイダー取引事件が起こるまでの半年の間に6割も値を上げていたのだった。
自信満々でFDAに申請をしたのにもかかわらず「却下」となったのは,エルビタックスが「無効」であったからではなく,「治験情報が不備」であったことが理由だったが,この辺り,米薬事行政に不慣れな新興企業の悲しさが現れたと言ってよいだろう。却下決定後,イムクローン社の株は案の定大暴落,同社の株価はピーク時の10分の1近くまで下げたのだった。その後,イムクローン社は初回申請時のデータ不備を正した上に,新たに追加された患者(初回申請時と合わせ計329人)での治験結果に基づき,03年8月にエルビタックス承認の再申請を行い,04年2月,晴れて,進行結腸直腸がんに対する治療薬として承認されたのだった。承認後,再び株価が上がり始めたのは言うまでもない。
ところで,容疑対象となった「インサイダー取引」でスチュアートが上げた利益は「わずか」5万ドルであったという。一方,この事件に巻き込まれたことでスチュアートが所有する企業の株価が暴落,スチュアートは株価の暴落だけで1億6600万ドルの損失という大きな「つけ」を払うことになったのだった。
しかし,「夢の新薬」エルビタックスの開発が高くついたのはスチュアートだけではなかった。エルビタックスは,抗癌剤イリノテカンとの併用薬としてFDAに認可されたが,エルビタックス=イリノテカン併用療法1クール(8週間)の薬価コストは3万ドルとなるので,「夢の新薬」開発は,患者にとってもべらぼうに高くつくことになったのである。
(この項つづく)