第2613号 2004年12月13日


対談
内田樹×春日武彦

中腰で待つ援助論
――時が流れ出し,ケアがはじまる

内田樹氏
(神戸女学院大学教授)
春日武彦氏
(都立墨東病院精神科部長)


 本年9月,弊社より刊行された『死と身体』が,bk1,amazon.comなどのインターネット書店で売り上げトップ10にランクインするなど,大きな反響を呼んでいる。著者の内田樹(うちだ・たつる)氏はフランスの哲学者・レヴィナスの研究者。数年前に『ためらいの倫理学』(冬弓舎)を刊行して以来,映画論,フェミニズム,身体論などジャンルを越えた執筆活動を展開している。医療・看護界では弊社刊『看護学雑誌』2003年1月号のインタビュー「インフォームド・コンセントと医療の呪術性」に登場し,臨床看護師を中心に話題となった。

 医療・看護界では異色の存在といえる内田氏の著作の何が,医療職の関心を呼んでいるのか。本紙では,内田氏の論に深い共感を覚えているという精神科医・春日武彦氏との対談を企画。その「謎」を追った。


■「中途半端さ」に耐える能力

「時間」が問題を解決する

――内田先生の『死と身体』,春日先生の『はじめての精神科』は,いずれも看護職を中心に大きな反響を呼んでいますが,この2つの著作には,どこか共通するものがあるようです。

 まず,お2人とも,「保留」あるいは「中途半端さに耐える」といったことを重要な能力として強調されています。医療界ではこれまで何もしない,あるいは保留する,ということは,一種の「敗北」とされてきました。

内田 珍しいですよね,春日先生みたいに「待つ」とか,「とりあえず棚上げしておく」といったことを書かれるお医者さんって。

春日 臨床では「判断に困る」状況がたくさんあります。そういう時にいちいち正論をぶつけられたりすると,議論の途中でめんどくさくなっちゃうんですよね。

内田 議論しても,互いにどうしても論破しきれない部分が残る。だからいつまでたっても先に進めない。それは結局,未来にかかわる問題が絡んでいるからですよね。

 両者が異なる未来予測に基づいて論理を立てていると,結局そこについては,時間がたって実際に結果が出るまではわからない。「朝まで生テレビ」の議論がいっつも収拾つかなくなるのも同じ理屈です。

 こういう場合には,「待つ」とか「保留」ということが有効になる。放っておけば,短いものだったら1週間,長くても1-2年待てば,何らかの結果が出る。それから議論すれば合意に至れるということは,実際にはすごく多いと思うんですよね。

春日 その通りです。数日したら「なんかよくわかんないけどよくなっちゃった」とか「全然関係ない理由で亡くなっちゃった」とか,議論の余地がなくなっちゃうこともありますからね。

内田 時間が経過することによって,取りうるオプション自体が激減するってことですよね。

 逆に,結果が出ない段階で変に相手を論破しても,負けたほうはずっとウジウジ根にもって,こっちの仕事を妨害してきたりする(笑)。そんなことになるくらいだったら放っておいたほうがいいんですよ。

 僕たちは,無意識のうちに「無時間モデル」でいろんなことを考えてしまいがちです。けれど,時間のファクターを入れるだけで解決しちゃう問題って多いと思うんですよね。先生の本も,時間というファクターを医療の中に取り入れたいうことが,大きな特徴になっているように思います。

春日 それがしばしば,「いい加減だ」とか「無責任だ」というふうにとられちゃうんですが,そうじゃないんですよ。実際,待つことで解決する問題って多いんです。

中腰で耐える

春日 僕は,そういう「中途半端なところで時間が経過するのを我慢できるかどうか」っていうのが,援助者の実力の1つだと思っています。それは言い換えれば,精神の健全さの指標です。我慢できない人は,お手軽なストーリーを借りて妄想に走ることになる。そういう意味では,内田先生が今回の『死と身体』で書かれていた「中腰で我慢する力」というのはまさに,そういう力のことを言ってるのだと思いました。

内田 そうですね。知性というと,だいたい「精密さ」とか「正しさ」といった,クオリティのほうを想定しがちですよね。でも僕はもうちょっと「フィジカルな知性」が重要だと考えていて,それを今回の本では「中腰」とか「知的肺活量」という言葉で説明しました。

 おそらく医学もそうだと思いますが,自然科学では,ある仮説が駄目になった後,次の有効な仮説が出てこない過渡期みたいな時期というのが,必ずあるんですね。そういうパラダイムとパラダイムの端境期には必ず混乱が起きるのですが,クリアカットな論理を好む人というのはそういう時,古い理論にしがみつくか,まだ不安定な新しい理論にパッと乗り移ってしまうかのどっちかになってしまうことが多い。

 でも実際には,そうした時期には新しいところもつまみ食いしながら,古い理論の使えるところも取るというような,いい加減で,中途半端なやり方が必要なんです。

 そういう端境期の「酸欠状態」を,息を止めて「グッ」と我慢する。それは,普通考えられているよりもずっとフィジカルな知性のあり方だと思います。瞬間的な判断力じゃなくて,どれくらいの時間,判断を保留したまま我慢できるのか。こういう「知性の量的な側面」というのは,なかなか問題にされてこなかったと思います。

■「ノイズ」をキャッチする知性

地域限定,期間限定,条件限定の理論

内田 大学の先生もそうなんですが,医師も,「自分は正しい答えを知っている」という信憑が基本的にあるし,それがないとやっていけない職業です。だから,中腰で我慢するというあり方は難しいのかもしれない。

 しかし,知性は正しい判断を下すこともあるし,間違えることもある。だからもし正しい知性のあり方というのが存在するとすれば,それは正しい判断をくだせない時に「よくわかりません」と言えることだろうと思います。しかし中腰で我慢できない人というのは,それを,すごく嫌うんですよね。

 そういう人は,自分の理論が適用できない事例があった時に,「これにはあてはまりません」と言わずに,無理やりあてはめようとする。事例の中の都合の悪いファクターを全部削り取って,「ほら! 私の理論は全部にあてはまる」と言いたがるわけです。

春日 実際にはノイズ,あるいは例外みたいなもののほうが大事だったりするわけで,「すべてに当てはまる」なんていうマニュアル的なものは,現場では役に立たないんですよね。

内田 ですから逆に,「ここには有効だけれども,ここから先には使えません」と言う,地域限定,期間限定,条件限定の,適用範囲が限定されている理論のほうが,僕は理論としてはずっと上等だと思うんです。「何にでも使えます」なんて怪しいですよ。

春日 統合失調症の方で「これが宇宙の法則なんです!」って言いたがる人がけっこういるんですけど,それと一緒ですね(笑)。とにかく,コンパクトな中に真実を入れたがる。本1冊とか,箱の中に世界のすべてが入ってるとか,そういうのにグッとくるらしいです。

内田 普遍的であり,簡明であるものが好きってことですよね。そういう意味では似ているかもしれない(笑)。

「剃り残し」に目を向ける

内田 自然科学や社会理論では,「オッカムの剃刀」という言い方があります。単純で,できるだけ例外の少ない命題でいろいろなものを説明できるのがいい仮説だという話なんですが,僕にはそれがそんなにいいものには思えない。「この理論はここからここまでなら有効で,後は適用できない」ということのほうが現場の現実でしょう。「オッカムの剃刀」の「剃り残し」があってもいいと思うんですよ。

春日 まったくそのとおりですね。マニュアルはそれこそ「オッカムの剃刀」みたいに,剃り残しなんかまるでないかのように書いてありますが,それって単に,無視しているだけなんですよね。

 精神科の場合は特にそうだと思いますが,マニュアルを作る時にそういうノイズをそぎ落としてしまって,ぜんぜん意味がなくなってしまうということは多いです。一見どうでもいいようなことが,実は非常に重要だったりするわけだから,そこを削ぎ落とすと身も蓋もなくなっちゃうんです。

内田 だからだと思うんですが,精神科医の方が書く本って,ケースから始まることが多いですよね。

春日 ええ。僕も,精神医学の雑誌を初めて見たときに,「こんなに面白くていいのだろうか」って思いましたね(笑)。

 それは結局,一般論に回収できない部分にこそ,とっかかりというか,その人の問題のポイントがある,ということなんだと思います。

内田 一般化しようとしても,どうしてもひっかかるところ,削ぎ落としにくいところ,それがポイントだということですね。

ノイズは身体が察知する

春日 例えば,一見普通に見えるんだけれど,こっちの身体のどこかで「何か変だぞ」というアラームが鳴る患者さんがいます。

 そういうふうに「何か変だ」と思っても,表面上は問題がなさそうに見えるからとそのままにしておくと,あとでトラブルが起きたってことはよくあります。そういう一般化できない違和感は誰しも感じているし,それを指摘できるかどうかは大事だと思いますね。

内田 アラームの話は,まさに同感です。学生の就職活動の話を聞いてみても,会社を訪問した時に「何か変だぞ」ということを感じているにもかかわらず,資本金とか,給料とか,福利厚生のような可視的な数値を信じて「いい会社だ」と判断してしまって,後で失敗だって気づく人が多いんですよ。

 「身体が感じるアラーム」というのは頭脳による知的な判断ではなくて,身体的な反応ですよね。相手から出ている,微妙なノイズを,頭は反応しなくても,身体はどこかで感じている。瞬きの回数とか,喋ってる言葉とピッチのずれとか,視線とか,そういった微細な情報を身体はキャッチしている。だから,それに耳を傾けることが重要だと思うんですが,今は知的判断を優先させてしまうことが多いんですよね。

「量的」な差異は認知しにくい

春日 僕は,推理小説がわりと好きなんですけど,探偵がどこかで違和感を持って,そこを足がかりに推理を進めていくタイプが好きなんです。前に読んだのでけっこう感心したのが,犯人がアリバイのために撮った「これから出発する電車の写真」を足がかりに推理を進めるというものです。

 探偵は写真を見た瞬間から「何か変だ」とは思うんだけど,それがどうしてかはわからない。最後に探偵が何に気がつくかというと,電車の窓が開いたり閉まったりばらばらだったということに気がつくんですね。「出発前だったら,窓は整然と閉まっているはずで,こんなふうにバラバラなわけはない」と推理して,実はその写真が,「到着時」のものであるというトリックを見抜くんです。

 そういう風に,ぱっと見た時には言語化できないけれど,何か変な感じがするっていう感覚はすごく重要だと思います。

内田 同じですね。「理由はわからないけれども気になる」という時には,必ず何かノイズみたいなものに人間の身体が反応しているんですよ。それは人間と人間が会った時に感じるアラームと同じものだと思います。

春日 つまり,言語化しづらい違和感ってことですよね。雑誌等に載っている間違い探しで,2つの絵が並べてあって違いを見つけろっていうのがあります。そういう場合,例えば,「片方に何かがあって,もう片方にない」というのは比較的見つけやすい。けれど,「腕の角度がちょっと違う」とか「足の長さが違う」というのは,よほどその気にならないとわかりません。

 そういう違いというのは,非常に言語化しづらくて,見つけにくいのだけれど,直感的に「何かが違う」ということはわかる。そういう感じですよね。

内田 「ある」「ない」ではなく,角度や長さの違い,つまりデジタル的な違いかアナログ的な違いかということだと思いますが,おっしゃるとおりですね。知的判断って,デジタルな変化にはわりと敏感だけども,アナログには弱い。つまりは,量的な変化に弱いんだと思います。

 だから,僕らが人間関係で感じるノイズというのも,たぶんアナログ的なノイズなんですね。何かがちょっと過剰か,あるいは足りないか。そういうものを身体は繊細に感知しているんだと思います。

違和感を共有すること

内田 そういう身体感受性の大切さを,僕は学生にも教えようとしているんですが,なかなか理解されません。医療職の方は一般的にそういうものを大切にされているんでしょうか。

春日 そうですね。看護師さんなんかはわりに敏感で,いろんなトラブルに出くわす時も,「寝耳に水」っていうのは少ないっていいますね。どこか変な感じ,「危なそうだな」という感覚を持っていたところに,「やっぱり」とか「案の定」っていう感じでトラブルが起きるといいます。

内田 なるほど。それは医療現場ではわりと共通した認識なんですか。

春日 そうですね。ただ,言葉にしにくいことですから,医者や看護師同士で,そういう感覚を,カンファレンスなんかを通して共有し合うことは大事だと思います。

 患者の様子が,どこがどうというわけではないけれど,どうも不穏な気がするという時,「よくわかんないけど,何だか気にくわないんだよな」といったことを,誰かに相談できるだけで,ずいぶん楽になるんですよ。言葉になりにくいし,説明しにくいことだからこそ,同僚同士で共有し合うことって重要だと思います。

 まあ,精神科の場合は,どうしても「あの患者,どうも喋り方が気にいらないんだよな」っていうような悪口の言い合いみたいなことになってしまいがちですけど,そういうことって大事だと思いますよ(笑)。

■他者との共生――「エイリアン」とさえ共生できる

「患者さんの悪口」

内田 今,患者さんの悪口のお話がありましたが,それも春日先生のすごいところですよね。今の世の中で,これだけ患者の悪口を書いてある本もないんじゃないかと思います(笑)。

 でも,これは正しいと僕は思うんですよ。1つには,「援助者のリソースは有限である」ということが前提になっているということがあります。「すべての問題を正しい方法で解決する」っていうのは,リソースが無尽蔵にあることを前提にしています。けれど,実際には援助者のリソースは有限だし,腹が立つことだって当然ある。性格的に短気な医者がいたって全然おかしくないし,気が合わない患者さんだっている。そういう清濁すべてを盛り込んで,援助論としてまとめられていることがすばらしいと思いました。

春日 実際,腹が立つことも多いですからね(笑)。それとやっぱり,他人事じゃないっていうのもあります。患者さんを診ている時,ふと自分の人生を振り返って「俺もあの時発病してたんじゃないか」と思うこともあるんです。つまり,「こいつは俺のもう1つの姿かもしれない」という一種の共感がわき起こることがある。一方で「なんだこいつは? 俺とはまったく合わないな」と思うこともあります。

 やたら患者さんに思い入れをしちゃう人は,「患者さんの悪口を言ってはいけない」と言うかもしれないし,また逆に「患者は自分とは違う。エイリアンだ」という冷めた目で接している人は,それはそれで患者さんの悪口なんか言いませんよね。自分の同類だと思ってないから。

内田 20代の頃,知的障害児施設でボランティアをやったことがあるんです。初めて知的障害児たちに出会った時はびっくりしちゃいましたね。まったく理解できなかったし,怖かった。けれど,すぐに慣れて,相手に親しみを感じるようになりました。

 つまり,最初は単に「エイリアン」としてしか見れなかった相手が,だんだんと愛の対象になってくる。いわば「エイリアン期」から「エンジェル期」に入るわけですね。しかし,それからしばらくして,ある子がやったことで,僕はすごく腹が立っちゃって,怒鳴ったんです。「なんてやつだ。おまえは人間の屑だ!」って。僕はその瞬間,それまで自分がその子のことを人間として見てなかったことに気がつきました。

 知的障害児の中にも,性格のいい悪い,気の合う合わないがあるという,あたり前のことが僕にはわかっていなかった。人間としてやっちゃいけないことは,知的障害児だってやっちゃいけいない。「この子たちのことを批判しちゃいけない」と思っていた,それまでの自分のアプローチが不十分だったことに気がついたんです。

 これが言うなれば,「エンジェル期」から「同一カテゴリー期」ということになると思うんですが,やはりしばらくすると,「いや,同一カテゴリーというのにも無理があるな」と気がつく(笑)。それを続けようとすると,どうしても自分が壊れちゃうんです。やっぱり,彼らと自分とはすごく違う存在ですからね。

「世界への信頼感」が他者性を担保する

春日 よくわかります。共同性と異他性って,同時に持ってなきゃいけないんですよ。「何だかよくわからないし,気持ち悪い」という思いと,「何とかして一緒にやっていこうよ」っていう思いを両立させてほしいんですが,それが単なる差別とか,逆にやさしさだとかにすりかえられちゃうことが多いんですよね。

内田 自分の理解が届かない人間がいるっていうことが,僕も若い頃はすごく悲しかったんですよ。でも,60数億人それぞれが,誰からも理解が届かない部分を持っているということ自体が,逆に僕たちの世界の共同性,ひいては人間性みたいなものを担保しているんじゃないか。もし互いに完全に理解が届くんだったら,世界にこんなにたくさんの人がいる必要もないんじゃないか。最近はそんなふうに,異他性にプラスの意味を付加して考えられるようになってきました。

 ただ,順番で言うなら,やはり共同性に対する,根本的な確信みたいなものに支えられてないと,他者性って言葉が出てきた時に耐え切れなくなってしまうんじゃないでしょうか。そうなると,お手軽な差別主義とか,博愛主義に飛びついてしまうのかもしれません。

 自分が生きているこの世界への信頼感,「自分はここにいていいんだ」という,生きていくことへの確信のようなものがあってはじめて,他者のこととか,異他性のことを考えられるんじゃないかと思います。

 逆にいえば「こいつはエイリアンだ」とか「俺の居場所はここにはない」といった感覚から出発しちゃうと,自分の理解が届かない他者との共存を考えるのって難しいですよね。

春日 たしかに,他者,あるいは世の中のあらゆるものに対する信頼度が最初から低い人たちって,ものすごいトラブルを起こしがちだし,こっちも巻き込まれてしまうというのはよくわかりますね。逆に,愛されて育ったゆえの一種の楽天性というのに感動することもあります。医者の息子って,そういう人が多いですよ(笑)。

内田 レヴィナス()が,ああいうシビアな他者概念を構築できた根本には,彼が幸福な育ち方をしたということは大きくかかわっていると思うんですよね。彼は家族に愛されて育ち,妻と愛し合って幸福な家庭を作って,周りのユダヤ人共同体の中のすべての人に若い頃から「先生」と慕われ,リスペクトを受けてきました。共同体に対する確かな信頼感があるから,「理解も共感も受け付けない他者」といった,非常にストレスフルな概念に中腰で耐えることができたのではないかと思います。

エイリアンとさえ共生できるのが人間

内田 いずれにしても,そういうふうに自分にとっての「エイリアン」とさえ,共生しようとするのが,人間の人間たるゆえんじゃないかと思うんですよね。春日先生が,悪口を書きながらも患者さんの治療を続けるというのは,だからとても正しいと思うんです。最初からわかりあえるんなら,精神科医なんかいらないですよね。

春日 僕はわりに,とんでもない妄想を持っている人なんかは「自分の仲間」だと思えるんですよね。むしろ,患者さんじゃなくて,プライベートで会った普通の人が,まったく本を読んでないということを知った時に「こいつは俺とほとんど同じなのに,なんで本を読まないで平気なんだ?」って気持ち悪くなったりしますね。

内田 本を読んでないだけでですか? 僕はそれはないなあ(笑)。ともかく,精神病の患者さんを共感を絶した他者として扱うのではなく,逆に自分たちと同じ存在として扱うのでもなく,「理解できないけれど共生していくやり方」というのを,人類は模索し続けてきたんだと思います。

■時間と他者――時が流れ出し,ケアがはじまる

時間のない世界に他者はいない

内田 例えば精神病院というのは,一定期間,精神病患者を社会から「分ける」ためのものですよね。そういうふうに,「ちょっと横へのけておく」っていうのは,人間だけができる知的操作です。動物は判断を保留できないから,「しばらくわきに置いておいて」という問題処理はできない。精神病院というのは,そういう人間的知性を総動員して,理解不能な相手との共存を模索した1つの結果だと思うんです。

春日 そうですね。入院して,しばらく待てばいい感じに仕上がることもあるし,うまくいかないこともある。だから,これも「時間」が大事なんですよね。

内田 無時間モデルで考えているとどうしても,「精神病者は隔離せよ」「いや,それは人権侵害だ」というシンプルな議論に終始してしまう。そうじゃなくて,どれくらいの間,隔離するのか,どれくらいで社会に戻ってもらうのかを徹底的に計量的に考えるべきなんじゃないでしょうか。

春日 それは,個人レベルの精神病でも同じことですね。例えば,神経症の治療では,患者さんが気になってしょうがない対象について,「ゆっくりと知らんぷりをしていく」ことができればいいんです。しかし,それがうまくいかない。突然,極端に「知らんぷり」をはじめてしまって,解離症状を起こしてしまったりする。

内田 神経症というのは,時間性が失われる病だということですね。

 レヴィナスに『時間と他者』という,1940年代に書かれた書籍があるんですが,そこには「時間とは他者である」と書いてあります。神経症にしても統合失調症にしても,要するに他者との距離の取り方,付き合い方がわからないという病ですよね。結局それらの人には時間という概念が欠けているっていうことなんじゃないでしょうか。

春日 なるほど。「あいまいさ」を許容できないっていうのは,時間性がない,つまりは「待てない」ってことですもんね。

内田 おそらく,時間性を取り入れることと,他者を受け入れるということはシンクロしているんですね。神経症とか統合失調症というのは,そういう点で無時間モデルの病なんだということが,お話していてわかりました。

「交換」がはじまり「時間」が流れ出す

春日 『病んだ家族,散乱した室内』では,「家の中では外とは違う特殊な時間が流れている」ということを書きました。訪問診療っていうのは要するに,扉を開くことで,そこに外部の時間を持ちこんで,それにシンクロさせることなんだ,それが治療なんだという話を書いたんです。

内田 それ,今回の本で僕が書いた時間の話とまったく同じ結論ですね。ラカンが同じようなことを言っています。要するに,精神病の患者というのは時計が止まっているのであり,その時計を動かしてあげることが治療であるということを言っている。

 今回の本ではそこに,レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)の話を持ってきて,「時計が動くということは交換関係の中に入っていくということだ」って書きました。

春日 どういうことですか?

内田 「交換」って,時間概念がないとできないんですよ。こちらから「あげて」,向こうから「くる」。その間にタイムラグがあってはじめて交換になる。無時間モデルでは絶対に交換はできないんです。

 だから,交換というのは,たぶん人類が時間という概念を導入する非常に大きな契機になっていると思います。

 精神科の治療なら,言葉のやり取りがあり,病院の窓口では金銭のやりとりがある。そうやって交換がスタートすることで,止まっていた患者さんの時間が流れ出すのだと思います。

春日 統合失調症の人だと,こっちが話しだす前に「うん,先生の言うことはよくわかりました!」と話が終わっちゃうことがあります(笑)。それでは時計はストップしたままなんですよね。

内田 ですから,いかに交換を続けるかということが,大学の先生でも医師でも,大切な技法なんだと思います。

 最近,講演に呼ばれることが多くなったんですが,私は「今思いついた話」をよくやります。それは結局,聴衆がそこにいることによって,僕の話の内容が変わったんだということを,皆さんが察知することで,交換がはじまるからです。

 聴衆とのやりとりさえ継続できていれば結論なんて要らないんです。オチがなくたって,交換が最後まで続いていれば,お客さんも「面白かったね」と思ってくれるんですよ。

「原初的交換風景」としての天岩戸

春日 訪問診療も,本当はそうなんですよ。結論なんかいらない。話を続けるだけで十分なんだけど,きちんと成果を報告シートに書かないといけないことになっているから,「お茶飲んで,楽しく過ごしました」とは書けないわけですよ。でも本当は,おっしゃるとおり「交換」だけで十分なんです。それこそ,黙って手を握っているだけでもいいんです。

内田 何もしなくていいんですよね。教育と治療って似てると思います。結局,僕らは学生に向かって,「学ぶことを欲していないこと」を教えることはできない。本人が学びたいこと以外は絶対に頭に入らない。治りたいと思っていない患者さんは治りませんよね。

春日 うちは公立病院だから断るわけにはいきませんが(笑),本人が治りたいと思っていないのを,治すのは不可能だっていうのは本当だと思いますね。

内田 「学びたい」「治りたい」というドアが1回開いたら,あとはその人が勝手に取り組むわけですよね。最初,そのドアはふさがっている。患者さんの場合は病だし,学生の場合は無知の悲しみでドアが閉じてる。こちらはただドアを開けてあげるだけです。こじ開けるという手もあるけれども,一番いいのは天岩戸と同じで,前で踊るんです(笑)。そうすると「何をあんなに楽しそうにやってるんだろう?」と自分から扉を開いてくるんですよ。

 ゲラゲラ笑ってる人には,皆,好奇心が向いちゃうんですよね。何がそんなにおかしいんだろう? 何が楽しいんだろう?って。面白がってる人が一番強い。皆,抵抗できないですよね。

春日 好奇心って,人が動く動機としては一番大きいですからね。

内田 そうなんですよ。天岩戸って結局,皆が号泣して頼み込んでも,怒鳴って脅かしても開かなかったドアが,好奇心が喚起されることによって開くっていう話じゃないですか。

 皆が背中を向けてゲラゲラ笑ってると,「私がいないのに,何がおかしいんだ?」という好奇心が引き起こされる。まさにそこから交換がはじまって,時が流れ出す。天岩戸って,人類における「交換」の,原初的な状景を描いたんじゃないかな。


●レヴィナス
エマニュエル・レヴィナス(Emmauel Levinas;1905-1995)。リトアニア出身のフランス現代思想家。フッサール,ハイデガーの思想を踏まえて,倫理・存在論を構築する。その思想は難解で知られるが,主著『全体性と無限』『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』で論じられたという「暴力的でも非暴力的でもないまったく別の倫理」のあり方に,近年注目が集まっている。

内田樹氏(うちだ・たつる)
神戸女学院大学文学部教授。1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業,東京都立大学大学院人文科学研究科中退。同人文学部助手を経て,現職。専門はフランス現代思想,映画論,武道論。『ためらいの倫理学』(冬弓舎→角川文庫),『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋),『私の身体は頭がいい』(新曜社)など著作多数。また,フランスの哲学者,E.レヴィナスに関しては『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房),『他者と死者』(海鳥社)などの著作のほか,訳書多数。

春日武彦氏(かすが・たけひこ)
都立墨東病院精神科部長。1951年京都生まれ。日本医科大学卒業後,産婦人科医を経て精神科勤務。東京都精神保健福祉センター,都立松沢病院などを経て現職。『何をやっても癒されない』(角川書店),『家屋と妄想の精神病理』(河出書房新社),『幸福論』(講談社現代新書),『病んだ家族,散乱した室内』『援助者必携 はじめての精神科』(ともに弊社刊)など,専門書・一般書ともに著作多数。