第2583号 2004年5月10日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第38回

神の委員会(19)
「公正な医療資源の配分をめざして(2)」

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2581号よりつづく

混合診療の解禁が意味するもの

 市場原理派の人々は「価格を支払う意思のある人をアクセスから排除することは悪である」と「配給制」一般を否定し,価格原理に基づく資源の配分が正義であると主張する傾向がある。しかし,価格原理に基づく資源配分は,財力がない人々を資源の配分から排除する「価格に基づく配給」に他ならない。「混合診療の解禁」を主張する人々は,混合診療の解禁とは,実は,財力のない患者を必要な医療から排除する「価格に基づく配給制」を医療に導入することに他ならないという基本が理解できていないようである。

 一方,市場原理派の人々が配給制を好もうと好むまいとにかかわらず,現実の医療は,小は医師の診療時間の配分から大は臓器移植の臓器配分まで,さまざまな配給制の下に運営されている。例えば,医師の診療時間の配分であるが,金持ちの患者には長い診療時間をかけ,そうでない人には短く,などとしている医師など世の中に存在しない。重症患者,処置に手のかかる患者には長い時間をかけ,軽症の患者には比較的短い時間でと,患者の「医学的必要度」に応じて有限である自分の労働時間を配給しているのである。

 また,臓器移植にしても,血液型,組織適合性,移植を受けることの必要性など,「医学的メリットの大きさ」が配分の基準であり,臓器配分の優先順位を決める際に,レシピエントとなる患者の財力・社会的地位が入り込む余地はない。臓器配給の例でも明らかなように,社会が合意できる合理的なルールの下で実施される限り,医療における配給が不正義となることを懸念する必要はないのである。

社会が合意できるルール作り

 換言すると,医療全般における配給制の是非を論じること自体に意味はなく,個々の医療について,どのようにして社会が合意できる配給のルールを作るか,そのための仕組みを用意することのほうがはるかに重要なのである。

 例えば,仮に人工心臓が実用化された場合に,適応のある患者すべてに人工心臓を配分することは保険財政的には不可能であろう。しかし,保険財政的に不可能であるからといって,「人工心臓は高いので保険外診療とし,混合診療で他の保険診療と組み合わせる」方法がなぜ著しい不正義となるかについては,もう説明の必要もないだろう。保険財政が限られているのなら,どういった条件の患者に優先的に人工心臓を配分するのか,臓器移植のレシピエント選択の優先基準に準じる形で社会が合意できるルールを作り,そのルールに従って配給を実施する以外に方法はないのである。

 人工心臓に限らず,将来的に保険財政がいよいよ逼迫した暁には,高額医療の配給とその仕組み作りについて,真剣に考えなければならなくなるだろう。

治験の推進と研究者の財政的利得

 最後につけ加えるが,人工腎臓と人工心臓の歴史を比較した時に際立つもう1つの違いは,人工腎臓を実用化したスクリブナーが自己の財政的利得をまったく追求しなかったのに対し,人工心臓開発の先駆者コルフが,実用化の目途も立たない非常に早い時期からベンチャー企業「コルフ・アソシエーツ社」を設立するなど,人工心臓の開発にかかわった研究者は,ほぼ例外なく自己の財政的利得を求めることを忘れなかった点である。

 「コルフ・アソシエーツ社」は後に「コルフ・メディカル社」と名を変えたが,人工心臓ジャービック7の臨床治験を主導したデブリース医師も,臨床治験の舞台となった株式会社病院ヒュマナ社も,「コルフ・メディカル社」の株主であった。ジャービック7の臨床治験はヒュマナ社に舞台を移した途端に症例数が急激に追加されたが,コルフ社の株主たちにとっては治験を推進させれば大きな財政的利益を生じうる可能性があったのであり,全例が死亡したジャービック7の治験の背景には,重大な「利害の相反(conflict of interest)」が存在したのである。

 研究者自らが自身の研究を「投資対象」とする傾向は,人工心臓の開発者たちに限られたものではなく,最近では医学研究全般に見られる傾向となっている。これに対して,スクリブナーの場合は,自分が儲けることなど考えず,非営利の透析センター設立に尽力するなど,逆に自己の研究成果を社会・患者に還元することを優先した。スクリブナーは昨年亡くなったが,終生,「医学研究の最大の財源は政府の研究予算である。もともと国民の血税で行なった研究の上前をはねて,研究者個人が財政的利得を得ようとするのは筋が通らない」と,研究者が自身の研究を商品化したがる傾向を強く非難した。

 最近は,日本でも国立大学の医学部教官がベンチャー企業を興す事例がめずらしくなくなったが,もともと国の施設と資金とを使って行なった研究を商品化する行為は,本来企業が負担すべき開発研究費用を国に負担させる行為であることを忘れてはならない。

 さらに,研究開発費が節約できるということも「うまみ」には違いないが,企業にとってそれよりも「おいしい」のは,莫大な投資の下に実施した研究が失敗して商品化に結びつかないかもしれないという「リスク」を負わずにすむ点にある。成果が出,商品化のめどが立った時点で投資をはじめればよいのだから,これほど楽な商売はないのである。しかも,企業の設立者となった国立大学の教官が,「利害の相反(conflict of interest)」を無視して,勤務先の大学病院で自ら主宰者・判定者となって臨床治験を実施しているのであるから,企業としては二重三重に「おいしさ」を味わい尽くしていると言ってよい。

 前回,混合診療の解禁は医療を「corporate greed(企業の欲望)」に曝すと述べたが,医学研究者自身が「corporate greed」に毒されている日本の医学界の現実を思う時,暗澹とした気持ちにさせられるのは筆者だけだろうか。