医学界新聞

 

〔座談会〕日本のSARS対策を検証する

角野文彦氏(滋賀県湖北地域振興局・長浜保健所長=司会)
上田博三氏(厚生労働省医政局医事課長・前大臣官房参事官)
谷口清洲氏(国立感染研感染症情報センター第一室長)
前田秀雄氏(東京都健康局医療サービス部感染症対策課長)
岩崎賢一氏(朝日新聞社社会部兼企画報道部・医療班)


 多くの専門家がSARS再来の可能性を指摘する冬がやってくる。SARSに限らず,新たな感染症の脅威に対して医療者は,行政はどう立ち向かえばよいのか。先のSARS対策で見えた課題をもう一度整理するとともに,改正された感染症法などを踏まえた今後の対策のあり方について,5名の異なる立場から議論していただいた。 日本のSARS対策を検証する 


■検疫体制の問題

完璧な検疫は困難

角野<司会> 先のSARSへの対策を通じて,さまざまな感染症対策の問題点が見えてきました。今回は主に公衆衛生の観点から,検疫,疫学調査,連携体制,情報戦略の4つのテーマについて,それぞれのお立場からご提言いただきたいと思います。
 まずは検疫体制について,議論を進めたいと思います。
上田 SARSに対する検疫については,診断基準・診断方法がない中で,臨床的な発熱という症状で見つけなければならなかった点で困難を極めました。サーモグラフィを検疫に導入したのですが,風邪薬を飲んでくればそこは素通りできてしまうのです。
 東アジア・東南アジアからは,人数にして何千人もの方が毎日入ってきていますので,対象をある程度絞るために症状のある方に申し出てもらう仕組みだったのですが,徹底が困難でした。
角野 その場合,外国人を含めて,人々にかなりの協力を求める必要がありますよね。こちらとしての体制はあっても,やはり任意の体温測定,自己申告が原則です。国民の義務として,社会防衛という観点から皆が協力してくれればいいのですが……。
上田 より効果的な検疫のためには,迅速診断法の開発が求められます。それがない場合には,良識や,自覚に訴えるということになりますので,やはり情報提供が重要になります。今後は理解が深まってより協力も得られるようになると思いますが,どうしても隠したいという人たちについては防ぎきれない部分がありますし,まして自国民の場合は,その方を入国させないわけにもいきません。出国時の情報提供を外務省と検疫所の努力でさらに強化することが重要と思います。しかし,検疫だけで完璧に防御するのは難しいだろうと思います。
谷口 こういった潜伏期がある疾患については,水際だけで止めることは基本的に不可能です。そうすると,入国後にどうしたらいいかということが重要になります。やはりきちんと情報提供をして,「これはあなたの家族の問題です」ということを理解していただくことしかないと思います。
岩崎 検疫機関のモチベーションの問題という点もあると思います。5月1日,厚労省は入国者全員に体温検査をすることを決めましたが,実際に成田空港を取材してみると,検疫ブースのずっと後ろのほうに体温計が置いてあるだけでした。サーモグラフィーの前はいろんな到着便の人が混ざってしまっていて,検疫官はきちんと画面を見ているわけではない。もちろん,「体温計で測ってください」という呼びかけは一言もありません。
 成田空港の検疫官の方たちに聞いてみると,止めることによる人権侵害があるのではないかということ,それから利便性の面でお客さんを基本的には止めていないと言っていました。また,到着人数に対してスタッフの数が足りないという話も聞きました。ただ,人の生死がかかる感染症対策ということを考えた時,本当にこれでいいのかと思うのです。4月の下旬に,香港・広州から帰ってくる到着便の方に,話を聞きました。すると,「こんなに簡単に入国できていいのか」という声が多かったのです。命にかかわる問題ですから,もう少し強く出てもよかったのではないかと感じました。

時間軸に沿った形の検疫を

谷口 外国を見ますと,いろいろなバランスで検疫を行なっています。アメリカは入国時の検査をやっていません。情報提供だけで,感染地域から帰ってきたとしても,症状がない限り,行動を制限しません。その代わり,後のフォローをしっかりやる。台湾では,感染者が出た地域から帰ってきた人は10日間隔離されます。マレーシアの様子を見ますと,入国者がズラーッと並んでサーモグラフィの順番を待っているのです。誰も文句を言っていませんでしたね。
上田 アメリカは,入り口ではなく,国内で抑えるという形ですね。国の体制をみると,職員だけでもわが国の10倍以上の規模になっています。この点からだけでも,発想と体系がまったく異なっています。ただし,日本も参考にするべき部分はあると思います。
前田 検疫の発想を変えて,時間軸に沿った流れの中で,検疫を進める必要があると思います。今回,検疫法が改正され,感染の恐れのある方については,その後の発熱などの症状があった場合には連絡を取って検疫所が確認し,それから保健所に情報を提供するということになりました。これは断面ではなく,時間軸に沿って検疫を延長していくもので,非常によいことだと思います。もう少し広く,検疫を軸に,国際感染症への対応として考えていく必要があると思っています。
上田 少なくとも,日本の検疫に対してのインパクトは大きかったと思います。近年,日本に外来感染症が入ってくることが少なくなって,検疫の余力は,むしろ食品の検疫や衛生に回していたという経緯がありました。今回,SARSで改めて感染症対策に目が向けられたわけです。これは非常に意味があると思います。
 これまで日本人は国内に住居があるので管轄の保健所に通報することで対処可能だったのですが,外国から来た人については,ホテルを移動するとフォローが難しくなるという問題がありました。今回の感染症法などの改正によって,外国人でも発病した人を追いかけることはもちろん,疑わしい症状のある外国人でもフォローする仕組みに変えた点は前進したといえます。
角野 再度,検疫機能を充実させるよいきっかけになったということですね。この冬以降に向けて,新しい体制が有効に機能すればいいかなと思います。

■疫学調査の問題

失いつつあった経験

角野 それでは,疫学調査の問題に移りたいと思います。感染症法ができて以降,積極的疫学調査をやったところがあるかというアンケートを,全国の保健所を対象に取った結果,「やったことがある」という所はけっこうあるんですね。ところが,法に基づいた積極的疫学調査をした場合に義務とされている厚生労働大臣への報告は1件もあがっていません。
 また,疫学調査を強引にどんどんやるとなると,人権問題になることがあり,これもまた現場で頭を悩ませるところです。
上田 まず情報を収集して,何が危ないかを見出し,調査に着手していくという訓練が十分にされておらず,SARSの場合,法的にも明確なものがありませんでした。現場の方が比較的多く経験しているのは,食中毒のように相手はたくさんいるけれども絞り込んでいきやすいケース,あるいは典型的な結核の感染者や発病者の周辺を綿密につぶしていくケースのような,SARSからみると,いわば両極的なものだろうと思います。
岩崎 保健所の統廃合や,保健所が福祉分野を担うようになったことも原因の1つと思いますが,やはり感染症の実地疫学調査のノウハウが継続されていないという問題を感じました。実際に食中毒と比べて,感染症の場合は圧倒的に経験が少ない。そこをどう立て直していくのかということが,大きな課題だと思います。ただ,地方自治体,保健所の人も考えてほしい。保健所の機能については皆さんが地方分権を求めてきました。その自覚は必要です。国まかせではダメです。
前田 東京都は,比較的感染症発生事例が多いため,その経験をマニュアル化して,正に「積極的」に疫学調査を行なってきました。今回,法改正によって,発生届がなくても,感染症の発生を予防するために積極的疫学調査を行なえることが明確に位置づけられ,これまで以上に充実した調査が可能になりました。ただ,その制度を保健所がうまく活用するためには,これからさらに訓練や実践を積み重ねていかなければならないと思います。
上田 情報を取る場合に,今回の疫学調査でもそうだったのですが,保健師と医師だけが動いているケースがあったことも気になりました。SARSでは,例えば食品衛生監視員や,環境衛生監視員の積極的な関与によって,もっと多くの基礎的な情報が得られて,後の疫学調査もやりやすかったのではないかと思います。保健所単位で,疫学調査を新たな課題として,今後,仕組みを作っていただきたいと思っています。

リスク・コミュニケーションの視点

前田 調査のあり方についても,過去には行政側が調査をし,住民側は取り調べられるという,「被疑者」のような感じでしたが,これからの感染症対策は住民や関係者とリスクに関する情報・経験を共有することによって相互理解を図るリスク・コミュニケーションの視点が重要です。疫学調査についても,「あなたの」あるいは「あなたの家族の」リスクがどこにあるのか。どの程度なのか。どうすれば防げるのかということを対話しながら理解を得,また共通認識を築くという姿勢で進める必要があると思います。
角野 保健所の職員はかなり技術が要りますね。
前田 以前に比べて,保健所もヘルスプロモーションの視点から住民参加で健康づくりなどを進めています。そうした取り組みによって蓄積された住民と関係性を築く技術や,地域の関係機関との情報の共有化の試みを広げていくことによって,感染症対策についても上意下達ではなく,住民参加で,これは地域の皆で取り組んでいかなければいけないという協同の意識で取り組んでいけると思います。
谷口 調査の時に最も大事なのは,いわゆる「ムンテラ」です。メディアが先行して,恐い情報ばかり聞いていますので,皆恐いんですね。そこを,わかりやすく話していくと,ほとんどはきちんと協力してくれると思います。

FETPで人材教育を

角野 感染研からは実地疫学専門家養成プログラム(Field Epidemiology Training Program=FETP)のチームが調査のために派遣されました。自治体からは「来ていただいてよかった」という声も出ていますが,その立場が微妙だったという声もまたあります。
岩崎 FETPコーディネーターの砂川富正先生とも話をしましたが,調査をしても助言までしかできない,弱い立場だということでした。
谷口 まず,人数の問題があります。感染症情報センターからは正規のスタッフである3人しか出せませんでした。FETPはあくまでも研修コースですから,スタッフでなければ,万が一そこで感染した時,誰も責任を取れないのです。アメリカの疾病対策センター(CDC)の実地疫学コースでは,研修中も職員として扱われていますし,日本でも,FETPの2年間だけでも職員にしてもらいたいと思っています。
前田 FETPの力を最大限に活用するためには,自治体から職員を派遣し,修了後,感染症対策の指導者と位置づけるとともに,獲得されたノウハウを自治体に還元し広げるなどの積極策が必要だと思います。東京都では今年度から若手医師1名をFETPに派遣していますが,すでに,感染症研究所との連携や情報の入手のうえで大変役立っています。
上田 FETPへの自治体からの派遣は,人のネットワークをつくる意味でも重要ですね。
岩崎 今回の感染症法の改正で疫学の専門家を国が派遣できるとありますが,疫学調査を積極的に,ある程度の権限,力をもって,広域的に起こった場合に指導・指示ができる人がやはり必要だと思います。

■連携体制の問題

自治体側の体制整備が急務

角野 次に国と自治体との連携体制というところに議論を進めたいと思います。感染症対策は原則として地方自治体が行なうということですが,今回の台湾人医師の事例では,自治体が国の指示を待っていたようなところがあったと聞いております。また一方では,国がもっとしっかり指導すべきではないかという意見も出てきております。
上田 国と自治体が連携して,一体となって動こうといっても,例えば通達を県に出しても,保健所に届くには通常のペースだと1週間近くかかるんですね。途中にいろいろな手続きが入るためなのですが,それでは危機管理には対応できません。こうした連携を常日頃から意識していない限り,いざという時に対応できないと思います。国の指示待ちだったのではという問題ですが,実際には,保健所が自発的に動いて,むしろわれわれよりも情報を持っていた自治体もありました。まず,現場は素早く動き,それを判断する中枢部はその情報を基に的確な判断をしていく。その積み重ねがいろいろなレベルにあって,国と自治体の連携がはじめてうまくいくのだろうと思っています。
角野 都道府県が今の地方分権の流れのなかで頑張っていく責任がありますが,感染症対策は,国が監視していかなくてはならないという一面もあると思います。
上田 アメリカのような感染症に関する強力な国の組織,研究所があれば,国による監視も可能です。しかし日本は今,地方分権の流れの中で逆の方向に向かっています。日本流の,国と自治体が協力して問題にあたる方法を見出さなければなりません。
前田 辛口に言わせていただけば,今回の混乱の原因は,国の権限がどうという以前に,基本的には自治体側の力不足にあると思います。伝染病法から感染症法に変わって,それまで市町村が隔離消毒を担っていた感染症行政を,近代的な医療・疫学を中心に都道府県単位で展開する体制に変わりました。ところが,各自治体での体制の整備が,財政事情のせいもあり,一向に進まなかったという実情があります。その典型といえるのが,第1種感染症指定医療機関の整備状況です。東京都は2病院4床を有していますが,現在でも10都道府県でしか整備されていません。昨年までは,周辺の県から「いざとなったら貸してください」と言われることが多く,自前で整備することは検討されていないような印象を受けました。
 この問題に象徴されるように,いくら国が権限を持って指示を出しても,都道府県側が基盤整備に取り組まなければ,絶対に対策は強化されません。
岩崎 朝日新聞が独自に4月,都道府県の感染症担当課に患者の受け入れについて聞いてみたのですが,ある自治体の方は,「感染症法では,新感染症の患者は特定感染症のルートで受けることになっている,すると国の責任ということになるので,うちの県は泉佐野病院か国際医療センターに送ります」と言っていました。移動させることによる感染拡大のリスクや,患者の容態の問題もある。それにもかかわらず何時間もかけて搬送するんですかと聞くと,「法律がそうなっている以上,やります」と。
 患者を入院させた時のリスクということもあるとは思いますが,厚労省はそのように言ってはいないわけで,都道府県の姿勢が問われるところではないかと思います。

地衛研を中心にした体制も

角野 ところで,保健所だけではなく,府県にある地方衛生研究所(地衛研)を中心としたプロジェクトチームを常駐させ,対策にあたる体制も考えられると思います。
谷口 角野先生のおっしゃるように,地衛研に地方の感染者情報センターが置かれているところもあります。地衛研の強みはラボがあることで,実際に今年の冬は,WHOの勧告によれば,1つの医療機関で2人以上のSARS疑いの患者が出たら,SARSと考えて調査せよというんですね。調査には疫学調査も含まれますが,ラボの鑑別診断がきわめて重要になります。保健所と本庁と地衛研の連携について,これを機会に明確なシステムづくりをしておくのが,今後のためによいと思います。また,感染症対策の中で今,地方にある情報センターの役割がきわめて曖昧ですが,この機会にまとめておくべきだろうと思います。

■情報戦略の問題

SARSにかかわる情報公開の経緯

角野 では,次に情報戦略の問題に移ります。われわれ行政側は情報を持っているわけですけれども,それを住民の方々,一般にどう知らせていくかということがあって,このタイミングが難しい。遅れても具合が悪いですし,早すぎてもいけない。
岩崎 台湾の医師のケースの場合,5月16日に厚生労働省が記者会見を開き,そこから断続的に記者会見が開かれていますが,この段階では,その行程が公表されていません。
 朝日新聞は16日の夜の段階で,この医師の立ち寄り先を入手していました。それをどこまで公表するのかという難しい部分があって,その日は結局,厚生労働省の発表に沿ってとどめました。ただ,濃厚な接触者がいそうなところで二次感染が起きていれば大変な問題なので,取材には動いていました。
 それから,今回は台湾の人でしたが,これがもし日本人だった場合にはどうするのかという問題もあります。その人の生活にかかわる行動をどこまで公表するのかということには,決まったルールがありませんし,非常に判断が難しいところです。ただ,情報を伏せることによって社会的な混乱が起きてしまうことがありますので,重篤な感染症の場合,集団防衛の観点からも情報を公開すべきだと個人的には思っています。
角野 大阪市保健所への問い合わせも,ホテル名を公表したあとはずっと減りましたけれども,それまでは,「いったいどこのホテルだ」という問い合わせがかなりきて,業務に支障をきたしたと聞きます。
上田 厚生労働省が行程を確認するのには,結局17日の朝までかかりました。17日の午前中に,公表すべきか自治体に相談しています。当時の高原亮治健康局長が最も恐れていたのは,医療機関での感染爆発です。すでに離日して3-4日経っているということは,二次感染者が医療機関に行って,そこでさらに三次感染が起こっているかもしれない。早く公表して,危険性のある方には協力をお願いしたほうがよいという考えがあったのですが,結局自治体との間で意見がまとまらず,その時には公表しない方向になりました。ところが,「宿泊したのは大阪のホテル」というような断片的な情報だけが出て行ったものですから,当然,国民から問い合わせが殺到しました。また,疫学調査をするにも,調査対象者が何千人にもなってしまってはとてもフォローできませんので,やはりきちんと公表しようという考え方に戻ったのです。
 公表にあたっては,風評被害を避けるため,ホテルなどの当事者には了解を取ることを,それぞれの自治体にお願いしました。そのうえで,2日後の公表に至ったのです。このプロセスについては賛否両論ありますが,その時点,その時点でギリギリの判断をしたと,私は思っています。ただ,もう少しこういった場合の手順やルールを,準備しておく方法はあったと思います。

「カイワレ訴訟」に象徴される情報公開の困難

前田 ところで,この話題に関する大変象徴的な出来事として,SARS騒ぎの最中に,「カイワレ訴訟」で国の敗訴という判決が出ました。われわれもこの結果を聞いた時に,「じゃあ,どうすればいいんだ」と思いました。本来は,感染を拡大させないためにはできるだけ早く,時には100%確定していない情報でも予防的に公開することが必要だと思います。しかし,最終的に確証が得られなかった場合には,行政側の対応は誤りだったといわれてしまう。となると,やはり,やたらな情報の公開には踏み切れません。状況に応じて,感染拡大と情報保護のギリギリのラインを見極める総合的な判断が行政側に求められることになると思います。
岩崎 厚生労働省の食品関係の職員の方たちに聞くと,高裁判決では負けたけれども,また同じようなことがあれば公表しなくてはならないでしょう,と言っています。人の命にかかわることで,エビデンスを待っていたら,何人の人の命が失われ,危険な状態にさらされるかということです。
上田 SARSについても,公表の原則は,感染拡大をいかに防ぐかに一番のポイントを置くべきであって,公表によって接触者が注意することが感染防止対策として有効だと判断するなら,公表すべきだと思います。ただ,そのことによって風評被害を受けた方を救済する方法がありませんので,そこは十分,個々に了解を取りながらやらざるを得ません。
谷口 欧米では,疫学的な事実があるということだけで,情報を公表したり,リコールをかけたりして,あとから病原体が出なかった場合でも,裁判で負けないんですね。どういうわけか日本では,疫学的な証拠は証拠と見なされないことが多くあります。

「パフォーマンス」が持つ意味

前田 行政が「ここへ立ち寄った」と発表すると,「そこにリスクがある」と解釈されます。例えば今回の関西の事例では姫路城を消毒していましたが,それは姫路城には感染の危険性があると言っていることになるのです。やはり,行政はそういう目で見られていると自覚して,感染拡大予防のために公表すべきリスクは,どんな困難が予想されても公表すべきですが,科学的にリスクのないものついては,はっきりないという立場に立たなければなりません。そうしなければ,誤った知識,情報が広がってしまいます。
谷口 私が地方自治体から消毒すべきかどうかという相談を受けた時は,もう1週間以上経っていること,屋外が多いことを考えると,紫外線で十分消毒されているから,必要はありません,と答えました。しかし,そうはいかない,何かしなければいけないと言うので,最も影響のなさそうなエタノールで拭いておくことになりました。おそらく,行政には住民を安心させるためのパフォーマンスもある程度は必要なんでしょうけれども,実は担当の方自身も,必要がないと思っているんです。
角野 報道のされ方についての問題もあります。われわれとしては「最低ここは書いてほしい」「国民に知ってほしいのはここです」ということを言うのですが,それが抜けてしまって関心の高そうなことだけが報道されてしまうことが多い印象があります。
上田 今回の行程表でもそれぞれの場所に感染のリスクの有無を併記したのですが,ほとんどそれは誰も見てくれなかったと思います。私は大事なポイントだと思っているのですが……。
岩崎 これは朝日新聞の場合ですが,すべての行程が明らかになったからといって,そこにあるすべての場所で接触者にリスクがあるわけではない,という,その押さえになるような解説記事をあわせて掲載するようにしています。行程表にあるものをそのまま掲載するということでは必ずしもありませんが。
 しかし,伝えていてもきちんと理解されない部分があります。どうしても新聞やテレビになると,「これは1回書いたから」「1回放送したから」というケースがよくありますが,やはり繰り返し伝えるということが重要になりますね。また,いくら行政がPRしても,マスコミが正確な情報を事前に提供しても,国民すべてが同じレベルの知識を共有することは不可能という現実を踏まえた対応を考えるべきだと思います。

報道は重要な感染症対策の1つ

上田 行政がこのような問題に際して,メディアとのかかわりに慣れていなかったという問題もあります。例えば自治体とわれわれで発表時間を合わせて,「だいたいこの線で発表しましょう」と事前調整をします。ところが,それぞれの記者クラブで質問が違う。そうすると,想定している以上のことを話してしまうわけです。「国がここまでしか言ってないのに,なんであそこはあんなことを言うんだ」というように,われわれも自治体を信じられなくなり,逆に自治体もわれわれを疑心暗鬼の目で見る。記者の方々も,現地の記者と厚労省担当の記者では,「ちょっと違うじゃないか」となって,どんどん混乱していくということがありました。
 メディアにどう説明して,どんな情報を伝えなければいけないかということが訓練されている人を養成する必要があると思っています。
前田 過去の行政の意識としては,自前の媒体で発表するのが広報で,新聞記事などは,たまたま目にとめられたことが掲載されたという感覚だったように感じます。しかし,感染症対策においては,正確な情報の迅速な提供は必須の要件であり,今日のような情報化社会においては,戦略的に報道機関と連携して,マスメディアを通じた情報提供に積極的に取り組んでいく必要があります。

これからの感染症対策のために

角野 最後にまとめとしてそれぞれのお立場からご提言をいただければと思います。
谷口 今冬SARSの再興が危惧されておりますが,少なくとも現在は世界でSARSが確認されていない,「非流行期」なのです。これを前回のような「流行期」と混同すると無用のパニックを引き起こします。今冬はまずは,インフルエンザ対策をしっかりやる。WHOの言っているSARSアラートのごとく,院内感染対策を強化する。そして最後に,現時点ではSARSは原因不明の肺炎の鑑別診断の1つであるということを認識し,また感染症はSARSだけではなく,結核も絶えず院内感染の危険があるわけですから,標準予防策を再確認することが大切だろうと思います。
上田 今年の冬は,今回のように流行地ができることなく,突然日本に入ってきて,ある医療機関で流行がはじまるということもあるかもしれません。医療関係者はSARSのことを絶えず念頭において診療にあたる必要があるだろうと思います。もちろん行政関係者も,SARSを忘れないようにしなければなりません。
 また,SARSのようにまだ知見が十分でないものは,危険性を白黒で二分することは難しいです。二分法ではなく,リスクの重さを測って,それに基づいて判断や行動をするという姿勢が必要です。
前田 今回明らかになった課題に対しては,単にSARSの再来に備えるための姑息的,一時的な対策としてではなく,その蓋然性が否定できない新興・再興感染症の発生に対する,公衆衛生としての基盤システムを強化していくという大局的な観点から対応していきたいと思います。
岩崎 国が方針を示さなければできないとか,検査キットがなければできないなどという以前に,実は現場の発想ひとつでできることがたくさんあると思います。例えば東京都では,2002年に都と保健所が一体となって,全病院の院内感染対策の立入検査をしています。書類上だけではなく,実際にディスカッションをして実態を調べています。このようなことは,日々,保健所レベルで,国や県の指示がなくてもできる話だと思います。
角野 今後,国,地方自治体の協力の中で,よりよい感染症対策を構築していければと思います。本日は,どうもありがとうございました。(終了)

※編集室注 96年に大阪府で起こった,E.coli O-157による集団食中毒発生で,カイワレ大根をほぼ原因と発表した厚生省(当時)に対し,不適切な情報公開によって損害を被ったとしてカイワレ大根業者が訴えた問題。本(2003)年5月の東京高裁における控訴審判決では,国の逆転敗訴が言い渡されている




角野文彦氏
 86年滋賀医大卒。全国保健所長会会長,日本公衆衛生学会感染症対策委員長を務め,健康危機管理の問題に精力的に取り組む



上田博三氏
 78年阪大卒。本年1-8月の間,厚労省大臣官房参事官(健康担当)を務め,SARS流行当時に対策の中心として活躍した



谷口清洲氏
 84年三重大卒。ウガンダにおけるエボラ出血熱の疫学調査に携わるなど,感染症疫学専門家として活躍。本年10月にジュネーブで行なわれたSARS国際会議にも出席している



前田秀雄氏
 82年日医大卒。東京都・区保健所などの勤務を経験し,都市部における感染症対策を行政の立場から推進している



岩崎賢一氏
 朝日新聞記者として医療分野,特に感染症対策を中心に取材を行なう。SARS対策についても精力的な取材活動を展開した