第2609号 2004年11月15日


特集 アテネ五輪に医学が貢献

国立スポーツ科学センターがひらく
スポーツ医学の可能性

川原 貴氏(国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部長)に聞く
<聞き手>萩迫 猛さん(鹿児島大医学部6年)


 本年8月に行われたアテネオリンピックにおいて,日本選手団は計37個のメダルを獲得する好結果を残した。そんな中,競泳,体操,レスリングなど,アテネで好結果を残した選手団へのサポートを行った国立スポーツ科学センターの活動が注目を集めている。設立4年目のこの施設では,練習環境の提供はもちろんのこと,各身体データの分析からメディカルサポートまで,最先端の医科学によって選手を支えている。同センターが選手に提供している医学・科学的サポートは,これまでの日本スポーツ界には見られなかったもの。スポーツ医科学の最先端を取材した。


アテネに支援チームを派遣

萩迫 アテネオリンピックでは,多くの日本人選手がすばらしい成績を上げました。国立スポーツ科学センターとしてはどのような取り組みを行われたのでしょうか。

川原 私どもの施設が活動を開始したのが2001年10月。その後,アジア大会などの大きな大会・競技会を通して,また選手によっては拠点施設として,サポートに努めてきました。中でも,競泳,体操,レスリングなどは,私どもの施設をトレーニング拠点施設として使用し,かつよい成績を残してくれた競技だと言えます。

 ただ,今回のようなすばらしい成績は,正直にいって予想していませんでした。今回のアテネでは,前回シドニー大会の成績を上回ることはほぼ間違いないが,それでもせいぜい金メダルが8個くらいとれればよいだろうと思っていました。

萩迫 予想外の出来だった,と。

川原 そうですね。ただ,トップアスリート,特にメダル争いになってくると,非常に微妙な,紙一重のところの勝負ですから,どっちに転ぶかはやってみなければわからないというところがあります。今回は,それがよいほうに転んだ,ということでしょう。

萩迫 大会期間中は,どのようなサポートを行われたのでしょうか?

川原 まず,現地アテネの食糧事情や衛生状態などを中心に,事前調査に行きました。どこでどういう食材が手にはいるのか,水の状況はどうか,といったことですね。そして大会中は支援チームを2つ派遣し,ソフトボールと競泳に対してサポートを行いました。競泳では全競技をビデオに録ってレース分析を行い,即座に資料としてチームに提供する,といったサポートを行いました。

 また,今回はたまたま理学療法士だけでしたが,アジア大会など,大きな国際大会には,私どもから医師を派遣し,医療チームに加わって活動します。オリンピックの場合であれば,JOCが派遣する医療チームに協力するという形ですね。

最新の設備を備えたセンターとして

萩迫 さまざまな角度から今回のオリンピックに貢献されたということですが,こうした施設は,日本においては画期的なものだとお聞きしています。

川原 ここができるまでは,日本体育協会のスポーツ診療所とスポーツ科学研究室というところが同じような役割を担ってきました。そういう意味では,以前からの歴史があるといえます。

 ただ,それらは国の施設ではありませんでしたし,十分な人や予算,施設がありませんでした。私どもの施設は,そういう意味では日本ではじめての,国が設置する,日本のスポーツの国際競技力向上を目的とする施設といえます。

萩迫 諸外国に,モデルになるようなものはあったのでしょうか?

川原 1960年代以降,共産圏での国家レベルでの競技支援によって,いわゆる西側諸国の競技成績はどんどん落ちていきました。そんな中,フランスやオーストラリアなどの国々は相次いで,国家レベルでの競技力向上施設,プランを作りはじめました。また,アメリカでは民間のオリンピック委員会がアマチュアスポーツの統括団体として新たに法的に位置づけられ,オリンピック委員会がトレーニングセンターを設置するなどの取り組みを進めてきました。

 一方,日本では,1964年の東京オリンピックで米国,ソ連につぐ3位のメダル数を獲得し,また,その後2-3大会くらいはあまり成績が落ちなかった。それゆえ,危機意識はあったものの,対応が遅れたのだと思われます(図)。

 ようやく国レベルでの対策が具体化したのは,1986年ソウルアジア大会で日本が韓国に抜かれ,アジアで3位に転落してからでした。本当は諸外国なみにナショナルトレーニングセンターを設置したかったのですが,予算的に無理ということで科学センターを設置することになりました。ただし,診療・研究施設だけではなく,一部競技のトレーニング施設,研修室,宿泊施設80室,レストランなども入れることになりました。1993年には実施設計までできたのですが,長野オリンピックに予算が回ったため,完成は2001年になりました。その間,先に述べたような国々では国レベルでの取り組みが実を結び,競技成績が向上していきましたが,日本は低迷し続けました。

萩迫 先行して作られた,諸外国のものとの違いはなんでしょうか?

川原 諸外国は広大な敷地にあらゆる競技のトレーニング施設,数百人規模の宿舎,医科学施設を備えたナショナルトレーニングセンターを設置しています。国立スポーツ科学センターはトレーニングセンターとしてはあまりにも小さすぎて,諸外国とは比較になりませんが,科学センターとしては,世界でも最先端といえます。MRI,CT,低酸素施設等,施設面での充実は他に類を見ないものといえるでしょう。国内に目を向ければ,常勤の医・科学スタッフが多数在籍するスポーツ研究施設も日本で初めてのものだと言えます。

スポーツ科学センターの果たす役割

萩迫 オリンピックなどの国際大会のない,通常時にはどのような活動をされているのでしょうか。

川原 私どもの事業の大きな柱としてはまず,トータルスポーツクリニックというものがあります。これは,メディカル,フィットネス,スキル,メンタル,栄養などの面から競技者を総合的にチェックし,競技力向上に必要なデータ提供やアドバイスをするものです。さらに,チェックで明らかになった課題や日頃からの課題を解決するために,各分野の専門家が指導や支援をします。競技会の映像からパフォーマンス分析を行い,世界のトップとの違いは何かを明らかにする,といったこともしています。メディカル面では,競技種目別の傷害パターンを明らかにし,ケアの仕方や障害予防を指導するのも重要な仕事です。

 もう1つの大きな柱は,スポーツ診療ですね。内科,整形外科だけでなく,歯科,婦人科,眼科,耳鼻科,皮膚科,心理カウンセリング,栄養相談が開設されています。また,競技復帰までのアスレティックリハビリテーションが充実しているのが特徴です。

 さらにスポーツ医科学研究も大きな領域ですね。研究は各領域の研究者が協力しプロジェクトを作って実施しています。医学関係では高気圧療法の効果も研究しています。高気圧チャンバー(写真)の中に入ってもらって,酸素をたくさん吸ってもらうことで,急性の障害の治りが早くなる,というものです。

 また,先ほどの予防・ケアのところでもご説明したように,それぞれの競技特有の,あるいはトップ選手に多い障害の予防法の開発や,リハビリで早く筋力を回復させる方法なども開発されています。

萩迫 ここには,低酸素トレーニングルーム(写真)というのもありますね。

川原 実験ベースの小さなルームのほか,宿舎全体を低酸素状態にすることもできます。

 従来ですと低酸素トレーニングは長距離・持久系の競技で有効だと言われていました。しかし,一方で無酸素的な運動にも有効ではないか,という発想もあるのです。これについては筋パワーが高まるという結果も出ています。

 余談ですが,この現象はなかなかおもしろいのです。現在のところの研究結果では,低酸素でパワートレーニングを行った人の筋パワーはたしかに高まっているのですが,対照群に比して筋肉そのものは肥大していないんです。つまり,筋断面積はアップしていないのに,筋パワーは高まっているということです。要するにエネルギー効率がよくなっているわけなんですが,こういったことは従来の教科書的な理論では説明できない現象です。

萩迫 低酸素トレーニングは競泳の選手が利用したとお聞きしましたが。

川原 そうですね。2つの金メダルをとった北島選手などは,アジア大会で世界記録を出して以降は,ほぼ私どもの施設を拠点とし,高地トレーニング前後には低酸素施設も利用しています。

萩迫 実際に,さまざまな競技の選手が利用されることで,新しいトレーニング法への関心など,選手間が刺激しあうといった相乗効果もあるのでしょうか?

川原 それはありますね。やはりほかの競技の選手と話し合う,ふれ合うことでいろいろと勉強になるのではないでしょうか。

萩迫 診療として受診される方は実際にはどれくらいいらっしゃるのですか?

川原 受診できるのはJOC,競技団体の強化対象選手に限られており,月にのべ800人くらいです。合宿中の選手や東京在住の選手が主です。地方の選手は近くの診療機関を受診することになりますね。

スポーツ現場の課題を研究

萩迫 スポーツ医学研究の現状について少しお聞きしておきたいと思います。選手の何を,どのように研究するのか。その視点の置き方がまず問題だと思うのですが。

川原 それは大切な問題ですね。私どもはまず,現場の声に耳を傾けることを大切にしています。現場が何を課題にしているのか。それを聞いて,何を明らかにして,どういう工夫をしていくことが必要かを考えるということが常に求められると思います。

 例えば,トップ選手がやっている技術が常に最高のものかといえば,そう単純ではありません。もしかすると,他の選手が革命的な方法を持ち込んでくるかもしれないし,あるいはその技術は,その選手にしか活用できないものかもしれません。つまり,理論的に考えて合理性があるか,現実にパフォーマンスが出ているか,それぞれを別個に見ていかなくてはいけないということです。

――陸上などを見ていても,トップ選手の場合,それぞれに個性的なフォームで走っているように見えます。

川原 ランニングは研究中ですが,骨盤の働きが鍵だと思いますね。指導者が一般的に「よいもの」と頭の中で想像していたことと,実際は違っていたりする。それが近頃,明らかになりつつあると思います。

 例えば,以前は「足で地面を後ろに押すことが大切」というイメージがありました。だから「膝を伸ばしなさい」といった指導が主流だったのですが,実際に映像解析してみると,トップ選手は膝も足首も伸ばしていないということがわかった。

 これについては,物理的によく考えてみると,膝を伸ばすとロスになることは明らかなんですね。けれど研究されるまで,そういうことには気づかなかった,ということがあるんです。

萩迫 常識の嘘ということですね。

川原 ただ,難しいのは,それを指摘したからといって,簡単に直るものじゃないということです。分析できたからといって,それをどのようにトレーニングに活かしていくかというのはまた別問題となります。

萩迫 なるほど。しかし,そういったトップ選手の動きを研究する中で,われわれ一般人にも役に立つような知見が得られることもありそうですね。

川原 立つ,歩く,走るというのは人間の運動の基本ですからね。実際,選手にも立ち方,歩き方のアドバイスを行うこともありますし,それらは一般の方にも応用可能な部分があると思います。

陸上競技用屋内フィールド。地面に設置されたセンサーや天井からのカメラが選手の動きをさまざまな角度から記録する。

スポーツドクターをめざす皆さんへ

萩迫 最後にスポーツドクターとして,スポーツにかかわる仕事のおもしろさを教えてください。

川原 スポーツが医学に求めるニーズは幅広く,そして大きいと思います。ただ,現状では仕事としては成り立ちにくいということは事実ですね。多くのスポーツドクターは,病院での勤務医が本職で,休日を使ってスポーツドクターとしての仕事をされていると思います。

 整形外科に関しては,ほとんどの大学病院でスポーツクリニックがありますし,当然その研究をされている先生もおられます。普通の医療システムの中でスポーツにかかわっていくことができるでしょう。しかし,例えば内科の方には,スポーツをフィールドとして仕事をやれる場,というのが現状では限られているのだと思います。

 ですから,やはり非常に限られた場ではありますが,こういう施設ができたことは,スポーツ医学を志す人にとっては福音であろうと思います。また,私どもの施設以外では,フルタイムのスポーツ専門の医師がいるところは少ないと思いますが,県レベルで十数か所のスポーツ科学センターがあり,非常勤ではありますが,活躍されている先生がいらっしゃると思います。そうしたところが,スポーツドクターの活躍の場といえるでしょう。

 常勤として働く場はそれほど多くはありませんが,志ある人には,ぜひがんばってもらいたいと思います。


見学を終えて

――選択肢としてのスポーツドクター

萩迫 猛(鹿児島大6年)


 アテネオリンピックで日本は金16個,銀9個,銅12個と計37個のメダルを獲得した。私自身はロサンゼルスオリンピックから20年,オリンピックを見続けているが,今回ほど日本人選手が活躍した大会もなかったように思う。

 国立スポーツ科学センター(JISS)ではトータルスポーツクリニック(TSC)をはじめ各検査室,映像編集・分析室やレストランなど,競技練習の現場や,一歩離れたところで,選手のフィットネスやスキル,メンタル,栄養などをサポートしていた。またスポーツ医学,科学研究部門では選手団のコーチ等からの要望を受けさまざまな研究成果や情報を提供していることがわかった。

 スポーツクリニックでは,内科,整形外科をはじめ,それぞれ大学病院に匹敵する最先端の検査機器を駆使し,手厚く選手を診ている様子がわかった。またリハビリテーション室もあり,受傷後の回復においての選手サポートも充実しているようだった。

 一方,ここには水泳,レスリングをはじめとしたさまざまな競技のための練習場,トレーニング施設が設置されており,多くのオリンピック選手がここで一時期トレーニングを行っていた。さまざまな種目の一流選手たちが一堂に集まり,各々の目標に向かってトレーニングしたことを思うと,この場所の果たした役割の大きさが伝わってくる。選手たちの意識啓発にも重要な位置を占めていたのではないだろうか。

 また,設備面での充実は申し分のないものだった。検査室にあった,お相撲さんでも使えるような大きいMRIや,大型のトレッドミルなど,競技選手に対応できるように整えられた設備には,他国のコーチや研究者が訪問の際に必ず驚くというのもうなずける。

 「スポーツ医科学研究において,トップ競技者を対象に侵襲的検査はできない」という川原先生の言葉が印象に残ったが,非侵襲的な検査器具を充実させる意味は,そんなところにもあるのだろうと感心した。

 先日,小泉首相が「ナショナルトレーニングセンター(NTC)計画を前倒しに」と発言したが,国家全体で一流スポーツ選手を育成していこうという流れが大きくなってきていることがわかる。NTCは国立スポーツ科学センターの近くに建設され,緊密な連携をとっていくそうだ。

 今年から,臨床研修必修化に伴い2年間のスーパーローテーションがはじまっているが,その後の医師としての進路や生き方を選んでいく際に何らかのかたちでスポーツ医学・スポーツ診療にかかわっていく方も少なからずいると思う。スポーツドクターの中には内科医や婦人科医もいるということなので選択肢の1つとして考慮してみるのもよいのではないだろうか。


川原貴氏
国立スポーツ科学センタースポーツ医学研究部長。1976年東大医学部卒業後,79年東大第2内科入局。東大教養学部講師,東大大学院総合文化研究科助教授を経て,2001年より現職。日本代表選手団本部ドクターとしてこれまでオリンピック6回,アジア大会3回,ユニバーシアード4回,計13回帯同した。

萩迫猛さん
1972年生まれ。九州大学農学部卒業後,鹿児島大学医学部に入学。自他ともに認めるスポーツファンであり,2001年夏にN.Y.に1か月滞在した際には,Yankeestadiumでのシアトルマリナーズvsヤンキース戦を観戦。イチローのプレーを堪能した。特技,剣道。